https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/19/100518
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/22/151738
さて、標題の通り、思い立ったが吉日…
筆者は飛島にフィールドワークしてみた。
主なテーマは「館岩の石塁を見る事」。
とは言え、飛島は離島。
何時もの如く、思いついた時に車をぶっ飛ばして行ける訳ではない。
現状、飛島渡航は酒田港から定期船「ニューとびしま」で約70分、船で揺られる事になり、日帰りすると滞在時間は概ね2時間半。
でも、行きたいと思えば行ってしまうのが性と言うもの。
では…
①館岩の石塁を確認せよ!
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/19/065526
「ニューとびしま」より確認した「館岩」。
この右手にウミネコの繁殖地「百合島」がある。
位置的には飛島の南東の縁に当たり、丁度ニューとびしまが入港する勝浦地区の港を出し風から守る天然の要害になる。
1810年の飛島図画にも描かれると。
高さ40mの岩山と言うから、麓に行くとなかなかデカい。
結果は…
4月頭か、一部で崩落があり、立入禁止…
様子を窺い知るに入手出来たのは、パネルにあるこの写真のみ。
高さ1m位でこんな石塁があるそうだ。
ニューとびしまの係員さんの話だと、全く知識が無いと気が付かないそうで、これからの時期は草だらけで見えなくなるとの事。
あれ?何処かで聞いた様な話である。
何をしに一日費やし飛島に渡ったのか?、いきなりの頓挫である。
行って気が付いたのだが…
隣の中村地区の端ならいざしらず、勝浦地区方面から館岩を眺めると見えなくなる物がある。
「月山」。
飛島の港…というか居住区は、島の東の浜に2地区、北の浜の法木地区1地区で、本州側が見える方向。
丁度、館岩を挟み、その奥に月山が隠れ見えなくなる位置関係だったりする。
と、言う訳で、最大テーマは全く果たせぬ状況となった。
まぁ、飛島の神様は宿題を残してくれたのだろう、また来いと。
②狄穴洞窟遺跡を見よ!
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/15/191851
筆者の飛島への興味の原点は「狄穴洞窟遺跡」。
ここにある様に、人骨や須恵器を伴う洞窟遺跡があったのを知っていたから。
実は中を見る事が出来る様に整備されていた。
添付にもある様に、第一洞窟入口付近は石材を取ったりした為に失われており、
浜を通る道路の脇に第一洞窟途中からぽっかり口を開けている。
入口から見た第一洞窟…
第二洞窟への道は、
現在塞がっている。
第三洞窟の奥の奥は、
報告書には、落石で断定出来ないが逆側と通じているかも…と、あったのは納得。
添付の様に、ここで発掘された人骨は、
・男性…縄文系
・女性…現日本人に近い
こんな研究結果が出ており、北方系やアイノ系らの血統は出てはおらず、墨書土器まで使っていた事が解っている。
何故、この閉鎖された空間に居たのであろうか?
洞窟内で、???状態。
③古墳?を確認せよ!
実はこれ、未報告である。
「高森山麓の大宮神社旧社地の北方には径四メートル高さ一メートル半の饅頭状の塚があり、源氏盛、平家盛と呼ばれている。二〇年程前讃岐某が発掘した時拳大の石が並び、その下に小石列があったといい、大場教授は古墳と見られたが、経塚か古墳か判然としないものの様に思われる。」
「飛島誌」 長井政太郎 国書刊行会 昭和57.11.30
これがその「源氏盛、平家盛」である。
確かに古墳状の塚になっている様だ。
裏側から見ると、
確かに陥没した様な跡。
讃岐某氏は発掘した内容をどうしたのだろう?
ここだけ見れば確かに石を並べた玄室が有る古墳で、その玄室部分が崩落した様に見えるが。
この二基の塚、両方共に同様の崩落跡?が見られ、仮に発掘されたなら、両方やられた事になる。
と、言う訳で、酒田帰港後に「酒田市立資料館」へ直行し、追加発掘の有無を訊ねてみた。
と、言うのも…
酒田市立資料館の常設展示より…
程近い「神屋敷」で鎌倉~室町の古鏡や古銭が出土しているのを知っていたから。
答えは、どうやら致道博物館主体の「狄穴洞窟遺跡」の合同調査以来、酒田市として発掘らはやっていない様だ。
情報を持つとしたら致道博物館になる。
と、言う訳で、考古資料展示室の改装終了時に致道博物館へ詳細を聞きに行こうと思う。
宿題増える…
源氏盛、平家盛の奥には、豪族屋敷跡と思われる土塁跡もある様だが、時間都合で割愛。
④その他
もう一箇所割愛した所がある。
「賽の河原」と呼ばれる浜。
「飛島さんぽGUIDE MAP」より…
こんな風に、丸石が自然に積み上がった物があると言う。
賽の河原と言えば、三途の川の岸。
地の方々もあまり近付かないとか。
勿論これ、向かい側の烏帽子岩の安山岩が自然に積み上がったとされているので、人的施設ではないとされている。
実際の自分の眼で見てみたいものだ。
と、言う訳で、謎解きどころか宿題が増えてしまった感だが、少し考察してみよう。
残念ながら、館岩の石塁と謎の文字が彫られたと言う板碑は確認不能。
現状、中世城館の石積み分布より出羽三山の存在に着目しているが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/22/151738
先述の通り、館岩は勝浦地区ら居住区,高森山側から見れば、月山の方角にある。
謎文字の板碑ら含め、何らか宗教的な意味を持つ空間であってもおかしくはないのではないだろうか。
中世城館で考察した通り、石塁は人が居る方向に局部的に施される傾向があるかも知れない。
現状、飛島には「小物忌神社」がある。
鳥海山と月山を合祀した出羽国一ノ宮「大物忌神社」と対になり古書記録された「小物忌神社」は、その所在がハッキリしないとか。
飛島が有力とされているが、「飛島誌」によると、実は過去に一悶着あった様だ。
それは、当時の小物忌神社の宮司がそれを否定したからとか。
この辺にも謎はある様で。
で、石塁…
・館岩のパネル…
・現状最古の払田柵…
・余市の茂入山…
・余市、大崎山のケールン…
これら石塁の関連性は如何に?
特異性を持つ遺構だからこそ、一つ紐解ければ、関連からそちらの謎も解けてくる可能性はある。
そして、飛島の場合は、離島で生活痕が少ない分、狄穴洞窟遺跡の様に「現日本人に連なる人々が居た」と言う点が既に解明されている事は意味があるのではないだろうか?
と、館岩を直接見て感じた事だが、館岩の石塁は防御用ではないと思う。
物見台や狼煙台なら成立するが、城や砦ではないと考えるのだ。
数日立て籠もる様な場所ではない。
岩山なので、真水確保が難しいだろう。
謎文字の板碑と合わせれば、宗教関連施設ではないかと考える。
では、現状の島の生活と石積みは?
この周辺は、岩山が海岸近く迄迫り出す。
木の生え際や神社ノ脇らを見ると、石積みを構築しているのが解る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/22/151738
庄内の立谷沢川周辺、瀬場付近もそうだったが、平地が少なく土台構築の必要性があるのか、あちこち見掛けた。
ここでも必然を持って石積みを使ったのかも知れない。
勿論、これら石積みが何処迄遡るかは、話は別になるが。
歴史は必然で紡がれる。
石積みは別として、飛島の風景を見たときに、一番最初に思い出したのが実は余市の海側の景色だったりする。
茂入山や大崎山、尻場山ら付近は、そんな風景が見られた。
何故、男鹿らを思い出さなかったのか?…多分、浜際の平地の広さが秋田の方が広いからなのかも知れない。
見て感じたままの報告である。
散々釣船で近く迄来ていたのに今回が初上陸、近くて遠かった飛島。
館岩に登れる様になったら、また来ようと思う。
潮風を浴びに、そして謎解きの最終段階として…
参考文献:
「飛島誌」 長井政太郎 国書刊行会 昭和57.11.30