https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518
「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…
実はあまり積極的に拡散はしていないが、昨年もこんな風に通史でどうなるか?を組み立ててみたりはしているのだが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702
「羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…
ここで書いた様に、今年ここまで弾丸ツアーを行い、解った事、疑問になった事、そこから深堀りし謎が解けたり解けかかった事…種々ある。
我々、ずぶの素人が集まり、歴史の再勉強をしてみようと始めたのは2019年の9月位。
あるきっかけから、本ブログを始めたのが2020年5月から。
現在、2023年10月本日現在で、
・投稿数…483
・アクセス数…43,500
になっている。
以前、歴史単一テーマで4万アクセスは多い方じゃないかと教えて戴いた事があるが…
本当ならば、この手は何周年,何アクセスら、節目にした方が良いだろうが、実は先にSNSにざっと書いてしまったので、敢えて北海道史の「消えた中世」を接続すればこうなるのではないか?を一つ備忘録として書いておこうと思う。
スタートラインは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
「この時点での公式見解⑭…新北海道史が示す「アイヌ民族が古代と繋がっている」根拠」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631
「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…
何時から「アイノ文化期になったか?」だ。
新北海道史では中世を境に明確に繋がっているか示す文書がなく、あるのは「諏訪大明神画詞」のみと記述する。
かと言って実は、何をもってアイノ文化とするか?は定義や時代区分も曖昧だったりする。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625
「弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」」…
その辺は去年確認を取った上、今年の、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…
今年も弾丸ツアーでの再確認の上、「擦文文化から「修験系信仰」を源流に緩やかにアイノ文化へ変遷した」…この辺が主流になりつつあるのだろう。
そんな説が唱えられるのは解る。
明瞭に線引出来ないのであれば「緩やかに」移行した…としか言いようはないだろう。
だが、中世において恐らくそうは成り得ない。
理由は簡単。
この説は、初〜中期段階で確実に本州とは差異がある「独自要素の流入」が必要となる。
似た処から変わっていくなら、外部からなりの刺激が必要だ。
だが、その「独自要素」が入り込む場面が無いだろう…これが理由。
その根拠を具体的に3点挙げてみよう。
①修験系信仰ベースなら、後の鎌倉仏教らの流入も含めて起こり、更に本州文化に近くなる。
②関根氏の指摘にあるように、初期アイノ文化での「方形配石荼毘墓」ら北方系文化の要素は以後消えていき、その後の生活物資はほぼ本州産。
③そもそも論として、その論の核の一つである「方形配石荼毘墓(以降火葬墓とする)」が、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…
この方形配石火葬墓が北陸から伝搬した白山,医王山系修験の文化だとしたら、『北方系文化の要素そのものが消える』事になる。
これは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…
墓制の文化グラデーションが見えそうな事から、ある程度裏付けされる。
その上、一つ謎が解けた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702
「羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…
厚真で疑問視、特異性とされた「一つ穴の銅鏡」は、羽黒修験にある。
ガラス玉や伸展葬も本州にある。
破砕して燃やす行為は「護摩でのお焚き上げ」として事例がある。
元々、独自性の根拠として列挙された事例の殆どが、修験系含む本州の宗教,文化の派生…これで説明がついてしまう。
更に生活物資の自製はほぼしなくなり、むしろ本州からの購入品へ移行する…これも本州への依存性が上がったと言えるだろう。
大体にして、墓制の流れを前の時時代から見て見てみれば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
「㊗️二百項…時系列上の矛盾を教えてくれた「江別,恵庭古墳群」」…
続縄文、7世紀位迄は屈葬で葬られていたのが、後にアイノ墓とされる伸展葬化するのは「末期古墳の出現」から。
同じ頃副葬された、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/07/223841
「余市や江別出土の「管玉」の故郷…北海道と佐渡の以外な繋がり」…
管玉も、解析されたものの多くは佐渡産。
千歳「末広遺跡」に至っては、
竪穴住居から「錫杖」出土。
故に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
「この時点での、公式見解43…「江別古墳群」らを初めとする「擦文文化」が研究者にどう捉えられているのか?」…
擦文文化の成立には「本州、特に北東北の文化の受容」が不可欠と判断されている訳だ。
ここから、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…
厚真の経塚やお焚き上げら祭祀場、修験系火葬の出現に至れば、むしろこの中世開始時点で「宗教の受容,拡大」まで至った事になる。
更には、生活物資が本州依存化…これでどうやって独自性を担保出来るのだ?
従来から言われる「竪穴建物→平地建物化」にしても、東北の現実は中世末まで竪穴建物+平地建物併用の形で維持されたりしている訳で、北海道より先立ち一気に平地化した訳でもない。
また更に、本州からの人口流入のポイントとされるのは、
・奥州藤原氏滅亡と鎌倉幕府による奥州征伐(13世紀(1200年)前後)
・安東氏vs南部氏の戦いによる十三湊や津軽からの流入(15世紀中期(1450年)前後)
ら。
これらは北海道側に伝承がある。
これらで軋轢を産むと読む事が多いが、先述の通り、生活物資の依存度はむしろ増していく。
他の地域から独自要素を取り入れ、別文化への移行を醸成出来るのか?
北上した牢人達に追いやられたか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/24/204753
「蝦夷衆交易の目的地「大なる町アキタ」…この際、ルイス・フロイス書翰も見てみる」…
追いやられるどころか、わざわざ秋田湊に来ているが。
これらから、少なくとも『道内において』は、中世での文化の度合は北方系よりむしろ本州依存が高まる方向にあって何ら不思議ではない。
合わせて、この時代を交易拠点から眺めてみよう。
・日本海側…
鎌倉期~室町期迄…
これは文献にあるので簡単だ。
鎌倉の関東御免津軽船や室町将軍家からそれを安堵されており、室町の古文にある「三津七湊」に十三湊と秋田湊が数えられる事、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/09/211342
「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがき…「浜尻屋貝塚遺跡」に暮した人々は?を「東通村史」に学ぶ」…
尻屋崎、下北半島迄安東氏が押さえていた事を考慮すれば、十三湊と秋田湊を中心に展開されるのを予想するのは容易い。
これは、南部氏の十三湊侵攻迄は維持され、日本海中心の交易だったと考える。
では、十三湊陥落からどうなるか?
少し後代の北陸諸将からの書状を見ると、越前朝倉氏は元々「湊(上国)安東氏」と好を結び交易していて、十三湊から分派した「桧山(下国)安東氏」が湊と桧山を統一した事を祝いながら、好を結ぼうとしている。
ここから、秋田湊を中心に日本海交易を成立させていたと考えて良いのではないだろうか。
上杉との仲介をした庄内砂越氏もそれを語っているとある。
交易が切れる訳もないし、北陸らの守護大名らは北方交易品を必要としたであろう。
・太平洋側…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
「北海道の対岸の状況はどうだったのか?…野辺地町史に見える古代~中世の文化到達の片鱗」…
この辺は明確ではない。
野辺地周辺は、南北朝期に一度「伊達氏」が拝領したが、その後記録は消える。
下北半島は上記通り。
それがそれなりに明確化するのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/10/210623
「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきのあとがき…なら、「蠣崎蔵人の乱」の捉え方は?」…
記述内容は眉唾ではあるが、蠣崎蔵人の乱の後に南部氏が周辺一帯の掌握に成功したとされる事。
ここで根城(八戸)南部氏は水軍を持っていた事が記され、最低でも八戸を拠点に交易をしていた可能性はある。
更に伊達氏…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/18/084019
「「亘理小史」に記載された古代~中世の亘理…伊達氏の海への到達と「九曜紋」「内耳土鍋」と言う断片」…
野辺地受理以後に海との関連は見えなくなるが、千島での内耳土鍋の出現と旧伊達領との関連や、亘理(武石)氏の掌握、俄然羽振りが良くなる時期、これらは割と一致した時期だったりする。
ここで…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947
「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」…
道南,胆振との交易なら野辺地や田名部,佐井の湊を押さえる必要がある。
近くに行こうとしても「塩っぱいデカい川」津軽海峡の海流が邪魔し、東へ流される。
仮に、南部氏が八戸を、伊達氏が亘理の湊を使い交易をしようとしたら相手は何処になるのか?
勿論、南部氏は野辺地や下北半島掌握後なら自在に行き来可能になってくるが、それまでは南部氏は日高〜十勝、伊達氏は十勝以東になる確率が高いだろう。
千島と伊達の関係…
割と一致してくるのではないだろうか?
伊達氏に関しては、何分不気味な点が多い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/22/101835
「ゴールドラッシュとキリシタン-25…キリスト教史「古典」にある「カトリック教会の痕跡」、「蝦夷衆の切支丹的断片」と「亘理伊達家家臣の登場」」…
これにある田村家や、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
「この時点での公式見解-29…ムックリの理由と「シロシ(家紋)に見る移動の痕跡」、そして伊達氏の影」…
ウタサ紋を伊達シロシ(伊達の旗印の模倣)の伝承があったり、何時、どの程度の交渉を持つかは闇の中。
ただ、千島との交易を行っていたとするなら少なくとも江戸初期段階で千島…というより「メナシ国」の住民は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544
「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる②「十勝,千島編」」…
金や銀を知っている可能性は高いだろう。
但し、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
「「通商の民」に不足する物、続編…南部信直公が教えてくれた「蝦夷船ドック」」…
南部信直の弁を借りれば、大型船(恐らく二百石船程度)は秋田で建造、南部氏が出来たのはそれより小さい。
関東御免津軽船以来、主力の大商いは日本海ルートが主力だったのは想像に易しい。
逆に考えれば、太平洋ルートの交易はむしろ従来より、販路拡大された分ともとれる。
畿内ら大都市圏が巨大化、高級志向が強まるにつれ、北方の文物は需要が高まるのは必然。
交易量が増えれば、当然関係も密になる。
ここからも『道内では』むしろ同化の方向に進んで然るべき。
いずれにしても、それらも織豊期末迄で終焉を迎えることにはなる。
東北の諸湊から拠点は松前に移される。
閉鎖性が高まるならむしろ、それは後代にならないか?。
鎌倉〜室町で、独自要素が取り込まれ別文化を持つのは『道内では』かなり困難だろう。
では、道内から特に中世居住遺跡がなくなった段階で、元々道内の人々は何処へ行ったか?
明瞭ではないが、ヒントはある。
まずはヒント①、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/27/075543
「ゴールドラッシュとキリシタン-21…金銀島探検報告に記載される「金銀での決裁」,「コロボックル?」そして「織豊~江戸初期の地理観」」…
ジョン・セールスの報告(1613年)。
「金銀決済をして、松前以外には定住者無し」。
定住していないなら遺跡はでない。
ヒント②…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507
「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…
浜尻屋崎貝塚の住人と、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/210518
「「アイノ文化の献酒方法」?、実は…蒲生レオン氏郷から酒を給されたのは誰か?」…
ここで、浜尻屋崎貝塚の住人をアイノ文化人とするのは誤りである。
この人々は文字を駆使し、茶を嗜み、14~15世紀に限定。
お気付きだろうか?
一部は本州に移動しているとも考えられる。
恐らく、宇鉄の四郎三郎が津軽側に移動したのもこの辺だろう。
より道南や北東北,日本海離島ら、自分の交易相手との交易に都合良さそうな場所へ移動したもととれる。
元々の生業が、季節漁やより離れた場所から入手した品物を大消費地へ売り付ける事なのだから、湊を拠点に仕入れと売買で移動した方が都合は良いし、農民の様に土地に縛られる事は無い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…
湊周りに周溝墓が散見されるのは、このせいではないか?
案外、東北に限らず本州人と混雑している可能性はあると思う。
ヒント③…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/134039
「この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる、あとがき…時空を並べ直してみよう」…
アンジェリス神父の弁と、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/26/205243
「この時点での、公式見解-44…「余市町史」に見る寛文九年蝦夷乱での余市の動向と「八郎右衛門」」…
八郎右衛門の「我々同心不仕候処に、右の通松前より狄共渇命に及申候罷候得は、一食も続不申故、狄とも相談にて商船ふみつふし申候」…
アンジェリス神父はyezoはメナシ(目梨)国、テンショ(天塩)国の住人と言い、八郎右衛門は「狄と相談で」商船襲撃したと言う。
この二人、一部道東,宗谷を深む「樺太,千島」の人々をどうやら「yezoや夷狄」としている様だ。
つまり奥蝦夷とされる人々。
ここまでくれば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518
「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…
ここと接続可能だろう。
別文化を持つとされるのは「奥蝦夷」の事。
そりゃそうだ。
熊送りにしてムックリらにして、元々は樺太や千島の文化であり、道内にはなかった。
最上徳内が見た熊送りも、流氷がある地域だ。
最上徳内が北海道を訪れた時には既にロシアによる千島南下と北前船就航による雇用創成は始まっている。
メナシ国とテンショ国の住人が道内に大量に入り込むのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
「この時点での公式見解26-b…蝦夷乱と社会情勢にロシア南下を重ねると、如何に緊迫したか解る ※追記-b」…
1750年前後で、タイミングはそれらとほぼ一致する。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…
それは、厚真でご教示戴いた「黒0」、つまり「Ko-c2とTa-aの途中に僅かにしかも点在で出る事がある黒色土層」とも一致してくるのではないか?
「黒0」には極稀に遺物がされる事があり、同時に松前の古書でも少しずつ知行主の名前が出始める頃。
だが裏を返せば、江戸初期の駒ケ岳,有珠山,樽前山の火山噴火による火山灰降灰から「黒0」の期間の火山灰中に遺物が無く今のところ空白。
こと、千島方面で農業や鍛冶の痕跡が遺跡に残らぬなら、彼等がそれを知らなくて当然だ。
幕末〜明治に書かれた古絵図に描かれる『道内の』近世アイノ文化の担い手はこの人々だろう。
古代~中世初期との文化の連続性が切れている理由はこれで説明可能だ。
さて、少し話を戻そう。
仮に「アイノ文化の源流に修験有り」が成立した場合、中世迄にあった寺社らが消える理由は何か?
①大災害での人の移動による荒廃…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652
「大災害が起こった時、人はどう行動するか?…平安期の「十和田噴火,白頭山噴火」が住む人々へ与えたインパクト」…
現代も同様だが、震災や大津波あらば人は当然回避し移動する。
平安でもこうだ。
有珠善光寺の寺伝でも数回被災と建替えの記録があるという。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/15/120448
「空堀は何工数,何日で築かれたか?のきっかけ…入口として「遠矢第二チャシ」をみてみよう、ただ…」…
例えば、浜尻屋貝塚の人々…
これも雌阿寒岳の噴火や津波による回避活動と一致してくれば、中世にも大災害による移住があった事を立証出来てくるだろう。
道東からは回避、道南には本州から流入…
これも『道内では』特に道南で寺社が維持される理由にもなるだろう。
門徒からの布施や労働力提供がなければ寺社は存続出来ない。
②キリシタンによる破壊…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/26/125931
「ゴールドラッシュとキリシタン-33…「大籠キリシタン資料館」で学ぶ「江戸初期の宗教的状況」と時宗の板碑、そして北海道への検討の為の備忘録」…
「切支丹宗門」の流入だ。
信者が一定比率までは、旧来文化や宗教と共存している。
だが、それを超えた瞬間に爆発的に増え始め、原理主義的な行動を取り始めて旧来文化を破壊する。
そんな事例は西日本にもあるし、東北なら大籠に学ぶ事が出来る。
寛文九年蝦夷乱辺りでの出身地が全国規模なのは知られた話。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/15/203519
「ゴールドラッシュとキリシタン-26…「院内銀山」は全国区、そしてそれを支えるネットワークが出来るのは必然」…
こと、鉱山に関してはこんな感じであるし、関ヶ原や大坂の陣の牢人流入はよく言われる話。
カルバリオ神父の「二年で8万人」…この実数は誇張されたものとしても、半数で見ても当時の北海道人口を凌駕する。
旧来宗教が破壊される比率は超えていただろう。
この2点が重り、藩らからの支援無くば完全に破壊されただろう。
勿論、切支丹宗門は幕府により禁忌…そちらの痕跡ごと消え去る訳だ。
幕府直轄に先立ち、松前が寺社の建替えを行ったのは、こんな痕跡を消す為だろう。
で、新規流入者は自分達の宗教観の中に修験がある事を知らなかった。
それがむしろ、破壊後の新規流入者である事を物語るのではないか。
どの時代も「零:百」ではない。
常時、樺太,千島からの少数流入,流出はあるが、目立つ大規模移住に至るのは江戸期だろうと言う話だ。
と、つらつら書き連ねたが、こんな感じだろうか。
巷で聞く「中世に大陸から流入」…これも無いだろう。
虐殺あらば、流入者の新規集落が出るハズだがそれすら無い。
あるのは普通に交易した様なものばかり。
そもそもこの辺はコシャマインの乱辺りからが根拠であろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/24/170253
「これぞ大殿の御出座…数回記録にある「安東宗家」の訪道及び出撃事例」…
だが、むしろ事例として多いのは、道内の安東氏家臣団内の内輪揉めだと思うが。
むしろ、中世初期に北方系文化の痕跡とされたものの多くが「修験の痕跡」へ置き換わる可能がある。
ならそれらを「yezoの痕跡」と断定するのはムリになる。
それに、そんな早くに流入したら、既に言語が同化しているだろう。
何故我々にこんな風に見えるのか?
①我々は北海道の時代区分なぞ気にしていない。
ほぼ西暦で並べている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031
「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…
時空のシャッフルに引っ掛かることはなく、むしろ矛盾に見えるから。
それが「時系列上の矛盾」。
②我々は「新羅之記録史観」に拘る必要はない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
「時系列上の矛盾…城柵,環濠集落,チャシ、ならば十二館もみてみよう、でも「?」 ※追記あり」…
あったか無かったか解らぬコシャマインの乱なるものに拘る必要もない。
意味なく大陸から侵略「させなければならぬ」理由も無い。
そして、恐らく北海道のチャシと中世城館、そして東北の中世城館をシャッフルして区分しその系統を割り出せば、ちゃんと系譜は見えるハズ。
ほぼ同じものがボコボコにあるからだ。
別に「新羅之記録史観」を成立させる為に論を組む必要も、居た痕跡が薄い者を居た事にする必要もない。
③我々が鍵にしてきたのは、「北海道と東北は繋がっている」「蝦夷≠アイノ&蝦夷⊃アイノ」…たったのの2点の事実のみ。
だから東北や中央との接続に躊躇がない
以上。
ここまで書いて来たことは、途中の過程、叩き台に過ぎない。
学ぶ過程で変わればアップデートするだけ。
間違いなら糺せば良いのだ。
こんな風に組み立てては、それを自ら否定してぶっ壊し、新たに学んだ事で組み立てるを繰り返してきているだけだ。
ただ、3年半位前に組み立てた事とあまり変わり映えしないで、むしろ太くなっていくのは…何故だ?
最後に付記しよう。
上記は珍説か?
いやいや、全然。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
「言語研究からの視点…金田一京助博士が記す「北海道と北東北で会話出来た事例」と「金田一説の結論」」…
元々金田一博士は北海道と東北の共通項を指摘し、河野広道博士は地域柄の分類をやっていた。
別に我々が突飛な訳じゃない。
そこから時代を下れば、何時、誰が単一集団の様に括り始めたか?解る。
それにこの二人、活動家第一世代に協力していた。
第一世代はシロシらを手掛かりに自分達のルーツを探していた様だ。
彼等も学者さん達もそれを知っている。
まだ自分の眼で確かめていないし、裏を取っていないのでボカしておく。
旭川に行けば良い。
「外アイノ(ヌ)」の単語があるのが何処か?…
さすれば察するだろう…