秋田の中世城館の石積み、続報…特別ミッション、秋田の「蝦夷館」に石積みはあるか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/29/062033

これは、秋田の中世城館の続報。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/03/202211

岩手編で少し「蝦夷館」に触れた。

実は、秋田編での話…秋田の石積みを追い始めたのには理由があった。

実は秋田に有る「蝦夷館」の主郭内部の段築の部分に石垣があるという情報があったから。

これが「秋田県の中世城館」にある蝦夷館。

八峰町、旧峰浜村の母谷山の麓に位置し、三条の空堀で舌状台地と切り離され、段築で郭が2段に分けられる構造。

郭は大凡130×70m、山頂に薬師如来が祀られる。

発掘では土師器,須恵器,貿易陶磁器が出土し海岸を望見るに視界が広く、海に関係者した土豪の性格が見えるとある。

昭和39(1964)年に発掘したとの記述はあるが、同書には、石積みらに対する記述は無い。

なので、この辺どうなのか?確認したかった。

筆者も一度アタックしようとした事があったが、藪藁に阻まれ断念した事がある。

母谷山は菅江真澄も訪れており(おがらのたき)、彼なら記述してないか?と秋田県立博物館で確認してみたが、この蝦夷館はスルーしてる模様。

その段階では何の資料も得られなかった。

 

さて、筆者は歴史系政治系に発信している方に、教育史を調べたら?と話す事がある。

この地域の教育が変じゃないか?…こう仰るので、ならば教育委員会がどんな方針で地域史に取り組んできたかを確認してみれば、その変遷が解るだろうと。

他人に言った事は自分でも実践せねば。

秋田県考古学研究史」 と言う文献を見つけた。

秋田県の考古学がどのように進められてきたか?年表的に纏めたもの。

学問とは、その研究がどのように進んできたかを学ぶ事。

原点に戻れ…である。

ここにあった、どの様に発掘し何に報告を掲載したか?がだ。

 

これが蝦夷鹿からの眺望。

確かに海が見える。

では、詳細を。

・発掘は峰浜村郷土史会が主体となった。

・段築の上側を第一地区、下側を第二地区とした。

・第一地区は、頭頂部西側に南北2×28mに第一トレンチ、東西コーナーから南北方向に1×8mの第二,第三トレンチを切る。

中央付近に列,間隔不整の柱穴12、それと直角方向に柱穴1を検出。

遺物は、黃瀬戸、粗製の須恵器,土師器、鉄片。

・第二地区は、中央から南斜面へ第一トレンチ(1×14m)、それと直角に第二トレンチを切る。

南斜面に近いところで柱穴3を検出したが、東西に拡大しても柱穴は伸びず柵列ではなさそう。

東側に焼けた粘土と鉄塊を検出、近辺に柱穴2があり、これが柵列跡と考える様だ。

遺物は粗製土師器,須恵器、青磁,白磁,染付(明末~清初),瀬戸の細片、鉄小片等。

・第一地区のトレンチほぼ全面、第二地区の東へ6m,南へ6mの範囲で、地表下に拳大の礫が検出される。

特に第二地区では概ね地表から30Cm程度の深さで並び、第一,第二地区共に人為的に敷かれたものと考えられる。

 

「以上の出土品から考えるとこの館址は戦国時代の館址と考えられ、近くの能代桧山の霧山城(筆者註:安東氏の桧山城の別称)と併存する年代のものと考えられる。この館の立地が、海上を望見する視界の開けた台上を占めることから、海上に活動した土豪の性格、又船載の中国古陶変化の遺存も戦国時代を裏付ける。

この館は、伝来と文献の記載を欠くが、堂々たる構造の館の性格を知ることが出来ると共に、内部構造においても外柵を台上に廻し、建物をその中に掘り立て、床に礫をしき詰めたことが知られた。」

 

蝦夷館発掘調査報告概報」 奈良修介/冨樫泰時 『出羽路 26号』  昭和40.6.25

 

と、言う訳で、何とか発掘調査報告概報迄辿り着けた。

状況的には、前項にあるにかほ市「山根館」に似た構造、仁賀保氏の祖である「大井伯耆守友挙」の改築が1468年、1602年の国替まで使用とすると一部時代は被り、見立てと近い事にはなる。

ただ、

・層序記載が無く、時代背景が見難い。

・須恵器,土師器の出土があるので、構築はもっと古い事はないだろうか?。

・焼けた粘土を竈跡等と見ている様だが、本著と「秋田県の中世城館」の記事がほぼ変わらないので、追加調査はやられておらず、それ以上の解明はされてはいない様だ。

等の見方は出来るのではないだろうか。

これ以上は、再度本発掘をしないと話は進まないだろう。

 

さて、段築部分そのものに石積みがあるか?はトレンチから外れておりハッキリは解らないが、当初情報はある程度正しかった事になる。

山根館をカウントする以上、ここ蝦夷館を追加せねばなるまいし、仮に須恵器,土師器の存在から古い時代に構築され後の時代迄断続的にせよ使用されたと検証出来るなら、これまた山根館と共通項が出来てくる。

空白部分に一箇所追加される事になるので、飛石的だが北限が広がった事になる。

また、薬師堂があるなら、信仰と言う部分の条件もクリアされてはいる。

海側にポツリポツリこれらが津軽側に広がれば、北海道側の確認も更に拡大する必要も出てくるだろう。

特にこの館跡が海との関連が示唆される点も興味深い。

まずは青森の実績確認からになる。

実は、この舌状台地の基部を空堀で区切り、段築を施しDの字型に構築された城館跡は、この蝦夷館だけではない。

近似のタイプの城館は山形,岩手両県にも有ったりする。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/03/202211

出土遺物も含め、北方系住人の居館となる確証は現状は見られない。

蝦夷(エミシ)とは何か?

・何時から何を持って蝦夷館と言うようになったのか?

こんな処をまた突き付けられているようた。

 

とりあえずは、以前からあった特別ミッションは無事終了。

それも現状記載されない石積みの状況も確認出来た。

まぁゆっくり確認していこうではないか。

 

 

 

 

参考文献:

 

秋田県の中世城館」 秋田県文化財保護協会 平成4.12月(第三版)

 

秋田県考古学研究史」  冨樫泰時  書肆えん  2011.1.11

 

蝦夷館発掘調査報告概報」 奈良修介/冨樫泰時 『出羽路 26号』  昭和40.6.25