https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/15/194055
さて、続き。
今度はカルバリオ神父の報告書になる。
これは1620.10.21の日付。
また、地理や人々の様子らに特化して引用してみる。
一応…
我々は以前から別の書物で「カルバリオ」だった為にそれを通しているが、この「北方探検史」ではラテン語読みの「カルワーリュ」と記載される。
引用文と我々の記載内容で差はあるが、同一人物であるので御承知願いたい。
どうやら、カルバリオ神父は、この当時に久保田や院内に多くいた出羽国の信者に招かれ仙台→見分(後藤寿庵の知行地)→下嵐江(岩手の和賀〜秋田の横手方面の峠)→仙北→久保田→津軽→久保田→北海道へ向かったとある。
久保田からは「金堀」名義で渡ったとある。
アンジェリス神父の一度目の渡道は商人名義。
協力者と相談の上であれこれ仕込んだ様だ。
因みに、金堀としたのは「持ち込める商品が無い」為。
その変わりに、カルバリオ神父はミサの道具一式を持つ事が出来た訳だ。
故に「北海道で初めてのカトリックのミサ」を行ったのは彼になる。
では、また地理的要因と人々に対しての記述に特化して記していこう。
①地理的要因
「前略(筆者註:金堀に変装した理由の事は)四年程前から蝦夷には純良なる金を豊産する諸鉱山が発見されたので、日本じゅうからそれを渇望する人が毎年夥しくかの大きな国へ渡るようになったことがありまして、その人数が昨年は五万人を超え、本年も三万人以上だといわれています。そのうちに加わって多数のキリスト教信者も渡ります。かの国へ行く船は皆、蝦夷での最初の岬の一港へ入ります。そこには松前という日本人の町があります。但しその殿はやはり日本人ですが、その地で生まれ、そこに居城をもっていまて、通商と鉱山からの収益があるだけですが、それでも敬重されていますし、天下から多くの特権をも受けております。そのわけは、鞍をつくるためやその他の用途がある猟虎皮という柔らかい毛皮、生きた青鷹・鷹・鶴・その他の鳥類の如き珍重すべき物がその地から来るからでございます。」
「蝦夷の国は一つの海峡で日本から隔てられています。海峡は、最も狭いところで凡そ五乃至六エスパーニャ・レグワ程の幅がありましょう。〜中略〜蝦夷の国土はこの海峡から北方へ伸びて行き、終には大きな韃靼若しくは我々の知らない他の大国と続いております。西方へも他の大国に達するまで広がっております。蝦夷人はその大国に就いての知識を供することができませんが、高麗の国土かまたはそれに隣接する国でなければなりません。その国から此方へは、蘆で覆われている低湿の沼地で蝦夷が区分されています。その両国の間を満潮のときに船が航行します。その西方から松前へ来る蝦夷人は七十四日間も航海し、礼として甚だ上質の絹布を松前殿へもって来ます。それは坊主の衣または十徳用になります。この地の蝦夷人達が申しますには、かの湿地の彼方に見える陸地には、美しい竹林と良馬があるが、その住民と交渉がないので、彼等に関しては何も知らないとのことです。
北方から、もっと正しくいえば北東ほうから松前へ来る別の蝦夷人は、六十三日間航海し、彼等も前にいった〔西方よりの〕人々も、この地方の海岸にある諸港へ寄ります。この〔北東方の〕蝦夷人は、礼として松前殿へ、前にも触れた如く猟虎という島から出るので猟虎皮と申している柔らかい毛皮を将来します。また生きた鷹や鶴、日本人が箭に付けている鷲の羽を齎します。北方で彼等の蝦夷と接続する国には、石造の家や、立派な服装の色の白い人々が住んでいるけれども、それと交わりがないのでわれわれを納得させる程の報知を供せられないと彼等が申します。北東方から現れるこの蝦夷人は、松前へ来るのに、蝦夷と日本とを隔てるかの海峡を通ります。蓋し彼等はその〔海上〕でノーヴァ・エスパーニャの海洋に面する部分の蝦夷海岸に沿うて来るわけになりますし、西から渡来する者は、高麗の海に向けて伸びて行くその反対岸を回るのでございます。」
「北方探検記」 H・チースリク 吉川弘文館 昭和37.3.30 より引用…
さて…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515
グループ検討を始めた頃からの素朴な疑問「無視出来るハズのない人口インパクト」の原文がこちら。
カルバリオ神父が言う今年は1620年で、8月段階で三万人を超えるだろうとの予測。
前項の通り、アンジェリス神父が松前の総人口を一万人と予測している事を鑑みれば、数字を盛っていたとして半分で考えても、総人口の4倍がたった二年で流入、松前を通過し且つ金堀衆は鉱山町を作る。
で、その何割かがキリシタン…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/21/050255
文化をもたらして当然なのだ。
と、基本的に世界観はアンジェリス神父と共有されている。
東(厳密には北東)は未知のアニアン海峡迄海岸線(現実にはベーリング海峡)が続き、西は韃靼迄海岸線が続く。
東では「石の家に住む白い人々」…
西では「竹林に良馬」…
具体的な聞き取りをしている。
それぞれがどの場所に当て嵌るかは別にして、広大な未知の領域蝦夷国にはそんな違う文化の人々も含めている。
当然これ、樺太,本道,千島だけでは成立しないのだ。
バテレンらにとっては、北海道もカムチャッカもヤクートも、ニブフもウイルタもサハもエヴェンキもごちゃまぜ。
この時代の観念はそうだった…からスタート。
次との関連が出てくるから、まずはここまで。
②人々に対しての記述
「先ずこの事業に精通する人々が、そこに金が在るだろうと判断して山をよく観てから、友人知人と相談をして一団体をつくり、前述した松前の殿から、その山中に流れる川畔ら幾らブラッサ(筆者註:長さ単位)を金塊幾らで購い、その金塊だけを実際に金を発見しようとしまいと、それにかかわらず支払わなければならないのです。このような団体が無数にその川のほとりを進んで行って、水路を彼方へ変え、それから川岸の下にある堅岩に達するまで砂床を掘ります。それらの岩の裂け目の砂の中に海浜の小石の如くに、純良な金が見出されます。そのわけは、その生成している〔上流の〕山々から剥がされ、流れに運ばれて来てから、重さの為に砂中に埋まりますし、そしてまた岩の裂け目へ陥ち込むと、もはや下へは流れずにそこに残ることになるのでございます。〜中略〜鉱山から収める利益は、それを売った殿以外の人には帰属しません。何故なら、前にも言いました通りに、金塊発見の多少にかかわらず、その鉱山を買った値段を殿に支払わなければならないからでございます。そしてその支払が済まぬうちには、日本へ帰ることができません。ですから金堀で富を作った者は到って寡なく、多くの者はこの国で死ぬか、若しくは儲けるよりも、出費の方が多くて失敗しています。」
「前略(筆者註:アンジェリスが一度目の渡道から帰った直後)〜天下が禁じている故に松前の住民は一人でもキリスト教信者になってはならないとの法度を出しました。然し〔他国から松前へ〕往復する者を大して気にはしないのです。されば小生は、われわれの到来が知られないように努めて、金堀の名義で上陸しましたし、また殿にキリスト教信者であるとしられているが、その地に住み着いていない古い一信者の家に直ちに身を潜めました。そこで小生は蝦夷に於ける最初のミサを挙げました。〜中略〜信者達は熱狂して小生を迎えました。二年以上前からその地にいる人々は、昨年以来既に告解を久しく念願して小生を待っていましたし、奥州で小生から受洗した人々は、小生が日本〔本土〕を離れて彼等に会いに行ったのを知ると歓喜の余りに涕泣しました。また上方やその他の諸地方でも厳しい迫害のために、告解をしようにもパードレを見付けられなかった人々さ、今この蝦夷に於いて〔自由に〕告解するよい機会を与えられ、ミサにも与かれるとわかると、それこそ彼等の精神にとってどんなに大切な療法であるかを知っていますから、この〔蝦夷への〕危険な渡海で嘗めた労苦も出費も却って役に立ったのだと思い、小生にそれを感謝するに飽きませんでした。その地で前に受洗した人々は、深い敬度を以て最初のミサに与しましたし、また告解の時にいつも彼等に行うことになっている説教を聞き終ってから告解しました。それで彼等は非常に満悦しましたし、小生も亦彼等の情熱を知って大いに慰められました。~中略〜(筆者註:蝦夷の地に留まって欲しいという要望に対し)小生だけを頼りとしている非常に多くの信者を、殊に帰りには訪ねてやらねばならず且つそこへいくパードレがいないので津軽の被追放者達を引き受けていないならば、悦んでその依頼に応ずるだろう、蓋し彼等〔津軽の信者達〕こそは日本キリスト教の精華だからであり、彼等は今もこの〔小生の往訪あるかととても大きい〕悦びを持っていること、〔この蝦夷の〕信者達には毎年小生が一度見舞うだけで足りるし、そして小生はできる限りそれを怠らないことを申しました。」
「松前にいる信者達の告解を聴くのに一週間を費やしてから、内地の方へ一日路程の金山に赴いて、そこに働いている信者達の告解をも聴くことにしました。〜中略〜金山から余り遠からぬ処に、その頃新しくつくられた藁屋ばかりの一部落に着いてから、一信者の茅屋で祭服に身を装いました。その茅屋は壁は樹皮でてきていて、屋根はコルクに似た樹皮で葺いてありましたが、非常に清潔にして、幕で飾ってあり、小生の到着前に、祭壇が板でうまい具合に造ってありました。その家で小生は聖母被昇天〔八月十五日〕の祭典を挙げました。そのとき、小生が見て来た日本の諸地方にある豪華な且つ立派に装飾された諸聖堂でこの祭日に多くの信者が集まり、その上に信者達のいろいろの遊戯や催物を加えて行われた祭典を思い出しまして、落涙を禁じえませんでした。これは、このような〔豪華な祭典の〕追憶の故でしょうか。それとも〔この世界の〕発見最終の端の地で小生こそが、その聖日を祝う最初の者であるからという慰悦の故でありましょうか。小生もわからないのでございます。信者達の告解を聴いてここで一週間を過ごしましたが、金山の信者達は病人をさえ加えて、そのために入れかわりたちかわりやって来ましたし、また仕事から離れることのできない幾人かにも授洗しました。それが終って松前の町に戻りました。」
「彼等に就いて小生の見聞したところを申しますと、先ず少し色が黒いのですが、それはその地へ来る者が総て海辺に常住し、漁夫である理由からであります。この大きな蝦夷の国々の内部には、礼賛を弁える人々の部落も奥地にあるらしいのですが、それに就いてはわれわれは何も知りません。若しあるとすれば、松前に住む蝦夷人からそれを推しはかって、恐らくは色の白い人々でしょう。〔というのは、松前の〕蝦夷人のうちで漁業の技能に習熟していない者が、日本人よりも色鮮やかにして白いのですから、それを以てこの人達が〔元来〕色白の外観であるとの鑑識を裏付けるところがあり、さればこそ、彼等が己等と似た人に遇えばそれに非常に敬意を払うのであります。以上のことより、彼等のうちで清潔で品のある且つ漁業で生活していない者が頗る綺麗な色をしている筈だと考えられるのでございます。そのわけは次のようになります。その国内が極めて寒冷で降雪も甚だ多いことです。」
「前略〜蝦夷には莢果と稗以外には米または野菜の田畑がないからでございます。とはいうても若し田が作られ、畑が耕されるなら、国土が大きいし、甚だ肥沃らしいので、それを豊産するでしょう。」
「蝦夷〔人〕は普通帯に届くまでの長い髭をもっていますが、昔のポルトガル人の髭のように綺麗に整うています。中には背にも毛の生えている者もいるが、それを醜く見せる程ひどく多いわけではありません。鼻と目は日本人のと異なり、ヨーロッパ人のと似ているが、それ程気品がありません。衣服には、一つの布に種々の模様を織り交ぜています。彼等が最も有難がるのは、男女共に、大小の十字架であって、大は背に、小は種々の部分に着けています。これはサン・トメの昔からの伝統であり、その信者が絶えてよりは衣服の飾りのうちにその微しが遺ったからではないかと、充分に信ずることができます。彼等の死骸を葬るやり方も、キリスト教信者のする通りですから、同じように推断できます。寒冷の季節には、内側に毛のある毛皮製の衣を身に着けます。その衣は皆長くて、われわれのシャツのような袖があります。その前が塞がっているのも、開いているのもあり、開いている方は帯を用い、塞がっている方にはそれを使いません。」
「蝦夷は弓箭の術に甚だ巧みであり、毒液をぬった箭を用います。その毒液は蜘蛛から作り、それに或る草を混ぜます。彼等の刀はわれわれの短いテルサード(注、太身の短刀)に類し、柄、欛及び欛頭に種々の細工や銀象嵌の装飾をし、吊り革の代りに甚だ上手に織った絹紐を使います。或る者はそれを肩から吊り下げ(モール人の)彎刀の如くに腋下にかかえます。また或る者は、頭から吊り下げ、両肩で紐を垂らし、刀が後にあって、欛を右に、尖を左へ向けています。」
「売買するには商品を貨幣に代えず、それで物を買うこともありません。物と物とを交易するわけです。彼等が松前で主として買うのは、酒造用の米であり、そのために麹も求めます。また彼等は酒好きですから、頻繁に行う酒盛のためにも酒を購います。彼等が松前にいる間は、筵と予め準備して来た木の骨組とで海浜に造った小屋に住み、〔着くと〕直ぐに舟を引き上げ、それを横倒しにしておきます。海上で悪天候または暴風雨にあうときにも同様に致します。その舟には一本の釘も打ってありません。というのは舟は皆纏縛して造られ、帆は筵でできているからであります。妻子と家族全部を連れて来ます。彼等の服從する一人の王もいませんが、部落毎に酋長のような者が一人また数人いて、これらに幾らかの敬意を懐いております。松前の殿は日本人ですけれども、彼等の王であるともいえるでしょう。何故なら、前に申しました如くに、この地へ来る〔蝦夷〕人は誰しも皆これに礼を尽くし、またその標章と許可状とを携行する者が蝦夷じゆうを安全に歩けるからであります。」
「北方探検記」 H・チースリク 吉川弘文館 昭和37.3.30 より引用…
A,金堀について…
システムは上記の通り。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
以前も紹介しているが初期は、
・代表者が採掘権を買う
・入る川やその長さで松前藩に対する租税額(納品する砂金量決定)
・仲間を集めて採金
・決められた納税額を納付して帰途につく
こんな感じ。
割符で管理されるので、規程納税しない内は帰れない訳だ。
基本的には、ペイする者は少なく、バテレン達は「財産持ち出し」の方が多いと考えていた様だ。
以前の人口インパクトでも書いたが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515
端からキリシタンには帰る場所は無い。
端から帰れない様なシステムなので、あまり問題にはならないのかも知れない、元々それより、信仰を優先した事になる。
B,カトリックについて…
カルバリオ神父が見る限り、松前藩は自藩領民の信仰は禁止だが、「旅人」に対しては緩くしていた様だ。
こうなると、本来は採金期間内の金堀に混じろうがあまり気にはしなかって事になる(後の弾圧迄は)。
また、この時二度ミサを行ったとある。
・松前に於いて
・大千軒岳に於いて
この中で、大千軒岳では「金堀衆の居住区の中の一軒を聖堂とした」としている。
ここで、仮に居住区を発掘したとすれば、それは極めて「チセに似た構造」を持ち且つ祭壇跡らしき遺構を持つのだろう。
屋根はコケラ葺きの様だが、壁が樹皮とある。
柱の間隔は解らぬが、遺構で屋根や壁材が残るのは火災らでもない限り判然とはしないだろう。
あっても和釘程度。
まずは少なくとも、独立した大聖堂の様なものではない事は確かだろう。
更に、カルバリオ神父の移動範囲は、大千軒岳の居住区が最遠で、そこより遠い森町,八雲町、更に有珠方面には行ってはいない事がハッキリ解る。
・大千軒岳の活動の後に松前に戻る
・僅かに豆と稗しか作っていないとわざわざ農業はほぼやっていない事を記載する
だが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140
仮にこれはを確認していたらもっと農業の発達を記録したであろうからだ。
これらはTa-b直下の遺構で時代が被る。
彼の記載の中に、これら渡島半島付け根〜有珠方面の情報らしきものは一切見つからない。
故に、彼は口蝦夷が居住していたであろう場所の情報を全く知らない様だ。
彼が接した蝦夷人とされる中に、その辺の居住者や港の場所らの情報はない事になる。
あくまでも彼が「記録した蝦夷人」は、
・松前周辺の居住者
・数十日かけて旅してきた天塩,ミナシとされる場所に住む人々
であると解る。
C,人々について…
先のB,を受けて、連々記載している事は天塩,ミナシの人々の特徴であろうとされる事は下記の通り。
・漁業の日焼けで肌は黒いが、松前近郊の人々から推測して肌の地色は白いだろう(脱がせ確認まではせず)
・髭が長く、背中にも毛が生えているが(西洋人視点で)それ程酷くはない
・目鼻は西洋人的だがそれ程品はない
・上着はパッチワークの様になっており十字架的紋様がある
・肌着は着ていない
・寒い季節は毛が内側に来るオーバーコート(帯締め)やヤッケ(帯無し)を着る
・弓矢は巧みで毒矢を使う
・携帯する刀は拵に装飾を施す短刀レベルで、布の帯で脇の下か頭から肩に背負う。
大刀,太刀に達する長さは持ってはいない
・主に買いに来るのは米と麹、そして酒で頻繁に酒盛しており、物々交換
・家族単位で航海し、港近くの砂浜に携帯の柱で小屋を建て居住
・船は刳舟、帆はムシロ
・乙名はおり尊敬するが、纏める地域の王はおらず、むしろ松前殿こそ彼等の王である(通行許可証を発行しているのがその根拠)
ピックアップするとこうなる。
彼等が誰に従属していたか?も巷の話題になるが、カルバリオ神父はハッキリ記載する。
「松前殿が彼等の王」だと。
まぁ生業をする為の通行許可証を発行し、自由に航海して良いとしているのは松前藩。
一理ある。
これ以前にあった事を繋げてみると良い。
・秀吉による朱印状で安東氏から独立
・乙名を集め、朱印状を見せて脅す
で、
・通行許可証発行と携帯
他の文書と合わせれば、この程度の背景的証拠は集まるが。
彼等は越冬用の穀物食料や酒を得る為に、主に松前に来ているのだ。
許可証が無ければ越冬可能か?
ムリだろう。
吹雪で漁に出られなければ、乾燥肉だけでなんとかなるのか?
江戸期はそれでなくても、ここから本州に飢饉を齎す小氷河期に向かうのだが。
また、カルバリオ神父は、天塩,ミナシの先がどうなっているのか?をインタビューしている。
・東…石の家に住む色白な人々
・西…竹林が広がり良馬がいる
それらとは見ては居るが、直接の干渉を持たず、途中に居る人々を「中継」していると。
アンジェリス&カルバリオ神父は、天塩の蝦夷人が直接に現沿海州や朝鮮半島と行き来はしておらず知らないと断言している。
所謂山丹交易なのだろうが。
さて、ここで問題が出る。
アンジェリス神父も途中港を幾つか経て数十日掛けて航海して来るのは記述する。
東のミナシは
・アンジェリス→80日程度
・カルバリオ→60日程度
と差は出ているが、途中の過程が全く解らない。
つまり、
・東…道南〜胆振,日高,十勝等の情報が無い
・西…道南〜後志,石狩,留萌等の情報が無い
無いのだ。
それらの人々とは遭遇しては居ないし、語る人も居ない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436
まぁ十勝らの初見は、この報告書から15~20年下る。
で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
それらの地域をスルーして、
・西…宗谷役宅設置→1603年
・東…厚岸場所設置→1624年
となる。
このスルーした理由は?
前項で、アンジェリス神父はこう記す。
・東方ミナシ国
乾鮭、ニシン、「ラッコ皮」
・他の東部
乾鮭、ニシン
・天塩国
乾鮭、ニシン、「大陸の反物」
解って頂けただろうか?
それぞれ特徴を持つ産物をもたらすのは、外部との交渉を持つ東端と西端の人々で、その間の地域は主に共通項を持つものしか持っては来ていなかった事になる。
松前藩にしてみれば、本州に高く売れる珍品を重視し、その調達の為(他藩に干渉させぬ為)にわざわざ産地に近く本州から離して拠点を置いた…では?
この辺の記述、北海道との交渉は津軽藩や南部藩にはあまり無い上、あれだけ来ていたとされる秋田湊らの記録も消える。
まぁ独占商権を秀吉,家康から安堵されているので、それらの措置位やって当然か。
さて、「北方探検史」はまだ一通残っている。
最後の一通には何が書いているのか?
to be continued…
参考文献:
「北方探検記」 H・チースリク 吉川弘文館 昭和37.3.30