https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/16/205130
「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?②…山形迄南下したらどうなるか?、そして…」…
さて、またシリーズ化してきてしまった感だが、中世城館の傾向…この際南下させよう。
ここで予め…
明確ではないのだが、宮城県はこの「中世城館分布調査報告書」が発行されていないとか。
何せ現物の形かは判別する都合上、無いものを判断はムリ。
なので、宮城はブランクとなる。
結論からすればこうなる。
①中世城館率…
また地図で示そう。
赤…8割以上
紫…5割以上
青…2割以上
緑…2割未満…
※白…データ無し(宮城県)、ここは以下同じである。
これは以前から指摘している通り、南から文化グラデーションが薄くなる傾向。
多郭化,要塞化らが必要な地域であったのだろう。
②北海道式区分での比較…
これも前項同様に「丘頂式,孤島式」の比率を地図で示そう。
赤…8割以上
紫…5割以上
青…2割以上
緑…2割未満…
新潟や福島、特に新潟に至っては、丘頂式ベースで山城化が進んでおり、どちらかと言うと全体的に郭が小さく尾根伝いに小型を多数連郭配置にして、行き来を阻害している様な感じである。
そう言う意味では、丘頂式としての比率はもっと高くなるのかも知れない。
③畝状竪堀群…
前項で触れた「畝状竪堀群」だが、数字で並べる。
北海道
不明
見当たらず
見当たらず
・沿岸…12
・内陸北部…見当たらず
・内陸南部…17
・庄内…12
・最上…15
・村山…8
・置賜…8
・浜通り…0
・中通り…2
・会津…2
・下越…16
・中越…37
・上越…8
・佐渡…1
ここから北上したとすれば、中越→下越→庄内→最上→秋田内陸南部…
↓
秋田沿岸→秋田内陸南部…
こんなところか。
この畝状竪堀群、日本海側が濃い話はあるが、東北の状況でもそれは確認出来た。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/23/210550
「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?…敢えて北海道式区分に北東北を当て嵌め数値化したらどうなるか?」…
前々項でも触れたが、北海道で検出されるこの畝状竪堀群は、この傾向からみても「船で直接建造(又は改造)者」が直接伝えたであろう事が予測出来る。
④方形区画…
この際数値化してみよう。
a→方形面崖式とする
b→中世居館とする
ここで前項同様に、a「方形面崖式」が10箇所を超える所は、
b「方形居館」が10箇所を超える所は、
となる。
・aについて…
福島,新潟の追加に際し「北海道のチャシ」を再確認したところ、堀の形として「L字,方形」らの記述があったので、それをベースに数値化してみた。
前項迄で道東に多いと予想していたが、それどころか釧路,厚岸,根室,標津にほぼ集中して存在する。
そして、地域毎全数からの方形面崖式の比率を見れば、テンショ,メナシと旧南部地域の比率は同等である。
岩手北部も検出数が多い四門九戸地域と一帯と考えれば、分布的には納得だろう。
これは有名な「トコロチャシ(L字記述)」だが、
こちらが少数派。
つまり「方形である必然」を考える場合、何故道東地域であるのか?を考える必要が出てくる。
現状、津軽海峡の西→東の海流に流される、又は黒潮に乗せ北上するらを考えた場合、日高,十勝ではなく道東に辿り着くのは?
八戸や久慈、又はそれより南ではないだろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/26/210548
「この際、「内耳土鍋」を見に行こう!…「旧伊達氏領」の内耳土鍋ってどんなもん?」…
千島〜道東,オホーツク地域で検出される「内耳土鍋」で辿れば説明が付きそうだが。
なれば、アクセスの目的は「金銀」が妥当だと考えるのだ。
この辺は、鉱山分布らとの整合は必要だが、
①内耳土鍋検出と同時位に伊達氏関連での砂金記述が増加し、それが現地砂金場で賄えるのかに疑問がある。
②後代ではあるが、Ta-b降灰の前の1643年段階で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる④「厚岸編・まとめ」」…
千島衆は恐らく灰吹法や金や銀を知っている事。
③松前藩士「オリ」は採金場を「白糠」付近とハッキリ答えている事。
これらと、方形面崖式の関係が解ってくれば、この偏在する分布の意味合いごと解ってくるかも知れない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/28/205257
「東北最古の「金銀銅」処理の痕跡…そして、何故その立証が困難なのか?」…
少なくとも、十和田〜奥入瀬〜四門九戸地域は、尾去沢鉱山を中心とし古代から金銀銅を扱った地域で、村山,置賜も寒河江川らを中心とした砂金場地域…
同時に早くから鎌倉御家人が入っていた共通点はある。
さて、新潟でも中越地域で10件の検出があるのだが…
検出するのはこの赤丸の地域。
特に十日町市だけで4件。
思えば、越後三山を新潟平野から望む辺りであろうか?
この辺にも同様の傾向があるのなら、面白いと思うのだが。
勿論、越後三山も修験の山であるのは言うまでもない。
・bについて…
現状確認した地域では、
青森の津軽南部〜四門九戸地域…
最上を除く山形全域…
会津…
下越…
この辺に偏りが見られる。
福島や新潟についてはまだ中世史を掘り込めていないのでどうかとは思うが、やはりかなり偏重していると思われる。
現状では一部aと被るので、その辺の共通項や差違も今後見ていきたいとはおもう。
さて、如何であろうか?
特に「中世墓資料集成」を一度通しで見ている筆者的には、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…
特に中世城館率らは予想通りと言うか、さもありなんというか。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/23/205737
「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−3…螺旋状垂飾の年代特定は?、そして用途は?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/24/202619
「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−3、あとがき…研究者は「お宝」をどう考えているのか?」…
これら特異とされるアイテムの年代は専門家の見解も分かれるところの様だが、概ね13〜15世紀と考えてる様だが…
我々が忘れてはいけないと考えるのは、
①鎌倉方による奥州侵攻からの北上
これが12~13世紀…
②南北朝の動乱による北上
これが14世紀…
③南部氏による十三湊侵攻による北上
これが15世紀…
何もチャシ起源を樺太の「白主土城」ら大陸に求める必要は無い。
上記①〜③の人々は例外無くチャシ構築が可能、且つ宇田川教授の言う14~15世紀を含む時代を全網羅する。
北上の古書記載,伝承と照らし合わせれば、何も北方や大陸に起源を求める必要はない。
①〜③の人々が構築した…
これで説明が可能。
そして、中世墓にして、砦状構造物にして、全体的にはほぼ同じ様な傾向の文化グラデーションを描き、特異点も飛び地的に同様の物が本州にはある。
中世にはそんな人々がそこに居て、その人々が遺跡を残した…
これ以上、なんの説明が要るのか?
何故、本州との事例比較をしないのか?
筆者は不思議でならない。
参考文献:
「新潟県中世城館跡分布調査報告書」 新潟県教育委員会 昭和62.3.30
「北海道のチャシ」 北海道文化財保護協会 昭和58.3月
「北海道のチャシ集成図 Ⅰ(道東北篇)」 北海道チャシ学会 1985.10.30