https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/18/200305
さてでは、3通目。
アンジェリス神父のニ通目で1621年となっている。
これは、アンジェリス神父が二度目の渡道後、イエズス会の日本準管区の上層部から詳細報告を要求されて書いたもの。
この時に蝦夷国の地図を添付しているが、それがこれ。
とうとう、蝦夷国は大陸から離れた「島である」との認識に至る。
では、進めていこう。
①地理的要因
「第一に小生が蝦夷に就いて嘗て差し上げた報告書中で、島ではなくて、韃靼の末端部と岬であり、その韃靼の岬と向きあうて、キヴィラというノーヴァ・エスパーニャの別の岬があるだろうと思い、それ故に、世人の想像している如く、また諸地図に描かれている如くに、この韃靼とノーヴァ・エスパーニャとの両岬の間にアニヤン海峡があるものと推測した旨を述べました。蝦夷が島ではないというように小生の心が傾いた理由は、蝦夷の土人達の小生に語ったところに因るのでございます。それは即ち日本人のいる松前から陸路東の方へ行って、東の海岸へ達するまでは九十日の路程でありますし、松前の同じ処から陸路西に向って進むと、西の海岸へ行き着くまでは六十日の路程であるとのことでありまして、それよりして、小生は蝦夷が島ではなくて、韃靼の末端部だと推測しました。というのは、今までにどの〔地理上の〕発見に於いても、西から東へ五箇月もその中を陸路歩き通せる程の大きな島が検出された事がないからでございます。そこで小生は、蝦夷人達がその国土に就いて語るのが真実であるとすれば、蝦夷が島ではなく、韃靼末端の岬である方が確からしいと考えたのでございます。
また他面からは、正しく島であるとする次のような諸理由がございます。その第一は、蝦夷が東の方では海洋に包まれ、南の方でもそうであり、蝦夷末端でえる天塩の国土では西の方にも亦極めて激しい流れがあり、天塩と相対して、彼方の馬でも望見されるほど接近した陸地があります。
蝦夷からその向うへ渡りたいと思うても、天塩の国土とこれに面する陸地との間のかの激流のために、誰も敢てそれをしないのでございます。この流れの中程には、日本の大きな竹の如くに太いヨシ即ち芦が生えているといわれますが、猛烈な流れのために折れ曲り、水中に潜り、それから復た起き上がっているのだそうです。それ故に彼等が天塩の向う側の陸地へ、どうしても渡らないのですが、あの竹が小さい彼等の舟を転覆させるかとの怖れを懐いているからであります。彼等の語る以上のことから、蝦夷は北部でも、韃靼を分離する海に囲続されていると小生は推測しました。そうでなければとてもあの激烈な流れがあり得ないわけであり、天塩とそれに向いあう陸地との間の海が、ただの入海であるとすれば、あの激流を生ずるはずがないからで、そのような流れのあるのは北部にも海が存在し、東から西へ、また〔それと反対に〕西から東へ流れて来るからでありまして、その〔互に反対の〕両流は潮の満干に応じて起るというより外に因れがありません。」
「北方探検記」 H・チースリク 吉川弘文館 昭和37.3.30 より引用…
ここに来て、蝦夷が天塩を西の外れとする「島である」との認識へ変わっている。
第一の理由は引用の通り、韃靼へ至る途中には激流があり、それが津軽海峡と繋がる事の様だ。
その激流は蝦夷国を取り囲み流れるだろうとの推測から。
他の理由も要約する。
・蝦夷国を統括する「天下殿」がおらず、本州以南の様な「君主」も居ない。又、韃靼は「大汗」が居るがそれに服從する必要もない。
・以前シチリアで見た地図は島(架空の「銀の島」?)になっている。
・蝦夷人達が松前→天塩に向かう時は東→西に向かうと行っており、天塩に向かい合う陸地は(高麗に隣接する)兀良哈だろう。
等々。
日数から割り出すと結構矛盾もあり、その分蝦夷国は肥大化してはいる。
現実的には松前→天塩であれば北西へ進む事になるので、彼等の話からの推測でしかないのはやむを得ず。
樺太や千島も無し、カムチャッカ半島も無しでアニアン海峡まで島が続くとの考えだが、北も海で隔てられる事には至った訳だ。
②人々に対しての記述
「第二、蝦夷地の土人に就いて申し上げましょう。彼等は強健であり、かなり高い身長を有っており、普通には日本人よりも体軀が高い人であります。松前に商に来る者は日本人のような膚色をしていますから、彼等はそれ程白くもなく黒くもありません。但しもともとは日本人よりも白いのです。以上は小生が、松前で育った男女幾人かの蝦夷人に就いてはっきりと推定するわけであります。これらの〔男女共に〕一般には日本人よりも白いし、ときどき腹部の中程まで垂れるような長大な髭がをもっていて、醜い容貌ではなく、体軀とよく均斉がとれ、外見は立派でございます。」
「北方探検記」 H・チースリク 吉川弘文館 昭和37.3.30 より引用…
以下長いので要約。
・男性は頭の半ばまで髪をそり、他は髪を伸ばす。中には髪を折らないで結ぶ者もあり。
女性は髪は短く「禿」のよう。
・男女共に耳に孔をあけ、耳環(上等は銀、下等は衣片)を縣ける。
・老若男女共に松前に来ると酒を飲む。容易に酩酊せず、千鳥足や変な格好をするものは極僅か。(飯にトドの脂を掛けるから?)
・男女共に衣服は祭服並みに長く、数多刺繍や垂れた紐飾り有り。刺繍は花クルスに類似するが意味は不明(凛々しいとするが理由を知らぬと答える)。衣服の下には軽袗を着るが、松前へ来る時は着ない。
・女性はガラス珠らの首飾りを掛ける。帯の一端に鏡程の銀板。
・女性は唇と手首(5~6本の環)に藍色を塗る。
・武器は弓矢(毒矢)に槍に脇差し程度の刀。防具は板簾(鉄ではない)の具足。
・彼等の商品は、乾鮭、ニシン、白鳥、鶴、鷹、鯨、トド皮。
他、東→ラッコ皮、西→絹
銭ではなく、米(麹)、小袖,紬,木綿の着物と交換。
・太陽と月を信仰するが、人に有益だから。又山神と海神も信じるが、大漁祈願と薪や建材を入手する為。
・彼等の「住む地」には寺も坊主も居らず、読み書きも出来ない。
・本妻の他に妾あり(中国人を習う?)。
夫が先立っても夫の家に残る。
・既婚女性が姦通すれば頭髪を抜き取る(姦婦と知らしめる)。相手から刀や衣服を奪う事が出来る。
・蝦夷人には忌むべき罪悪感が無いと日本人(数年付き合いがある日本人に蝦夷人へ問わせた)が言う。
・地図より蝦夷国は東に長いだろう。
理由はラッコ皮が蝦夷国では産出せず、近くの3つの島で捕れる物を買付に行く為。
この島の人々は髭を生やさず、言葉も違う。
蝦夷国西の人々はラッコ皮を持ってくる事はなく、東の特産。
・挨拶やコミュニケーション方法が多数ある。幾つかは他国人に似ているが、簡単に説明不能。
この様な感じ。
アンジェリスは、また蝦夷国へ渡りたいと書いているが…それは無かった。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/09/163326
彼はこの様な壮絶な最後を遂げる。
さて、上記を「アイノ文化に似ている」と思った方は受け入れねばならぬ事がある。
①上記はあくまでも、ミナシや天塩の人々の話。
数十日掛けて松前迄、商いをしに来た人々の特徴を記載しており、途中の湊の地名らを含め、途中に住んでいる人々には全く触れてはいないのだ。
新羅之記録で「鵡川から余市迄、村々里々」とされた人々は一切登場しない。
②太刀が無い、間切り包丁も無い、イクパスィも無い。
何時もの通り、似た部分と似ていない部分がある。
③肌の白さについての記載で、敢えて「松前で育った」と表現している。
同じ街で共存している事になる。
商売で行き来する内に、松前へ住み着いたと考えている様だ。
今のところ、筆者が知る中ではっきり色白である事を記載してるのは、これが初見の様だが。
すれば、「西洋人に似ている」と書いたのは彼等が最初になるのでは?
ある意味当然かも知れない。
北海道に上陸した西洋人は記録上、彼等が最初になる。直接会話をしたのは彼等が最初になるであろうから、そうなってくる。
幕末に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/08/194417
西洋人が盗掘らを行った理由の遠因は、こんな彼等の報告かも知れない。
纏めてみよう。
以上の様に、
・彼等が「蝦夷人」として説明していたのは、
東側→
本道東端〜北方四島〜千島の人々の事
西側→
本道北端〜樺太の人々の事
と解釈出来る。
それは、松前周辺を含むそれ以外の人々と違い、純然とした「交易の民」の性格を持ち、
東側→
ラッコ皮
西側→
China方面の絹
という特産があればこそ、クローズアップされたと考えられる。
・これを鑑みれば、
東側→
厚岸場所の開設
西側→
宗谷役宅の設置
が、記録上途中の諸地区より早いのは、上記特産品を最大限に入手する為だと推測可能だ。
松前藩は「天下殿」たる秀吉,家康からそれぞれ独占交易権を得ている。
が、「天下殿」は、蝦夷人が何処に商いに行こうが自由にすべしとも言っていた。
この段階(1620年頃)これをガードするには、交易場所をより蝦夷人に近い場所にしてしまう必要が出てくる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/26/205243
これは後の「寛文九年蝦夷乱」での乙名らの言い分でも裏付けられる。
また、米の採れない松前藩としては、この「高付加価値品」こそが最大に利幅が取れる収入源とも言える。
囲い込みの必要は出てくるだろう。
・つまり、この時期、アンジェリス&カルバリオ神父が報告した「蝦夷人」は、「赤蝦夷風説考」で「奥蝦夷」と記された人々の事であろうと考えられ、「口蝦夷」に関しては記事していない。
彼等は口蝦夷の居住区まで達しておらず、更に彼等が渡道時に口蝦夷には遭遇してはいなかったのか、触れてはおらず「解らない」としか言いようがない。
・これは現在の我々だから考慮可能であり両神父は知る由もないが、https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
北海道では中世遺跡が検出されず、生活痕らしき遺跡は今のところ余市位。
それがTa-bら火山灰層直下の時代から突如遺跡が現れる。
口蝦夷とされる人々がどの程度定住していたのか?は未知数。
奥蝦夷居住地域→口蝦夷居住地域への流入は考えておく必要はあるだろうと言う事だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/27/092649
こんなところであろうか。
勿論、古書一つで何かが決まる訳ではないし、あくまでもカトリック布教の視点で報告しているので、数字を盛ったりはあり得るとは思う。
だが、直接蝦夷人と表現する人々へインタビューした貴重な記録であるのは間違いない。
アイノ文化に近い報告と考えるなら、それは本道の事…と、言うより樺太や千島のそれになるのではないか?
これなら、矛盾は消えるだろう。
但し、この文化は口蝦夷の文化とは言い難いのは確かだろう。
勿論、その文化を持って本道に中世から住み続けたという話にはならない。
と、あくまでもこれは1620年頃の話である。
時空をシャッフルしてはいけない。
参考文献:
「北方探検記」 H・チースリク 吉川弘文館 昭和37.3.30