和鏡を中心にした墓の副葬について…似たような物なら日本中にある!

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/10/213522

似たようなもんシリーズ…

だが、今回は見た目だけではない、ガチ系。

関連項として…

・墓の特徴で、何か決められるレベルに無い…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/23/121204

・近世墓でも、墓制は多岐に渡る…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

・和鏡の宗教性や厚真の事例…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

と、特別ミッション含めて、北海道〜東北をグルグル周りつつ、和鏡や墓制、経塚らについて学んできている。

なら、全国規模で見た場合の和鏡に対する基礎的考え方や分布はどうなのか?を学んでみよう…つか、結論を言えば、「北海道固有ではないか?とされる墓制に近いものは日本中にある」…と言えそうな勢いであった。

理由は簡単で、「和鏡そのものが修験系の宗教具」であり、源流が同じであるなら似た墓制になるのは当然…となる。

厚真でご教示戴いた「アイノ文化の源流には修験系がある」…この見方は極自然に辿り着くべき答えの一つとも言えるのではないだろうか。

では、「中世和鏡の基礎的研究  出土鏡編」からその辺を紐解いてみよう。

学びの為に本書を譲って戴いた@F34fC9F4NEMW5e2ファンガンマ様には感謝しかない。

ありがとうございました。

 

①国内出土和鏡の事例…

 

「2.列島全体の傾向

( 1 ) 全時代的な傾向

和鏡が出土した640 遺跡は、北海道南部から沖縄まで広がっていた。だが地域別に遺跡の点数を確認すると、遺跡は全国各地で万遍なくみられるわけではない。その内訳は、

 

北海道・東北地方   11.4% (73)

関東地方                    14.2% (91)

信越北陸地方    15.1% (97)

東海地方                    11.6% (74)

近畿地方                    19.4% (124)

中国地方                    11.9% (76)

四国地方                      8.9% (57) 

九州・沖縄地方         7.5% (48)

 

であり、近畿地方からの出土が最も多く、次いで甲信越北陸地方、関東地方、東海地方と続いている。つまり東日本側(北海道・東北地方、関東地方、甲信越北陸地方、東海地方)で全体の52.3%と過半数を占めていたのである。一方、近畿地方を除く西日本側(中国地方、四国地方、九州・沖縄地方)では全体の28.3%であった。このように和鏡が出土する遺跡は、東日本側に偏っている。

また遺跡の性格は、

 

経塚                 38.9% (249)

墓域・墓壙     19.7% (126)

居住区画         10.9% (70)

祭祀遺跡         13.1% (84)

その他             17.4% (111)

 

と経塚が最も多く、次いで墓域・墓壙、祭祀遺跡、居住区画と続いている(表87・88)。

だが、この順位が全ての地域でみられるわけではなかった。例えば北海道・東北地方や甲信越北陸地方では居住区画から出土が2番目に多く、関東地方、九州・沖縄地方では墓域・墓壙から出土する事例が最も多い。居住区画から出土する事例は、北海道・東北地方 関東地方、甲信越北陸地方に多く、東海地方から西の地域ではあまり多くなかった。このように、和鏡が出土する遺跡の性格の順位にも地域性がみられることは、指摘すべき事柄である。

「和鏡が出土した遺跡は、おおむね街道に沿って分布していた。街道のルートが推定されていない地域にもみられたが、谷筋や川沿いに分布していることが判明した。そのような分布は、和鏡が川に沿って陸送されたか、あるいは舟運によって運ばれたことを示唆する。 遺跡は海岸沿いにも分布してり(筆者註:ママ)、しかも遺跡の近くに湊がみられることもあった。そこから、和鏡は陸路だけでなく海路によっても運ばれたと考えられる。

本章では、熊野信仰と修験道という観点から遺跡の分布傾向を検討するにあたり、修験道と関係深い経塚に視点を当てた。その結果、経塚は霊山として知られている修験の地の周辺に分布をしていることを確認することができた。それだけなく、四国地方の石崎山・高縄山や九州地方の英彦山求菩提山宝満山で典型的に確認されたように、経塚は、街道や海沿いなどの交通網が整備された登山の周辺に集中していたのである。たとえ地域で 中心的な雪山であっても、交通網から外れている場合は、経塚はほとんどみられなかった。 本章では、分析対象和鏡が出土した経塚に絞っているが、それ以外の経塚を含めたとしても、傾向は大きく変わらないと考えられる。経筒などの物品の輸送も、やはり交通網の整備を前提としたと考えられるためである。陸路・海路を問わず、人の移動や物品の輸送を支える道の存在は大きい。

久保は京を「日本の作りをリードしてきた」(久保2010)と述べており、これらの経塚に副葬された鏡も、ほとんどが京で生産されていただろう。しかも法薬尼造営の経塚の事例は、 経塚の和鏡が作物所で生産されていたことを想定させた。もっとも作物所での生産は特異というべきであり、一般的には七条町・八条院町で生産されたと考えられるべきであろう。」

 

「中世和鏡の基礎的研究  出土鏡編」  國學院大學博物館/國學院大學学術資料センター  平成30.2.28  より引用…

 

まずは、全体像を。

和鏡が出土した遺跡総数は640で、それは北海道〜沖縄の全てに及ぶ。

畿内を含む近畿が最も多く、「東高、西低」の傾向を持つ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/04/071045

「特別ミッション」にあるように、やはり経塚絡みの出土が全国的に最も多い様だ。

以外なのは、北海道・東北に於いては居住区での検出比率が他の地域より多いとある。

上記の様に、修験系信仰において和鏡は祭祀具の一つとして確立されていた。

京での製造がメインなれば必然的に貴重度は増す。

副葬するのではなく、そのまま祭祀具として使い続けたと言う事なのだろうか?

また何より重要と考えるのは、経塚は街道や海路,川路の延長線上に分布する事。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005

時期の特定らは必要だが、北東北の中世城館の石積み,石塁の分布は「出羽三山信仰に関与する」のではないのか?と言う推測は、案外的を得ているのだろう。

結局、文物と宗教,文化,習俗らは、人の移動により伝搬する。

極自然ではあるが、それらの延長線上で拡散されていったと言えるのだろう。

 

さて、これらを踏まえて、北海道の出土事例を見ていこう。

②北海道の実績…

 

「本報告において分析対象とする中世和鏡とは、12世紀以降、我が国で製作された鏡の総称である。日本列島を、11地域(北海道・東北・関東・中部・北陸・東海・近畿・中国・四国・九州・沖縄)に区分し、遺跡から検出された和鏡を中心として集成を行った。具体的な作業としては、実際に我々が資料調査を実施したものに加えて、発掘調査報告書・都道府県史・市町村史・論文・図録・インターネット等の基礎情報、関係各位からの情報を集約し資料化を試みたものである。各地域の概要は以下の通りである。

北海道では6遺跡確認されており、 余市町大川遺跡では大規模な竪穴に3~4人の遺体を合葬し和鏡を副葬した事例やアイヌ墓から和鏡が検出された寿都町朱太川左岸遺跡の事例などが特徴的である。

東北地方では97遺跡 (青森県6 遺跡・岩手県22遺跡・宮城県10遺跡・秋田県27遺跡・山形県14遺跡・福島県18遺跡) で確認できる。 各県の城館跡や経塚、岩手では平泉周辺の関連遺跡から12世紀に遡る和鏡が多数発見されている。 山形県羽黒山御手洗池検出の和鏡群は我が国金工史上特筆すべき一群である。 福島市信夫山での和鏡 の大量出土の事例なども特筆すべきであろう。」

「北海道

本州の中世にあたる擦文文化の終焉から近世アイヌ文化の成立期は、基本的に本州との関連資料が少ない。 唯一定量的に出土し、年代を決定できる資料としての中世陶器に注目すると出土量が増大するのは、道南から道央にかけての拠点的な集落や館が営まれる14世紀後半から15世紀である。15世紀末から16世紀には、余市町大川遺跡や函館市志苔館の衰退、上ノ国町では須崎館や花沢館から勝山館へと拠点が移るなど、北海道における流通 拠点の変化が起こり、当時の日本列島全体の流通の画期とも連動し、相互依存的な流通のネットワークが成立していたものと考えられる。和鏡の北海道への流入時期について言えば、15~16世紀の拠点形成時期より約1世紀遡り、13世紀後半から14世紀初頭にかけて、墓への副葬品として確認できる資料が多い。 余市町大川遺跡では、 68基に及ぶ中世から近世アイヌ文化期の土壙墓が検出されており、その内、2基の遺構から和鏡が検出されている。 (図1)は、一辺約3.5mの方形を呈し、覆土中には多くの木炭や焼土粒子、 炭化材と共に火葬された3体以上の人が検出されていることから合葬火葬墓と考えられている。頭蓋骨の断片などから頭位は北東方向で、副葬品は、太刀・刀・刀装具・骨鏃等であり、いずれも被熱している。和鏡は鏡面を上にして頭部付近に梅樹双雀鏡 (図1-2)、菊花双雀鏡(図1-3)の2面、東壁の焼土と木炭境付近に梅樹双雀鏡 (図1-1)が1面副葬されており、13世紀後半〜14世紀前半に比定される。菊花散双雀は、他の2面より時代が下り、14世紀前半~ 中頃の所産である。何れにしても、これほど大規模な竪穴に3~4人の遺体を合葬し、さらに火葬に付す事例は、管見では本州にも類を見ないものである。副葬品からしても太刀を携えていることなどから武士であることが想定される。P-42(図2)は、約2.5m×1.3mの楕円形を呈する墓壙で、 北東側から化粧箱と考えられる木箱から 2点の木製横櫛と弓削刀子に類似する刃物と共に14世紀前半~中頃に比定される住吉鏡 (図2-4)が検出されている。 大川遺跡のこれらの土壌は、倭人蝦夷の交易拠点としての港湾の掌握から生業支配に着手したとされる14世紀初頭に位置づけられる。和鏡では、他に包含層出土の資料や偶発的に発見された出土伝世資料も認められ、何れも13世紀後半~14世紀に比定されるものである。大川遺跡に隣接する入舟遺跡でも、土壙墓 (GP- 1)より14世紀前半~後半の菊花双雀鏡と包含層中より14世紀前半に比定される双孔が穿たれた菊花双雀鏡が検出されている。寿都町の朱川左岸遺跡でも土壙墓から13世紀前半~14世紀後半に至る3面の和鏡と宋鏡が検出されているが、年代が古く詳細は不明である。 千歳市末広遺跡の土壌墓では、14世紀後半に比定される 亀甲地文双雀鏡が、北宋銭や孔を窄った自然石と共に副葬される。 上ノ国町に所在する勝山館は、長禄元 (1457) 年コシャマインの戦いによって功を上げた武田信広が洲崎館を建て、その後、移り住んだ館で創建年代は明らかでないが、明応3 (1494)年に信廣がここに歿したとされる。つまり、15世紀第3四半期頃には築城され、16世紀末頃まで、武田・蠣崎氏の日本海側での政治・軍事・北方貿易の一大拠点であった。 発掘調査により、 約3万点の美濃焼皿・中国製青磁などの国内外陶磁器や金属製品、木製品など数万点の出土品があり、包含層より14世紀の末から16世紀後半に至る13面の鏡が検出されている」

「中世和鏡の基礎的研究  出土鏡編」  國學院大學博物館/國學院大學学術資料センター  平成30.2.28  より引用…

 

まぁ北海道の地方研究上で「新羅之記録史観」なので、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120

本州の研究者は当然提供された資料ベースで検討するので、これを踏襲する。

疑いはしないだろう。

本題から外れるので置いといて…

北海道は6遺跡と引用したが、添付の正誤表上、厚真の「オニキシベ2遺跡」と「上幌内2遺跡」が追加されているので、追加した。

オニキシベ2遺跡は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537

和鏡は別として、墓制らで取り上げ済。

手持であるので、折角なので…

記事通りなら「GP-1」の再生鍔の事だろう。

こんな感じ。

このGP-1に関しては、墓壙の深さに引っ掛かりがあるのは概報。

特に上記の通り、宗教具として隆盛した時期に、果たしてそれを破壊し再生するものか?…少々罰当たりな気もするが。

こんな感じで報告されている。

 

では、ここからが本題とも言える。

これらが本当に「(アイノ文化期墓ではなく)アイノ墓」と言えるのか?だ。

何故、そんな事を考えるのか?

それが、関連項に書いた一連。

・墓の特徴で、何か決められるレベルに無い…

・近世墓でも、墓制は多岐に渡る…

・和鏡の宗教性や厚真の事例、特にアイノ文化の宗教性の源流に修験系信仰があるのではないか…これら。

③他地域の和鏡が副葬された墓の様相…

解り易い事例を並べる。

 

・擦文〜アイノ文化期の送り場の比熱痕…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/21/203750

これは銅碗ではあるが、同書に「和鏡への比熱痕」があるものは記載がある。

 

福島県

福島盆地の北部の独立丘陵である信夫山から昭和15(1940)年に小祠再建のための境域整地中に29面の和鏡と共に仏具、馬具、武具等が発見された。一部の和鏡は所在不明となっているものの、昭和28(1953)年、 指定文化財となっている。 平成元(1989)年の梅宮茂の研究報告や平成16(2004)年、青木豊によって再報告がなされている。 年代は12世紀後半〜15世紀にわたるもので、埋納時期は化の状況からさほど古い はなく、 22面が被熱している事実も看過できないところである。」

 

「中世和鏡の基礎的研究  出土鏡編」  國學院大學博物館/國學院大學学術資料センター  平成30.2.28  より引用…

 

その「信夫山」とは、

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E5%A4%AB%E5%B1%B1

ウィキより、こんな所。

「信夫三山

東から熊野山、羽黒山、羽山の三峰で構成され、これらを合わせて信夫三山と呼ばれることもある。それぞれの山の名前からもわかるように山岳信仰と密接に結びついており、熊野山には湯殿神社、羽黒山には羽黒神社、羽山には月山神社出羽三山が勧請され祀られている。」

ガチ系修験の山。

ここの羽黒神社が「大草鞋」の奉納先の様で。

因みに、壊して加熱したり、水に沈めるらの処置を行う事例は、実は筆者は散々見ていたりする。

羽黒山出羽三山神社の鏡ヶ池の「羽黒鏡」には、

原型を留めない状態で沈められた和鏡は幾つか展示される。

出羽三山歴史博物館」は写真NGなので、紹介出来なかった。

同書から紹介しよう。

思えば、燃やして浄化する行為を我々は結構寺社で見ている。

「お焚き上げ」…

そんな捉え方をするなら、驚く事は無いのかも知れない。

 

「【採(柴)灯護摩

屋外に護摩壇を組んで行なう修験道独自の護摩護摩は、本来、バラモン教の火神を供養する祭りが 密教に取り入れられ、日本に伝わったものである。 なお採(柴)灯護摩は、日本の民間の小正月のサイ トヤキ、サイトウバライ、サギチョウとも関わると 思われる。本来は峰入の成満を祝して峰中でなされたが、現在は修験寺院で祈願の目的で広く行なわれている。なお本山派は、太陽の光を採って施行する ゆえ、「採」の字を用い、当山派は山中の柴を集め施行するゆえ、「柴」の字を用いるとしている。」

 

修験道少事典」  宮家準  法蔵館  2015.1.20  より引用…

 

まぁ「送り」と言う考え方も、我々はお盆になれば行うだろう。

「迎え火」に「送り火」…

まぁそんな宗教的概念は、我が国中にあると言う事だ。

どんな時に、焼くか?水面に沈めるか?は術者の目的や呪法によるだろう。

 

・首付近への鏡の副葬…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

厚真で見せて戴いた「螺旋状鉄器と和鏡」。

首周辺に和鏡が副葬される。

これは、先の北海道の実績内にあるので概ねそんな傾向なのだろう。

ではこれを。

人骨が残るケースが少ないので解り易い事例を。
神奈川県「由比ヶ浜中世墓地遺跡」。

首周辺に和鏡が副葬されているのが解る。
鏡の他の副葬は、漆器椀と瓦器。

厚真にある螺旋状鉄器は、あれ一事例しか無いので特異ケースだろう。

有りがちな、漆器まで共通項。

更に北枕も同様。

 

・穴が一個のみの和鏡の実績…

先の厚真の和鏡は懸仏にする為の穴が一個のみで、「他の事例が見つかっていない」との事だった。

これを。

神奈川県「八菅山経塚」の事例。

左の和鏡は、左側に一個しか無い。

和鏡が型で作られる以上、他にも一個穴のものはあるだろう。

 

・木棺墓、漆器、宋銭の組み合わせ…

岐阜県大垣市「曽根八丁遺跡」の事例。
和鏡鏡に、宋銭、小皿×4、櫛、「漆器椀」の組み合わせ。
平安末~鎌倉と推定される。

余市でも櫛が副葬されているのは記載済。

 

・毛抜の出土…

擦文文化期に毛抜が副葬される事がある。

兵庫県三木市「宿原寺ノ下遺跡」の事例。

土壙墓に木棺、鏡、刀子、「毛抜」と漆製品。

本州にも無い訳ではない。

 

・ガラス玉の出土…

和歌山県新宮市「神倉山経塚」の事例。

「ガラス玉」の出土。

と言うか、和歌山に限らず、近畿以西の鎌倉期の経塚中心に広島,岡山らポツリポツリ、ガラス玉は検出している。

勿論、入手経路が北方ではなく、大陸南部や朝鮮半島の可能性もあるし、ガラス玉そのものが西日本では行われているので、「数珠」と言えば説明可能なのだ。

 

・中世修験者や巫女の姿とは?

実は、鎌倉〜室町位の修験者(山伏)や巫女の姿は古絵図で描かれていたりする。

峰入しながら、里で祈祷したり占いをしたりしていたんだろう。

巫女の首から下げられたものを見て頂きたい。

以前も紹介した事がある山形県中山町「岩谷十八夜観音信仰」の「オナカマ(口寄せ)」の道具。

中山町には、この風習が色濃く残り、文化財として保存されているのを筆者は確認済。

パラパラと見た限りでも、こんなものだ。

 

どうだろう?

中世遺跡が検出出来た…

アイテムが出土した…

なら、修験系信仰について調べる所だが、昨今迄やっていなかったのか?

不思議でならない。

筆者は東北のあちこちで見ているので、北海道に行くたびに「似たもんがあるな」と思ってきたが。

厚真と余市,千歳らの実績から、やっと修験道に至ったか?

上記引用にあるように、修験系信仰は街道や海路,川路にそって修験者や巫女により伝搬され、概ね平安後期位に民の信仰として広がりを見せる。

それは、霊場としての山を探すところから始まるので、日本中の山々に渡る。

源平合戦奥州藤原氏の時代位には確立している。

その伝搬ルート上で、墓制や副葬が伝搬するのはある意味当然、そして日本中に共通項として広がっているからこそ、日本中に共通項が出来た。

鎌倉期から全て火葬になぞなっていない。

火葬可能な条件が整わない場では、近代迄土葬は続けられていた。

更に、厚真には経壷があるではないか。

なら経塚も有ったと言う事。

じゃなくても、有珠善光寺や等澍院には「慈覚大師円仁開基」の伝承があり、それは東北も同じ。

比叡山系の修験が闊歩していてもおかしくはないと気付かぬ方がどうかしていると思うのは我々だけだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716

こんな話もあるのだし。

 

まぁガチ系文献、それも日本中の事例を並べたらこんなものだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/10/210140

末期古墳すらこうだ。

何処まで近づくものか?

墓制については他の事象と合わせて、時折掘り下げていこうと思う。

勿論、上記の様に「宗教伝搬」により、地域差が少なくなってきていたとしたら、その観点は「日本の中の墓制に対し、その差はどの程度か?」だ。

先は長い。

ゆっくりいこうではないか。

ん?

中,近世の周溝墓はどうだって?

あるよ、それなら。

大殿たる下国安東氏の拠点、十三湊遺跡「檀林寺跡」に。

 

 

 

 

 

 

参考文献:

 

「中世和鏡の基礎的研究  出土鏡編」  國學院大學博物館/國學院大學学術資料センター  平成30.2.28

 

厚真町 オニキシベ2遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書4-」 厚真町教育委員会 平成23.3.30

 

修験道少事典」  宮家準  法蔵館  2015.1.20 

 

「中世墓資料集成 -東北編-」  中世墓資料集成研究会  2004.3月