北海道には文字がある…あとがき…

2つの見解の統一…アクロバット的に思われるかも知れない…
いや、そこが落とし穴なのです。恵庭の論文は昭和九年の物…当然歴史研究は進んでおり、畿内も含めた研究結果からの解釈変更は必要なのです。
北海道史の研究に於いて、全く抜けているのはこれ。関係あるプレイヤーは居るのに、そのプレイヤーの視点が考察段階でほぼ抜けています。これでどうやって主張の裏付けが取れると言うのか?
文字か無いと言うなれば、他所の文字からの裏付けは自ずと必要になるのに。
おかしいと思いませんか?結果、昭和九年段階の論文から大きく証明が進み定説化した説はほぼありません。

これは、秋田の研究者の見解ですが…
当時の朝廷の方針は「夷の事は夷で」…
秋田城は出来る前であり、故に江別,恵庭らに向かったのは、陸奥(岩手)のエミシであろう…これが一般的です。
故に識字率は低かったであろう…これは同意せざる終えない。
が、文字無くば?例えば…
後志の城柵を建てたとして、大工棟梁がどうやってどの木を何処に立てるか指示出来る?
余市大川遺跡の盃を何処に配膳するか理解し得るか?それを考えて欲しい。
最悪マークとして認識したとしても、いずれそれは文字として認識されていくと言う事…門前の小僧なんとやら。
現に、秋田城廃城から清原,安倍氏は和歌の嗜みを持つ程の教養を身につけています。

ついでに、硯…
奈良~平安期の硯は現状の様な石硯ではなく、土師器,須恵器です。
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実際、上記の通り、土師器,須恵器の破片を用いた代用硯も使用されている事が立証されています。発掘で見逃せばアウト。

初めから、多視点で見る事…
初めから、無いものと思わない事…
バイアスを掛けない研究には必須だと考えるのは、俺だけでしょうか?