北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/23/142810

さて、筆者は先の第二弾「松前編」に続き、第三段として胆振〜日高へまたまた一泊二日の弾丸ツアーを敢行した。

今回の主テーマは三つ。

1.厚真…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/28/202837

昨今、学んでいる厚真の発掘調査で、基本層序がどう捉えられ、どの様に判断されているか?を学び、出来れば関連出土品(特に硯?)らを見学する。

2.様似…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849

町の作りはどうか?、金鉱山やキリシタナイの情報収集。

又、観音山に石垣はあるか?の確認。

3.静内…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/05/180013

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/28/202837

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

昨今の中世城館の延長線上でチャシを見る事、ならこの際ド本命であるシベチャリチャシを見てみよう。

以上の3点。

では、真っ先に向かった「厚真町軽舞遺跡調査整理事務所」から。

核心部から報告する。

 

①基本層序の捉え方…

これが、発掘調査報告書で見てきた厚真の基本層序の剥ぎ取り。

・黒色土層について…

確かにTa-b直下に黒色土層があり、

Ⅲ層a…1cm(Ta-bと混じる)

Ⅲ層b~C…5cm

でbとcの間には、部分的に白頭山−苫小牧火山灰が点在する。

このⅢ層bをどうやってU,M,Lに分けるか?

筆者の比喩に頷いて戴けたので…

「土層をカンナ掛けする」イメージ。

真上から見たまま「面として捉えている」そうだ。

意地悪な質問をしてみた。

長さ10cmの遺物が斜めに検出した場合はU,M,Lどれにとるか?

これは、「カンナ削り」の段階で、途中の焼土跡や集石遺構らの位置関係らと合わせ、あくまでも面として判断するとの事。

私観として、その下にあるⅣ層が斜面や凸凹になっている場合、ズレはないのか?とは感じたが、まずは現状の方法を理解するのが先なので、敢えて再質問はしていない。

と、黒色土層が他の胆振の遺跡より薄い事については、詰まったり混じったりはあり得るとの事。

これの原因となるのが、冬の凍結と解凍が繰り返される事だそうだ。

現実として、Ⅲ層aは混じっており、当然、これは北海道では起きるのだそうだ。

実はそれを止めてくれているのがTa-bら火山灰で、地表面からパッキングする事で温度変化の影響が出にくくなる傾向があるとの事。

説明してくださった方は、余市奥尻島へも着任経験があり、黒色土層の混ざりの程度はそれらよりは良いと見ているとの事。

私観として、それなら恐らくその傾向は北海道~東北では共通だろう。但し、北海道で固有の事があるなら、黒色土層含めて土層堆積が遅い傾向にある事。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

それは地質学らの学びで捉えている。堆積が遅いなら、東北より影響は大きいかも知れない。

今迄、北海道の発掘では、包含層遺物として一括取り上げする事が多かった為に、黒色土層中の遺物の年代は幅を大きくとる必要があったとの事。それで手間は掛かるが「カンナ彫り」をしているそうだ。

但し、編年指標となる遺物が出ないと、年代特定には至らない。

これが課題で、例えば内耳鉄鍋の指標化らが必要になってくるとの事。

・火山灰層…

ズバリ確認した。

バックホーで削り取る事で遺構の破壊がされるのではないか?と。

即答…その通り。

で、厚真の場合は、主任立会を必ず行い、何かあれば即ストップをしているとの事。

ここも基本的にはカンナ彫りのイメージではやっているそうだ。

但し、これは現在の厚真の話で、現実として、立会無しでの重機使用をしているケースを知っているそうで、この場合は確実に破壊は起こっている。

この辺に注意を割く必要があるのは、「極稀に火山灰層に遺物が出る事があるから」だそうだ。

Ko-c2とTa-aの途中に僅かにしかも点在で黒色土層が出る事があるそうで、その場合、遺物その部分から出る事が無くはないとの事。

これは、千歳周辺で確認されており、人の活動が行われた可能性が出てくるから、用心する様になっている模様。

私観として、1694~1740年の何処かで黒色土層が出てくるなら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/02/071009

寛文九年蝦夷乱が終結し、北前船就航と場所請負制が開始され、知行制が始まる頃。

同時にロシアがカムチャツカを蹂躙し、千島北部への侵攻を開始する頃に合致するのではないだろうか。

ぼちぼち人の移動が開始され、雇用創出と景気拡大が起こる頃で、それが証明される事になる。

むしろ逆に、1694年+αは無遺物層で、人の活動痕跡がほぼ無い事を証明してしまう事にもなる。

結局、我々が言ってきた事が土層で証明されてしまうのだ。

北海道では、Ta-bら直下の黒色土層を「黒1」、縄文の黒色土層を「黒2」、そしてこの1694~1740年の黒色土層を「黒0」と呼び始めているとの事。

ただ、先に貼ったブログの年表通り、文献に出始める時期から何ら変わりはせず、発掘主任の判断次第で立会しない場合は「黒0」の遺構,遺物が失われている事は何ら変わりはない。

厚真を見習おうと言ったとしても、工事事業に伴う緊急発掘なら守り切れるか?は未知数のまま。

厚真の発掘は、頑張っている方なのだ。

実情はこんな感じらしい。

 

②遺物の確認…

一連注目してきた厚幌ダムの遺物は、学芸員さん立会の元で保管室で見せて貰えた。

学芸員さん(土層解説して下さった方は、当日📺取材が入っていて、別の方にタッチ)が見せて下さった物の他に、筆者は該当発掘調査報告書を持参していたので「これを見せて貰えませんか?☛」と確認してみた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/19/193804

これが「一里沢遺跡」の「硯?」と「ワイヤー状鉄製品」そのもの。

硯?は触らせて戴いたが、確かに片面はかなりスベスベに研磨されている様だ。

見せて下さった学芸員さん曰くでは、粘板岩はこんな剥離をする事があるので、どんなものか…?と、少々懐疑的ではあった(これの担当は別の方)。

折角なので、赤外線撮影で墨の検出は墨書で実績あるが予定は?と聞いたが、今の所は確認予定は無いようだ。

まぁ、擦文文化期での文字検出は、センセーショナルではあるが、逆に考えてしまうものらしい。因みに粘板岩の出土はこれたった一個であるのは間違いない。

硯の欠けた破片…で説明出来るのも確かではある。

と、ワイヤー状鉄製品…確かに針金をワイヤーみたいに捻っている。

ここで従来からのコイル状製品の派手なものも見せて戴いた。

墓の副葬なのだが、上から出土状況、コイル状鉄製品、銅鏡の実物。

捻りを加えたり、コイルに巻く理由は全く解らないそうだ。

ここで、出土状況の通り、このコイル状鉄製品は、頭蓋骨との位置関係で、首に巻かれていた事になる。

こんなもの、首に巻くのは重くてムリ。全く副葬として巻いたとしか思われないそうだ。

同時に、タマサイの様なものとすれば、これ一つなら祭祀で使う物が残されなければ、この祭祀は伝承不能になる。

何かの代替として巻いたとしても…謎だそうで。

同時に銅鏡…

一個だけ穴が開いている。

これも解らないと。

銅鏡がどんなものか?は京都で調べたりして概ねの年代と、近辺の実績で羽黒山には行き着いたとの事。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

出羽三山信仰の伝播ルート、鏡ヶ池の実績と博物館で見られる事。

秋田での銅鏡の状況と国見廃寺の実績でも銅鏡出土がある事、懸仏に変化する過程らを伝えて来た。

ぶっちゃけだが、今回の二人の学芸員さんが見たい行きたいと仰る場所、筆者は全て回っている。

話の出たところは、知っている事は伝える…これは仁義だと思っている。

勿論、お二方とも驚いたが。

現実、この捻りに関しては、全く解らない…これが実態。

と、言う訳で、信仰の話が出たので付随して。

上幌内1遺跡の銅碗やキビ炭化物が集中する焼土跡…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/21/203750

これをスタートラインにして、徐々に変化して、アペフチカムイの宝物・有用器物を破壊し 火にくべる行為へ至るのではないかと考えている様だ。

但し、千歳らの実績や銅碗らを鑑みるに、最近は「修験系祈祷からの派生、又は強い影響を受ける」という見方に変わってきているそうだ。

つか、筆者やSNS上の会話では、端からそうだと言っているし、むしろ口蝦夷はモロに修験道を信仰し、それが北方系要素を持つ奥蝦夷へ伝播したと思っているので、全然驚かない。

六器や錫杖、対岸の傾向を鑑みるなら「極当然の事」で、何を今更…

似たものは幾らでもあるし、むしろ伝播が何時か?だけの事だろう。

蝦夷に伝播したのは、かなり後代かも知れないのだが。

まぁそこまでは伝えてはいない。

だがその点に関して、筆者がペラペラと修験伝播ルートらを話す事が出来た段階で、関与を考える者がいるくらいは気付くだろう。

何せ、ここの目玉の一つは経壷なのだから、調べる者位居る。

 

③その他…

ここ、厚真町軽舞遺跡調査整理事務所では、触れる文化財がポリシーの様だ。

物により触ったり持つ事が可能。

指が写ってしまった。

これ、縄文のキラキラ土器(十勝溶結凝灰岩混じりの土器)。

勿論、写真らもOK。

又、収蔵品は出土品に限らず、アイノ文化に類する物や古民具も含み、それらも見学可能。

親切且つ丁寧な対応と解り易い説明をして頂き、更に筆者が周辺発掘調査報告書を集めている事を見て、在庫品の報告書を戴けた。

この場を借り、改めて感謝したい。

ありがとうございます🙇

では、厚真篇のトリはこれにする。

最北の経壷と考えられる渥美焼。

奥州藤原氏ら、東北の豪族達との関係や、宗教の伝播を示唆させる貴重な物。

常設展示している。

お勧めの場所である。

 

と、いう訳で、筆者はバタバタ次の訪問先へ向かうのであった…