「アイノ文化の献酒方法」?、実は…蒲生レオン氏郷から酒を給されたのは誰か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/05/134926

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019

ちょっと南部氏絡み?

中世南部氏の居城「聖寿寺館」の工房跡にアイノ文化に通づるらしい痕跡があるのは概報。

工房では中柄やシロシではないかと言われる「+」が底にある陶器が出土している。

解っているのはここまでだった。

 

さて、話は北海道へ飛ぶ。

いきなり引用…

「古文書にあらわれたアイヌの献酒作法について、杉山寿栄男氏と河野広道寿の文献と、古文書を参照して第Ⅰ表に要約した。古い時代のアイヌの献主作法をみると、(1)戦国時代の蒲生氏郷記には、「氏郷の前に召して酒を給はりければ、盃の上に箸を一前のせて酒を受け、其箸を持ち立、色々の舞をまい箸にて髭をかいげてぞ呑みける。」〜後略」

 

「有翼酒箸の諸形式と地域性」 名取武光  『河野広道博士没後20年記念論文集』 河野広道博士没後20年記念論文集刊行会 昭和59.7.12  より引用…

 

これで興味を持ったのはある。

たまたま河野広道博士没後論文集に有った論文。

同書では献酒作法として、

蒲生氏郷記…戦国時代

蝦夷筆談記…1709年

北海随筆…1739年

にそれらの記事があると示す。

優先順位を下げつつ、その内に…と思って概要だけ調べていた。

・この記事は「蒲生氏郷記」ではなく「氏郷記」の様だ

・氏郷記の記載者や年代は詳細がハッキリ解らない様だが、蒲生レオン氏郷についての軍記を後の世で書き直している様だ。

・この一節は、蒲生レオン氏郷が「九戸政実の乱」で蝦夷衆の謁見を受け、酒を勧めた際の事らしい。

ここまで。

暫くして、たまたま昨今にバテレン南蛮人の記録漁りをしている中で、たまたま持っていた文献の中にそれを見つけたので、一人ほくそ笑んだ次第。

探して買う手間と財布の紐が助かった。

この辺が、パズルのピースが勝手に集まると言う事例。

さて、蒲生レオン氏郷に謁見した人物は?

名取博士はアイノとして紹介している。

確かに新北海道史ら史書、氏郷記、奥羽永慶軍記らでも、この九戸政実の乱へは松前慶広が蝦夷衆を従え従軍したのは記載があり、奥羽永慶軍記では300人の蝦夷衆に毒矢を持たせたとある。なので、この内の何人かが謁見したか?と思っていたので、原文を探していた訳だ。

では引用…

「同九月中旬マテハ城を拘へて見ケレトモ次第ニ兵糧モツキ矢種玉薬モ尽ケレハ遂二九戸降参ヲ乞テ命を被助候ハ、城ヲ明渡サン由申ケリ(略)又夷人二人ヲ毒矢ヲ射サセン為ニ城中ニ籠ラセケルカ此者トモ鉄炮ヲ恐レテ出サリシカハ城ノ矢倉ヨリ左アリ気ナル男進ミ出大音声ニテ申ケルハ此城ニ夷人二人籠城イタシ候ヲ出シ度候カ鉄炮ヲ恐レテ出兼候此口ノ御鉄炮ヲ被止給候へカシト申ケレハ其手の鉄炮を被止ケリ其時二人ナカラ城ヨリ出ケルニ氏郷ノ前ニ召シテ酒ヲ給リケレハ盃ノ上ニ箸ヲ一前ノセテ酒ヲ受其箸ヲ持テ立色々ノ舞ヲマヒ箸ニテ髭ヲカキ上テソ呑ケル其後二人トモニ暇ヲ給テヒ遣ケリ」

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫  三一書房  1983.5.31  より引用…

 

と言う訳で、海保嶺夫氏が北海道に絡んだ史料を集めた中にあった。

これを読む限りだと、九戸政実が籠城戦の末の降伏の際に、仕置軍の鉄砲にビビり出て来れなくなった二人の夷人、鉄砲を止めて出て来たところを蒲生レオン氏郷の前に出され酒を勧めたところ、盃に箸を乗せて受けて舞ってから呑んだ。

その後二人は開放された…

こんな感じである。

待て待て…

それなら九戸軍側になるのでは?

では、(略)とある中略された部分は?

ここからはググッて戴ければ、原文が有ったりする。

一応著作権らがどうなっているか解らぬので掲載は控える。

九戸政実の乱の結末は割と知られた話だと思う。

降伏勧告を飲んだ九戸政実は、籠城していた者達を勧告通り二の丸に移し、重臣と共に白装束で城から出て後に斬首。

二の丸に移された者達は皆殺し…である。

二の丸発掘では女性らの骨が出土し、凄惨を極めたこの話はある程度立証されている。

(略)の部分に記載されたのは、九戸政実らの処置と妻や子を処刑した場面。

この引用文の後に続くのは二の丸での惨劇の部分。

つまり、夷人二人は、数少ない生き残り…か。

キリシタン大名蒲生レオン氏郷に慈悲無し…なのか?

まぁこの仕置軍は連合軍で、その処置は蒲生一人でどうなるものでもない。

夷人を開放しただけ慈悲深いのか?

 

関連項も含めて、発掘調査らから蝦夷衆と思われる痕跡は南部氏方、糠部周辺の城舘に出てきてはいる。

が、南部氏の古書には余り登場しない様だ。

蝦夷衆をそう記載している主な文書は、松前や蒲生らには残るのだが。

と、すると、安東氏や南部氏はそれらの人々を「夷狄」と認識していたのか?という素朴な疑問が沸く。

実は中柄は、浪岡城でも少ないながら二点出土していて、同じ堀から馬の骨も出土していたかと。

食べたのではないかと考えられる話もある。

つまり、これらの人々は「夷狄」などではなく、普通に味方の一員として認識していたので、敢えて書く必要がなかったのでは?

普通にいて、普通に付き合っていた…

 

まぁ古文は苦手なので、この先あれこれ文献を読み漁る内にその辺も少しずつ読み解けて来るだろう。

中世はまだ入口。

 

さて… 

九戸軍に従軍していたとしたら、それをアイノ文化の人々と呼べるのか?

そうなれば少なくとも、九戸政実の配下であろう事は確かになる。

 

再び…

我々は言っている。

蝦夷=アイノ、ではない。

蝦夷にアイノは含まれる…と。

北海道と東北は古代から繋がっており、それが切れた事はない。

 

実は、蝦夷人(エゾニアン)を「普通の人」だと認識し全く区別していなかったのは、東北の「民」だけだったのではないのか?

 

但し、この献酒作法やイクパスィ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/134039

アンジェリス&カルバリオ神父は全く触れては居ないのだ。

なら、これが「口蝦夷」の作法?

 

真相は如何に… 

 

 

 

参考文献:

 

「有翼酒箸の諸形式と地域性」 名取武光  『河野広道博士没後20年記念論文集』 河野広道博士没後20年記念論文集刊行会 昭和59.7.12  

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫  三一書房  1983.5.31