ゴールドラッシュとキリシタン-25…キリスト教史「古典」にある「カトリック教会の痕跡」、「蝦夷衆の切支丹的断片」と「亘理伊達家家臣の登場」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/20/141907

さて…
ここまで来たら、キリスト教史の「古典」も読んでみるしかないだろう。
戦前に初版発行されたゲルハルト・フーベル著の「蝦夷切支丹史」。
元々帯広カトリック教会を作った方で、永田富智智氏曰く、氏の「キリシタン研究はこの蝦夷切支丹史の上に立脚」していると言わしめる。
何せ、アンジェリス神父の報告書を大々的に広めたのがこの著書らしい。
故に、地方史書上でこの著書から引用したり、引用先へ至った史料が山ほど出てくる。
本項では筆者が気になった三点…
カトリック教会の痕跡」…
蝦夷衆の切支丹的断片」…
「亘理伊達家家臣の登場」…
ここを紹介してみたい。


カトリック教会の痕跡…

「ディアゴ師は一六二〇年(元和六年)八月五日雪の聖母の祝日に、松前でミサ聖祭を執行した。(三九)これは明らかに蝦夷地最初のミサであつた。何故ならジロラモ師(筆者註:アンジェリス神父の事)は之より先数次の蝦夷渡航にもいつもミサの祭具を携へる事が出来なかつたからである。」
「ディエゴ師(筆者註:カルバリオ神父の事)がその麓に「教會」を建てた金鑛のある山は、ジロラモ・デ・アンジェリス師の報告でも明かな通り、千軒岳である。数年後その場所で百六人の切支丹が聖教の為に血を流した。~中略~福山(元の松前)から当方約十六粁を隔てゝ福島といふ岬の海際に一の巌窟があるが昔は日本内地から金の盗採者が来て此處から上陸し、小舟をその窟に隠して山を攀ぢ登り、窃かに金を掘取つて、その鑛石を小舟に乗せ南へ持帰つたものであるといふ。この巌窟は今なほ「舟隠し岩」と呼ばれて居り、また金の盗採者等が山頂に出た間道の跡も今日なほ之を見る事が出来るさうである。」
蝦夷ではそれまで切支丹に何の弾圧も加へられた事はなく、彼等は千軒岳の麓に小さな禮拜堂を設けてそれを聖母マリアに献げ、そこに相集まつては共に祈るのを常としてゐた。勿論彼等はそれを『マリア観音』と呼び、その仏教的な名に由つて己の信仰を隠さうとした。この禮拜堂は、嘗てディエゴ師(筆者註:カルバリオ神父の事)が木の枝で彼の『禮拜堂』を作つたその同じ場所にあつたもののやうである。」

蝦夷切支丹史」 G・フーベル (株)北海道編集センター 昭和48.5.10 より引用…

さてフーベル氏は、アンジェリス&カルバリオ神父の報告から、カルバリオ神父一度目の訪道で教会を作りミサを行ったとある。
新北海道史の記載年代と重ねると、大千軒岳開山は1628年。故にその前1616年から福島,知内町での砂金採掘開始とある。
その拠点に教会を設置して、そこに集まる金堀衆の中の切支丹に洗礼を施したりしたであろうと述べている。
つまり、このカルバリオ神父が設置した教会を見つければ、正式に北海道へのカトリック伝来は幕末~明治ではなく、1620年であると立証出来る事になる。
これを見る限りその場所は、隠し港を作った福島町か知内町になるのだろう。
見つけられればって前提ではあるが。
が、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/18/055912
筆者が水沢でご教示戴けた「カトリック信者が居ればミサを行うので、必ず祭壇ある教会が必要」…
やっと文書上、ここに辿り着けた訳だ。
それも伝説のバテレンカルバリオ神父」その人が建てたと報告したもの。

面白い事に、北海道出身の方に「北海道のキリスト教伝来は?」と尋ねると、大千軒岳大弾圧,アンジェリス&カルバリオ神父の訪道らを知っていたとしても概ね幕末~明治のロシア正教会の教会建設でキリスト教伝来と返ってくる。
理由は明白。教会が見つかっていないからだろう。
が、この「古典」には、古書上ではあるが教会の存在を示唆している。
勿論、アンジェリス&カルバリオ神父は、バチカンが認めたイエズス会所属の公式な宣教師。
その報告を否定すれば、バチカンへの冒涜なのでは?
これで教会が見つかれば北海道宗教史が「少し」変わってくる可能性があるものと考ええる。


②「蝦夷衆の切支丹的断片」

「千軒岳に於る流血の惨事に驚き、数多の切支丹等は松前から、またかの鑛山から逃げ出し蝦夷中でも日本人の来る事の稀などこかの海岸に行つて住んだ。さういふ切支丹部落の述は今なほ見出す事が出来る。例へば日高に様似(シャマニ)といふ村がある、そこにはアイヌが今日でも「キリシタンナイ」(切支丹澤の意)と読んでゐる所がある。そればかりか、その村境に一つの井戸があつて、之も今日まで「切支丹井戸」と呼ばれておる。」
「日高の國のアイヌ間には、なほ朧ろげながら同地方に昔切支丹がゐたといふ話が残つてゐる。五年程前であつた。殆ど未開の儘で至る人も滅多にない日高山中を跋渉して蹄つて来た二人の學生が、著者に一の古い玟瑰花冠(筆者註:ロザリオ)を示したが、著者はその様子から、すぐに昔の日本の切支丹が用ひたものと鑑定した。それを何處で手に入れたかを尋ねて見ると、彼等は答へて「その山中に住むアイヌから貰つたのです。何でもそのアイヌの言葉に従へば、ずっと以前その邉に住んでゐた人々が、いつでもかういふ数珠を使つて祈祷をしてゐたといふ事でした」と語つた。著者はそれからそのアイヌ部落の在場所を詳しく聞き糺し、二三週間後自らそこを訪れたところ、すべては學生の話の通りであつた。アイヌ達は先祖から聞き傳へて、その近所に昔和人が住んで居り、その人々は死者の墓標に十字架を立てたという事を知つてゐた。」
「そこ(朝冬島)には今もなほ病人を見舞にゆくと、病を癒す為にその人に十字を切る老アイヌが数人ゐるが、その習慣がどこから来たかは、彼等自身にも解らぬのである。」
「先づ一六四三年(寛永二十年)カストリコームといふ船に乗つて、蝦夷の沿岸及び千島列島の南部を調査し、樺太の方まで行つた蘭人マールテン・ゲリッツ・ヴリースの航海日誌から~中略~部下の一人が一つの木の十字架を見つけ、濱へ持つて来てそれを住民に見せた所、彼等はそれを一目見るとどうした事か非常に困惑の色を浮かべ、そんなものはサツサと水の中へ抛り込むがよい、十字架を手に持つた人は私達に触らないでくれ、出なければ先づその手を洗つてくれ、さうすれば差支がないから……と云つた。で、その十字架を海中に投げ込むと彼等はさも嬉しげに笑つた。しかし藪の際にまだもう一つ十字架が立つてゐた。」~中略~ヴリースの描いた地図に記入してある所によれば、それは蝦夷の東端といふことになつている。けれども實は千島列島中の國後島で、ヴリースはそれを別の島とは知らず蝦夷の最も東に突出した端と誤認したのではなからうかと想像される。住民達はその十字架の在ることも、その意味もよく心得てゐたに相違ない。何となれば他所の人にそれを発見されて一方ならず困惑の色を浮かべたからである。多分彼等は、日本でさういふ印を持つてゐると非常に危険たといふことを知つてゐたのであらう。さうすれば切支丹の逃亡者は蝦夷の東端、北端はおろか千島にまでも行つたといふことが認められる訳である。」
「北海道の東海岸には、もっと顕著な痕跡がある。十勝川の河口にある大津は松前時代からの古切支丹部落であつたらしく、また明治の迫害に於ても少なからぬ信者が、當時北海道東部の重要な港であつた其處へ逃れ、或いは流されて来たらしい。著者がその邉のアイヌから聞いた所によれば、昔そこに住んでゐた日本人等は佛教徒でも神道信者でもなくて、全く別の宗教を奉じてゐたさうである。小野といふ音更の老アイヌ間は十勝のアイヌ間に多大の尊敬を博してゐたが、著者に向つて度々その噂の本當である事を確言し、その和人達はマリア観音を尊敬してゐたと語つた。」

蝦夷切支丹史」 G・フーベル (株)北海道編集センター 昭和48.5.10 より引用…

実はまだまだあるが、この辺で。
フーベル氏は上記の通り、情報有らばその場に聞き取りをしに行っている。
初版は昭和十四年なので、まだまだ幕末~明治の生存者もおり、アイノとされる人々にもインタビューしていた。
むしろ、アイノがその伝承を話している。
全て鵜呑みは危険だが、ここにある限り共生の跡敷かない。
敢えて言えば、その地域の風習の一部がアイノ文化の中に縫合(病で十字切る等)される様が見えて来る。
ぶっちゃけなのだが、アンジェリス&カルバリオ神父は「自分達がその地(北海道~東北)に訪れた時には既に切支丹は居て感動した」と散々書いている。
背中に十字架を描いた話もあり、それは神の福音だと記録する。
十字架とウタサ紋の関係は?
ウタサ紋は魔除けだったと思うが。
さて、上記ヴリースの記した十字架だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/02/184205
上記通りなら、何故これらと切支丹墓の関連性を指摘する研究者が居ないのか?甚だ疑問なのであるが…
元々アイノは墓を作らない話まであるのにも関わらずだ。
我々が紹介してる内容なんか、新しいもんなぞ一つもないのだ。
著書,論文それぞれの引用元の原版まで辿って見付けてるだけ。
新ネタは一切ない。
でも、こんな話も、聞いた事はなかった。
まぁまだ確証は無し。
次に行こうか…


③「亘理伊達家家臣の登場」…

我々的スーパースターの再度の登場である。

「古切支丹時代の記念物は最近十年間に、殆ど日本のあらゆる地方、あらゆる國で発見された。~中略~即ち一九二四年(大正十四年)に室蘭附近の紋別で、田村勇一郎といふ人の家に、眞に珍しくも貴い古切支丹の遺物二三の見出されたのがそれである。この田村氏の祖先は伊達家に仕え、仙臺の近傍の亘理といふ所に住んでゐた。そしてソテロ神父か支倉六右衛門(註:支倉常長)によつえ基督教に接し、家族の二三人と共に洗礼を受けたとその一家は、詳しくは知れぬ惑事情、恐らくは正宗の後継者の下に一層激化した迫害の為に、已むなく移住或は逃亡して蝦夷へ渡つて来たのである。この田村家に「童形キリスト」の像がある。この牙彫の像は三百年の歳月を経て殆ど眞黒になつてゐるが、高さ約十糎、臺座の幅三糎ある。そしてそれには長さ二十糎幅二十五糎この甚だしく黄色くなつた書物が巻きつけてあつた。その本は様子及び文字から慶長年間(一五九六-一六一五年)の物と鑑定される。」

蝦夷切支丹史」 G・フーベル (株)北海道編集センター 昭和48.5.10 より引用…

この現物の現状、又、田村家が何時北海道に渡ったか、後の研究内容は解らない。
まんまの記載した。
勿論、伊達家臣団の一員なれば、仮に江戸中期の北方警備らで訪れたとしても(家族一緒なので無いと思うが)それやその前後、もしくは幕末の移住政策の中で移り住んだ可能性もある。
しかしその場合、そちらがヤバくなる。
慶長年間の聖書断片を持っていたなら「隠れキリシタン」だった事になってしまう。
伊達藩は家臣団に隠れキリシタンが居た事を黙認した可能性が出てくる。
鉱山関係者を弾圧しつつ、部下は良し…とは、ならないだろう。
まぁ現在我々は憲法で宗教の自由を保証された身。
今更その責任を取る必要も無いし、別に先祖が切支丹であろうが一切気にする必要も無い。
むしろ、弾圧の中、一家の教えを守り抜いたので称賛に値すると思う。
さて、この聖書断片は三つ。
「十五の困難」…
「小罪の根本悪の事」…
「マグメントの事」…
だそうで。
仙台にはこの時代の像や書物がかなり発見されているとあるが童形キリスト像には1602年の年号が記される事が多いとか。
一応、また「伊達成実家臣団」様のHPで確認させて戴いた。
こちらを見る限り、田村姓の家臣の記載は無い。
整合しないじゃないか!と仰る方は居るだろう。
いやいや、整合性は取れる。
御家老の常盤氏一族は元々「田村氏の内乱」から離脱し、伊達成実公に仕えてる。
故に、明治維新で常盤氏から田村氏に改めて改名してたんじゃなかったかな?
まぁこの田村氏と御家老一族との関連性は全く調べられるものでも無いし個人情報に当たるので、我々的にはここまで。
ただ、漂流者らも含め、北海道絡みの話題で「伊達」がポロポロ出てくるのは否めず…
しかも今度は、亘理伊達氏家臣…
そういやこんな項があった。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/13/083842
逆さまに同じ様なケースなのだが。
亘理伊達とキリシタンの関係は…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/06/135923


如何だろうか?
江戸初期の状況を想像するには、なかなか濃厚な内容ではあると思うが、何せ「蝦夷切支丹史」はあちこち引用される割には、何故かキリシタンや金堀衆の関係には関連性を示唆させず、上記内容はブラインド。
使ってダメな史料と言うなれば、他の部分の引用も止めねばなるまい。
偽典扱いにしますか?
ムリだよね、史料が少なすぎるのだから。



参考文献:

蝦夷切支丹史」 G・フーベル (株)北海道編集センター 昭和48.5.10