https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/18/054340
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、外伝…「鍋被り」の風習の東北での実績は?」…
こちらを前項として、山形県での備忘録として二題寄り道をしておく。
理由は簡単である。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651
「余市の石積みの源流候補としての備忘録-5…内容精査し、北東北の中世城館石積みの傾向を見てみよう」…この様に、余市の石塁の源流を探すべく、中世城館を当り始め、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005
「余市の石積みの源流候補としての備忘録-6…北海道〜北東北での出羽三山信仰の信仰圏の構造は?」…修験道へ至っている訳で。
当然、信仰系での石積みも追わぬ訳にはいかない。
では…
①「ケルン?」とは?
実は「中世墓資料集成−東北編−」を検索している時に、たまたまこの「集石墓(ケルン状の石組)」という記述を見つけてしまった。
ケルン=ケールンといえば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/17/060823
「余市の石積みの源流候補としての備忘録-7…北海道に散見される「ケールン」とはどんなもの?」…北海道で結構使われていた表現だ。
記述があるのは鶴岡市「神社口遺跡」13世紀で、添付資料は、
この写真一枚のみ。
「骨蔵器が出土、蓋は擂鉢を転用」との記述のみ、集石墓の本体への記述は無し。
と、言う訳で、同書の引用元である文献を入手した。
発掘の経緯と状況は地の方が、
「通称裏山に下刈を行っていたとき偶然に、石が一ヵ所におびただしく露呈していたところを見つけ、掘ったところ、地 表下1-1.3m より(筆者註∶写真の壷を)発見したものである。遺跡地は鶴岡市大字西目字神社口56の1。鶴岡の西方で俗に西山といわれる荒倉山を主峰とする西部丘陵の東側、平野に面している一支丘に存在する。 20数mの丘頂上にあり、東西幅約1.2mの内部には長径3cm程の河原石がぎっしりつまっているという。 出土品はここに紹介する蔵骨器としての中世陶器の遺物のみで〜後略」
「鶴岡市大字西目字神社口出土の中世陶器」 酒井英一 『山形考古 第3巻 第1号』 山形考古学会 1977.11.10 より引用…
と、言う訳で、ケルンについての詳細は常軌しか記載ない。
地の方が作業中に見つけて掘ってしまったものなのでやむを得ずか。
で、意気消沈しここで終わったら「あきらめたらそこで試合終了ですよ」…と言われてしまいそうなので、「中世墓資料集成−東北編−」から類例を探してみた。
鶴岡市「水沢経塚」12〜13世紀だそうだ。
同書より、
「積石塚。地表から1.4mの石室から出土。」
「経筒 (高さ26cm、径13cm、 銅板製、鋲留め) ・木製経筒・刀子5本。」
勿論、木製の箱に入った銅製経筒と骨蔵器では、塚内部のサイズは変わるだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/16/192421
「北海道中世史を東北から見るたたき台として…東北の中世墓の傾向や宗教北上の傾向を見てみよう」…この様に、集石塚のカウント数は18と山形県はダントツ。
未発掘でまだ確認されてないものや破壊されてしまったものはありそうだ。
これならケールンと言っても納得である。
つまり、先の中世城館のデータに追加すれば、他地域との差は更に開いてくる。
何らか出羽三山信仰に関わると考えるのは容易だろう。
②「天神山の石組遺構」…
ここは以前SNSで石積みがあると話を教えて戴いていた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/04/200752
「秋田の中世城館の石積み、続報…特別ミッション、秋田の「蝦夷館」に石積みはあるか?」…この情報を下さった方が、山形での中世城館資料を探している時に教えて戴いてた。
が、その時は中世城館として登録されていない様で探す事が出来なかった経緯があるのだが、①で「ケルン?」の文献を入手したら「天神山の石組遺構」の発掘概報も記載があったと言う「瓢箪から駒」である。
たまにあるケース…
バッサリどんなものかと言えば…
こうなる。
山形市「天神山遺跡」は山頂に天神様を祀る祠があり、そこに繋がる尾根上のルート上に分布している。
昭和41年に第2地点でテストピットを掘り、土師器検出、昭和46年に第1地点(参道入口)、この報告が3度目の様だ。
石組遺構は第1地点,第3地点で検出されており、
・第1地点…
20~30cmの石英粗面岩の角礫で、内法45×90cm、深さ20cmの石組を構築、内部には焼土と木炭片があり石組内部も比熱痕あり。
・第3地点…
石組遺構は東にある径120cm×高さ130cm巨石の西側に接し、30~50cmの石英粗面岩角礫を配し、内法110×40cm,深さ35cm。
内部には焼土堆積、底部には多量の木炭片が検出。
配石状遺構は、巨石の南側に20~30cmの石英粗面岩角礫で260×40cm斜面にそって並べられている。
また石組遺構,配石状遺構に接して土壇状の焼土堆積があり、板状の工具で叩いて突き詰めた様な跡がある。
出土遺物は第1〜第3共に土師器、ほぼ同時代のものと推定、ほぼ実用的なものだとしている。
と、三枚の写真の最初が全体像の概図だが、参道になる南側尾根の逆、北側斜面が頂上に向かって三段の土壇状になり、それぞれの段は平滑された跡がある様で。
…あれ?、何処かでそんな構造を見掛けた事があるような…
もとい…
第3地点の発掘故、この部分についての考察があるが、
「第3地点では、石組遺構や土壌状遺構の下位か ほぼ正位の状態で土師器が検出されている。
巨石の東側にこれらの土器群をおいて火をたき、さらにその上に石組遺構や土壇状の遺構をして火をたいているという一連の状況を把握できる。 第1地点調査の段階では、遺構のあり方や遺跡の立地等から一種の祭祀的な性格をもつ遺跡であろうと予察されたが、第3地点では、遺構はいずれも巨石を依代として営まれており 、巨石の大きさなどからしても遺構に伴う付属的なものとは考えられず、石組遺構や土壇状遺構の下位より出土した土師器群はあたかも巨石に対し供献されたような状況を呈している。
このように遺構や遺物の出土状況等から巨石に 対する一種の祭祀遺跡であろうと思われる。遺跡における対象は種々のものがあるが自然物を 対象とするのは比較的多いようである。」
「山形市天神遺跡調査概要−第3地点を中心にして−」 茨木光祐・横戸昭二 『山形考古 第3巻 第1号』 山形考古学会 1977.11.10 より引用…
と、言うように「祭祀遺跡」と推定している模様。
一連東北と北陸の墓制を見ているが、第1地点の石組遺構は墓で近似のものは見掛けるが、人骨片は見つかっていない様だ。
さて、「天神山遺跡」が後に再発掘されているか?らは、現時点で全く調べていない。
北側の構造が「古墳」っぽい気もするが、後の再発掘らは解らないし、中世城館登録されていなかったので古墳や寺社として認識されたんだろうとは予想出来るが。
後の経緯が解らないので備忘録。
巨石系の検出とすれば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/03/202211
「余市の石積みの源流候補としての備忘録−3…岩手県の中世城館の傾向はどうか?、更に「蝦夷館」考」…岩手県の矢巾町の岩清水館,煙山館を思い出す。
「館神」と言う考え方を知ってしまえば、城館と寺社の差の敷居は低くなるので、本当はどちらか?は発掘しない限り解らないだろう。
土壇状遺構を伴う祭祀場(又は墳墓)は北陸にもあるので、これも有りと言えばあり。
勿論、修験系との関与を想定されるもの。
また、途中でゴニョゴニョ書いたが、土壇で思い浮かぶのは
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949
「時系列上の矛盾…瀬棚町「瀬田内チャシ」は江戸期の物、中世迄遡るのは難しいと報告されていた」…これだったりする。
ありがちな、防御性環壕集落→中世城館への作り替え…の様な「再利用」があったか。
まぁ邪推はここまで。
如何だろうか?
昨今、思うのだ。
全体を発掘し「これは◯◯である」と判明する場合は別として、途中過程にある遺構は本当はどちらなのだろうか?と。
勿論、それは施設共用されるので明確に分ける事は難しいのだが。
城館の専門家は「これは城」と言い、宗教の専門家は「これは寺社」と言い、筆者の様なド素人は「どっちやねん?」と考える。
「垣」と言う共通施設を持つから当然の疑問なのだが。
これもある意味「定義」の問題なのだろう。
まぁそこはそれぞれの系譜を追えば少しずつ理解出来て来るのだろう。
さて、なんでこんな事を書くか?
それは今迄本ブログを読んで戴いてきた方なら解るだろう。
「定義」の問題。
仮に「アイノ文化の源流に修験有り」が成立するならば、
中世城館と宗教施設の差は?
中世城館とチャシの差は?
なら、チャシと宗教施設の差は?
それを作った目的?と作った者は誰か?
その時点でそこに住む者は誰だったのか?
これら疑問も同様だからだ。
まぁこの項は寄り道。
とは言え、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…
少なくとも、余市ではここでの「方形配石荼毘墓」と石塁の一致をみる。
駒が揃う事になる。
まぁ、ゆっくり学んでいくとする…
参考文献:
「中世墓資料集成−東北編−」 中世墓資料集成研究会 2004.3月
「鶴岡市大字西目字神社口出土の中世陶器」 酒井英一 『山形考古 第3巻 第1号』 山形考古学会 1977.11.10
「山形市天神遺跡調査概要−第3地点を中心にして−」 茨木光祐・横戸昭二 『山形考古 第3巻 第1号』 山形考古学会 1977.11.10