https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/15/190213
こちらを前項とし、関連項は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836
大鳥井山柵、鳥海柵、十和田噴火、金と辰砂、秀衡街道…
と、しておこうか。
さて、改めて…
我が国産金の歴史は、ここから始まる。
関連項にある様に「百済王敬福」により都に送られ、それで「奈良の大仏」の鍍金が施されたのは既出。
その後、陸奥から金が租税として齎され、後に平泉の黄金文化へ至る…と、今迄も散々書いている。
金と蝦夷(エミシ)の関係についても、考察を交え述べてきた。
じゃ、途中はどうなのか?
貴金属はなかなか空白…実は前項でちょっとだが触れているのだが…
「ここで一つだけ、戦闘痕跡が検出された遺跡が発見される。
それが八戸の「林ノ前遺跡」。
大量の鉄鏃や明らかに戦闘により死亡した様な痕跡を持つ遺体が検出されたとの事。
林ノ前遺跡は、規模が他の防御性集落の数倍あり最大級。
製鉄工房,馬の遺体や金,銀らを扱った坩堝が出土している。
工藤雅樹氏によれば、安倍富忠じゃないかと推定され、前九年合戦においては当初安倍氏方だったが、源頼義の諜報で裏切りそうなので和議に行った惣領「安倍頼時」を攻撃し、深手を追った安倍頼時は、鳥海柵で息を引き取る。」
最大級の防御性環濠集落遺跡である。
八戸付近では、その前の時代の「丹後平古墳群」に視点が当るのであまり見てきた記憶がなかった。
では、この防御性環濠集落の時代に貴金属がどう扱われていたか?、今迄の空白を埋めるべく「林ノ前遺跡」の遺物の分析結果を見てみよう。
「(Ⅴ)ルツボについて
〜中略〜
(1)No.353のルツボは、(銅−スズ−(鉛))系合金を溶解したものであることを確認した。
(2)No.78、88、228のルツボには、銅系合金の溶解に使用すると共に、銀の溶解にも流用された痕跡を認めた。また、No.259のルツボは、銀粒のみの検出を見た。~中略〜ルツボの内壁に銀の付着物が依存していたわが国最古の事例は、7世紀後半の奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で発見している6)。林ノ前遺跡の出土のルツボは、これに次いで古い事例ということになろう。
(3)No.225のルツボも、もともと(銅−スズ)系合金の溶解に用いられたとみられるが、金の痕跡(微細な金粒)を多数認めた。SEM-EDSにて捉えた約200μm程度の大きさの金属粒(図8)が金であることがわかった。なお、スズ、銅などと共に微量ながら銀も伴って検出した(表3)。このように金粒にスズや銅が伴うのは、このルツボがもともと(銅−スズ)系合金の溶解に用いられていたことに起因すると考えてよかろう。
これまでに確認している古代の金製品は純金てはなく、一般には数%〜二十%程度の銀を含んでいるものである。これは、自然金そのものの組成を反映していると考えることができる。その点からみれば、分析に供した金粒は、銀の含有量が低めではある。しかし、このルツボ本来持っていた実際の作業の痕跡が出土後全て洗い流されていること、また、この金粒を含み多数の金粒が遺存する領域では、金と共にかなりの銀を検出することなどを総合的に判断して、このルツボが、自然金の溶解に用いられた可能性も大きいだろう。すなわち、近辺で得られた自然金、すなわち砂金を溶解するのに用いたルツボとすることは十分に想定の範囲にあるだろう。
また、古代の金に関わるルツボを確認した事例として、これまでに7世紀後半の奈良県飛鳥池遺跡、島根県三田谷遺跡7)(弥生〜平安前期)から出土したルツボが挙げられる。実際には、今回の調査ではこのルツボが金工技術のどの作業段階で使用されたものかを確定することは困難であるが、少なくとも金、銀の溶解が行われていた証拠として、このようなルツボが東北地方で確認されたのは初めてであり、さらに10~11世紀にこの地で金や銀を用いた金工が行われていた証左としても貴重な発見である。」
「林ノ前遺跡Ⅱ −県道八戸三沢線改修事業に伴う遺跡発掘調査報告− (遺物・自然科学分析編)」 青森県教育委員会 2006.3.29 より引用…
この遺跡は十和田a(To-a)や白頭山−苫小牧火山灰より後に作られる。よって940年以後の10世紀後半から作られた遺跡である事は確定、11世紀前半までは遺物が続く事は確認出来る。
坩堝は43点出土、完形無しで分類している。
A:坩堝として作られたもの→22点
・粘土を口の部分から取り返して厚みを持たせたもの
・2枚の粘土を重ねて厚みを持たせたもの
共に手捏ねで、海成粘土で土師器やカマド構築と同じ粘土をチョイスしていると推定。
未使用,使用品、共に有り。
B:別用途から転用したもの
・土師器
・(フイゴの)羽口
からの転用品の二種。
鋳型の出土はなく、破片のみで坩堝で溶かした貴金属を鋳型に入れる容器「とりべ」かの判別はムリな様で、鋳造をしたか?は特定不能な模様。
但し、上記の様な科学分析から、
①同伴の銅破片塊の分析から、硫酸銅を鉱石として「銅精錬」を行ったと立証
②金と銀については、何らかの工程として溶解させた事が立証
③同遺跡の刀装具破片を非破壊検査したところ、銅地金にアマルガム銀と考えられる「鍍銀」を施している
④同遺跡の銅碗分析から、
・「佐波理」→古い薄手タイプ
・「銅−(鉛)−(ヒ素)」→遅れて出現する厚手タイプ→鋳物
と新旧二種の銅碗が共伴する事例となった
等々のかなり重要な知見が得られた様だ。
また、佐波理の銅碗は、1点0.2mの厚さまで仕上げているものがあり大陸系とも考えられ、入手経路が興味深いと分析した村上隆氏は記述する。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/17/161552
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/22/201652
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/04/110421
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225
銅碗から轆轤、修験は今迄も取り上げている。
村上隆氏が薄手の古いタイプとして上げているのは正倉院,法隆寺、そして分析実績を持つ恵庭市「カリンバ2遺跡」のもの。
さり気なく北海道の登場である。
ここでは、炉体破片から製鉄、鍛冶の痕跡があり、錫杖状てつ製品や鈴らも出土し、鉄や非鉄金属の工房的な要素を持つのだろう。
他の防御性環濠集落に対して巨大である点も含め、かなり繁栄した事は想像に易しい。
古書に名が記載される人物との関連が推測されてもおかしな事はない…そこは納得。
と、言う訳で、黄金山産金遺跡から始まる金の歴史は、少なくとも10世紀迄にはここ八戸迄は加工技術含め到達して北東北に広まっていた可能性があり、それらが奥州藤原氏の黄金文化へ昇華していく様は想像出来るだろう。
ただ、④について、この佐波理の銅碗、ここで作った可能性は無いのか?
何故、そんな事を考えるのか…それは銅製錬をし、鍍金,鍍銀までやっていた集団であるから。
A:大陸から輸入した
B:渡来系工人がここで製作
C:渡来系工人から技術伝搬された地の工人が製作
Aと考えるのが一般的であろう。
だが、この八戸では、この林ノ前遺跡より古い時代にこれがあるのでは?
八戸市博物館の常設展示、
丹後平古墳群の金装の柄頭。
これ、大陸系の関与が考えられていたかと思うが。
例えば…
陸奥国司経験者の「百済王敬福」若しくは一族の者が工人衆を伴い砂金を求めて北上していたなら?
当然ながら黄金山産金遺跡の後にもそれを探し続けてもおかしくはないと思うのだが。
秋田城でも、
漆紙文書で「出羽介 百済王三忠」は登場。
7~8世紀に渡来系は陸奥,出羽には着任した記録はある。
製鉄炉の形式も、国家標準ではない「縦型炉」が拡散する事を考慮すれば、単に都直属の工人だけが派遣された訳でもあるまい。
勿論、この先は解らぬ話ではあり、今後の宿題。
さてでは、何故これら技術伝搬の状況を立証し難いのか?
実は本発掘調査報告書に記載がある。
製鉄炉の確認も銅精錬や金,銀の溶解も、発掘段階で確認された訳ではない。
上記引用文にもあるが、遺物の精査段階で気が付き、科学分析して発覚した様だ。
故に遺物の水洗クリーニングが行われて、表面に付着していたであろう「途中の過程を示すものが洗い流された後だった」模様。
製鉄炉の存在も遺構として即確認出来た訳ではなく、破片を確認して発覚したとある。
残念!
しかし、それを責める事は出来ないだろう。
費用も時間も限られた緊急発掘の最中、これだけの物が揃うとは思わなければ端から疑って掛かるだろう。
初めから古代城柵やらと解っていたのなら疑って掛かるだろうが。
それでも、科学の力でこれだけの成果が得られた事を称賛せざるを得ない。
黄金山産金遺跡→平泉黄金文化の空白を一部埋めた事になるのだから。
平泉黄金文化は突然成し得たのではなく、既に技術伝搬された上に成立した…これは間違いないだろう。
分析した村上隆氏は、「出土直後に洗浄するのではなく、疑わしきはX線ラジオグラフィーらで確認する等取り扱い注意する事を今後の調査指針にした方が良い」と提案している。
なら、北海道はどうか?
「北海道には文字がない」
「北海道で精錬らは行われていない」
らと、先入観に捕らわれていないだろうか?
案外、赤外線カメラで覗くと文字が浮き出たり、羽口転用の坩堝から貴金属が…これを比定出来るのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/19/202122
なら、これは何?
参考文献:
「林ノ前遺跡Ⅱ −県道八戸三沢線改修事業に伴う遺跡発掘調査報告− (遺物・自然科学分析編)」 青森県教育委員会 2006.3.29