「鉱業史」は謎だらけ…そりゃトップシークレットですから

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/192546

この項で秋田大学大学院付属の「鉱業博物館」を訪ねた事を書いた。

何故?
元々、古代に、どうやって鉱石を掘り出し、どうやって選鉱し、どうやって精練したか?
知りたかったからだ。

北海道での「金」の産出は金色堂らで確認されているものの、道具らの出土が少ない為に、場所も手段もどの程度なのかも皆目解らなかった。
なので、鉱業のスペシャリストに確認してしまえ…これが本音だった。
何らかの所見や書籍の紹介を頂き、突破口にしたいと考えた。

ズバリ、聞いてみた。
古代からの鉱業や精練の変遷らを書いた資料は無いか?と。
答えは…「無い」
それぞれの鉱山らとしての研究は有ったりするが、何より資料そのものが少ないので、それらを組み立てるしか現状は手段が無いらしい。
とは言え、それを組み立て、北海道に応用出来るのか?…何の出土も無いなら、断定なぞ出来ようハズもない。
技術を教える人達がいる…いや、ここも居たであろうなので、断定は不能
鉱業的見地から言えば、技術を比較して共通項でも見つからねば断定など出来ようハズ無し…と言う事だ。

奥州藤原氏に関してなら、「金が付着した」とされる須恵器が出土している。
これがあるなら、鉱石から何らの手段で金を取り出した痕跡と言える。
北海道には、それが無い。

何故資料が少ないのか?
よくよく考えて欲しい。鉱業技術は先端技術。朝廷にしても豪族や後の大名にしても、トップシークレット。
かの、江戸期の鉱山「友子制度」も、徒弟制度をしいて、自分達の技術流出を防いでいたのだ。
そんな鉱業史の現状で、砂金を取る位なら可能だろうが、それ以上言える事は「解らない」…これだけ。
その砂金も、選鉱皿すら出土しないなら、北海道から「金」を持ってきた事実だけで、その他は不明なのだ。

奥州藤原氏が、鉱山を掘る技術を持っていたであろう仮説の根拠はこの話だろう。

http://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_48/vol48_5.htm

胆沢川には、寿庵堰より遥かに古いと考えられる用水路跡がある。
が、これもまだ奥州藤原氏が作ったとは断定はされてはいない…残念ながら。
東北の様に、金銀銅らの付着した坩堝でも出たら、ピースは揃って来るが…

結局、資料的には、鉱業博物館特別展の「阿仁の絵巻がつむぐ150年前の銅プラント」と言う冊子を譲って頂く事が出来た。
阿仁銅山の場合、久保田藩の記録として「阿仁鉱山 銅山働方之図」「加護山鉱山全図並製鉱之図」ら絵巻が残されており、また、院内銀山では「安養日記」らで鉱山町の姿が記録されている。
故に、江戸期なら、それらを元に推定する事は可能だが、それ以上は現状追うのは難しいだろう。
これら絵巻は全長8mにもおよび、この特別展で初めて全編公開されたと言う。
絵巻は日本画で書かれ、鉱山からでる岩絵具を使っており未だに色褪せない。
こんな資料が残されているだけ幸運だと言わざる終えない。

北海道には、金があった。
古代でアマルガム製法で必要な水銀も自噴する鉱山もあった(それでも、アマルガム製法は危険な為、奈良期頃には止めていたとか)。
条件は揃っているのだが、
出土物は無し…
技術はトップシークレット…
規模も「解らない」…
故に、環境インパクトなぞ、もっての他…

あるのは、北海道から持ってきた「金」が使われた事実のみ。
まだまだ先は長いのだ…