とうとう見つかった古墳期の秋田市の片鱗…この意味が持つ意味とは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/193325

「古代,中世北海道に文字は…必ずある」…

これを前項としよう。

2024.5.31、秋田さきがけ新聞紙上で結構センセーショナルな秋田の考古学上の記事が載る。

引用してみよう。

秋田市文化振興課は昨年実施した秋田市山王の遺跡「鋳砲所跡」の調査で、古墳時代 (3~7世紀)の5世紀後半のものとみられる竪穴建物跡や土器などを確認した。同市で 同時代の遺構や遺物が見つかったのは初めて。同課によると、大和政権の影響を受けた地域で波及した古墳文化の遺跡という。同課を所管する市観光文化スポーツ部の納谷信広部長は「古墳文化が県内に浸透していたこと が一層明確になった。古墳時代の秋田を明らかにする上で大きな手掛かり」としている。」

遺跡は秋田市山王で、

久保田藩が「鋳砲所」を設けた場所。

立地的には秋田銀行山王支店の直ぐ側、山王〜川尻に掛けての台地の上で、この辺から歩いて数分下ると秋田県庁や秋田市役所がある官庁街やサッカーJ2の秋田ブラウブリッツのホームのソユースタジアムに至る。

官庁街周辺は以外に低く、昔は湿地や田んぼだったと聞いている。

発掘は昨年5月で、竪穴建物や脚付きの高坏型の土師器片が検出した。

この高坏が編年指標で「5世紀後半のもの」と見られる事から、「秋田市初の古墳期遺跡」と考えられる。

同様の古墳期の高坏は、県南内陸な横手市「一本杉遺跡」で検出、同市の「蟹沢遺跡」の集落跡と共に秋田県内では非常に珍しい古墳期の遺跡となる。

恐らく、南東北以南の方は単に「へー、古墳期ね」で終了…だろう。

まぁ古墳期と言えば「前方後円墳」だが、その北限は出羽側は山形、陸奥側で最北が岩手県奥州市の「角塚古墳」、今のところ秋田には無い。

なので、埴輪を見ると筆者は割と見入ってしまう。

実は今のところ秋田では、弥生〜古墳期の遺跡は極薄く「空白」とも言える。

似た時代と言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/25/175639

「時系列上の矛盾…秋田「宮崎遺跡」に見える、北海道「北大式土器集団」と東北「土師器集団」の交流痕跡」…

先の横手市の2箇所やこの由利本荘市西目の「宮崎遺跡」ら、続縄文系と土師器集団のクロスロードとなり、主に内陸〜沿岸にかけての県南に限定されていた。

この後に秋田が初めて歴史上登場するのが、「阿倍比羅夫」と「出羽蝦夷(エミシ)の長「恩荷」」の会見…ここで「齶田の浦」、秋田の初見で7世紀(648年)。

現状、齶田の浦は秋田湾と考えるのが一般的。

つまり秋田市と考えれば、弥生遺跡である「地蔵田遺跡」辺りからこの阿倍比羅夫の一件までがまるっと空白だった事に。

7世紀位と言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/05/165357

「秋田に於ける「末期古墳群」の意義…「蝦夷塚古墳群」「岩野山古墳群」とその終焉、北海道の関係は?」…

横手市周辺の「蝦夷塚古墳群」らとやはり県南。

その後も前項にある日本書記の720年の記述「渡島津軽津司の諸鞍男ら六人」に関連すると考えられる「大清水台Ⅱ遺跡」位。

その後に一気に「最北の国衙,古代城柵」である、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/151154

「「原点回帰」…古代秋田城」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523

「㊗️10,000アクセス!…さて、そもそも「秋田城」とは、なんぞや?」…

「秋田城(出羽柵)」まで吹っ飛び、記録も遺構,遺物もワサワサ検出する様になる。

ぶっちゃければ、弥生〜秋田城築城迄、秋田市周辺に人が住んでいたか?の確証が無かったと。

よって、これで恩荷や秋田城築城時に秋田市周辺に住む人に連なる可能性がある遺跡が見つかったと。

6世紀に一時南東北古墳文化衰退はあるものの、5世紀後半での古墳文化拡大時では海上交通からの利便性から雄物川河口に近いこの位置は自然…とする東北大総合学術博物館の藤沢敦教授や古墳が見つかっていない秋田でも遺構,遺物から古墳文化の拡散が明確になってきて日本海ルートでの南北の関係を見る上で重要…とする福島大の菊池芳朗教授のコメントが記事される。

 

如何であろうか?

これ、古墳期の文化伝搬が既に秋田市まで及び、その地に「秋田城」が築城された…事に。

筆者は何気に考えるのだが、「恩荷は阿倍比羅夫が来るのを知っていたのでは?」とふと思う事がある。

出羽側では争った節が無く、何故かスムーズに秋田城が出来上がる。

大乱があるなら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137

元慶の乱…ぶちギレた秋田県民と北海道の選択」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/202134

「折角だから、9世紀前葉以降最大規模の反乱を復習してみよう…「元慶の乱」とはなんだったのか?」…

当時の出羽国司の苛政が原因とされる「元慶の乱」。

ぶちギレて秋田城から郡衙ごと灰に帰す戦闘能力を持つ出羽蝦夷(エミシ)が、何もしないでのほほんと築城に協力し受け入れると思うか?

事前に下地を作り、津司らを置き交易で豊かさをある程度担保した上でないと、誰も協力なぞしないと思うのだが。

鉄器が自在に使える様になったのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

「改めて「古代製鉄」を学ぶ…岩手県立博物館「古・岩手のクロガネ」に見る東北の古代製鉄炉、そして「北海道の矛盾」」…

この元慶の乱より後。

明らかな戦力差がある中で秋田城下を焼き払った訳で。

そんな集団が、下地も無く黙って好き放題やらせるか?

旨味を享受しないとそうはならないと考えるのだ。

そんな意味で言えば、空白の古墳期が埋まるこの遺跡は、後の秋田城築城経緯を考える意味でもかなりセンセーショナルなのではないだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/05/202434

「「つくられたエミシ」より、そもそもエミシって本当に居たの?…我々がぶち当たる「蝦夷とはなにか?」、そして支配体制への一考」…

そもそも「朝廷と相容れない「蝦夷(エミシ)」」なぞと言う集団が居たのか?、「蝦夷(エミシ)」とは何か?…

こう書けば、如何にヤバい発掘調査結果と思えるのでは?