「錬金術」が「科学」に変わった時-4…「史跡 尾去沢鉱山」と「阿仁郷土文化保存伝承館」から改めて銅鉱山と銅精錬を学ぶ、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/06/140204
さて、前項で紹介した「阿仁鉱山 銅山働方之図」「加護山鉱山全図並精鉱之図」…
折角、筆者の地元には最強を競った銅山があったので、改めて訪れてみた。
尾去沢鉱山」と「阿仁鉱山」である。
それぞれ、「史跡 尾去沢鉱山」と「阿仁郷土文化保存伝承館」で資料や遺物、尾去沢に至っては坑内が見学可能なので、学びには事欠かない。
双方共に「阿仁鉱山 銅山働方之図」をベースとして、江戸期の銅精錬について説明がある。
前項ではかなり略したので、改めて見つけた話の3点の前に、少しだけ詳しく工程を説明する。
つまり、これが「前提」となる。

1,
鉱石を坑内から運ぶ

2,
鉱石を砕く
これは絵巻上では金槌らで叩き、俵に詰める

3,
計量し、品位確認

4,
水中にザルを入れゆらし、鉱石と石に分ける。更に荒い物と細かい物(ザルを通った物)に選り分ける

5,
ザルを通ったものを扇舟(水路)で流し、比重差により鉱石を選び出す
ザルを通らなかった物や水路で選り分けた石をさらに細かくし、扇舟での選別を繰り返し、なるべく細かい鉱石を集める

6,
焼窯で焼鉱を作る
①焼窯の底に木炭を並べる
②鉱石に雲母鉄鉱混ぜた粘度と水を加えてかき混ぜる
③②を250貫(937.5kg)を窯に入れて上面をイグサで覆う
④風口で火をたき、2~3週間で炎気がなくなるまで酸化雰囲気で焼く
→硫黄分を鉱石から取り除く→これを焼鉱と言う
⑤焼窯から焼鉱を取り出す

7,
吹床で銅精錬を行う
①炭の粉を固めて吹床(炉)へ敷き、焼鉱と溶剤を積み上げて点火、フイゴで送風(約1200℃程度)し焼鉱を溶解させる
→吹床は地面を掘るだけ
②融解が進むと、
上…酸化鉄(とケイ素化合物。「カラミ」と言う)
中上…銅(「カワ」と言う)
中下…金属銅(床尻銅と言う)
下…湯折れ(金銀鉛の化合物)
…と、融点や比重差により分離していく
③カラミを柄杓で掻き出し、水をかけて、下部表面のカワを剥ぐ
④中下の金属銅にカワを追加し溶かし、更に掻き取り水に入れ固め、冷えたら炭や灰を鎚で叩き落とす(純度90%)
→これを「粗銅」と言う
⑤めかたを計り、荷造りし、水無村の倉庫で保管し、後に加護山へ

以上。

さて、上記を踏まえて下記を。

①参考資料として
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450
今まで指摘してきた事だが、北海道で見当たらないものがある。
縦型の製鉄炉の遺構である。
たまたまだが、製鉄炉遺構を保存処理したものが「史跡 尾去沢鉱山」に展示していたので見て戴こう。
堪忍沢遺跡12号製鉄炉。


北海道で圧倒的に不足する遺構。
東北ではあちこちにあり見慣れたものだが、北海道にはこれが無い。
これが1400℃程度までの昇温と還元雰囲気焼成のキーの一つでもある。
添付項の様に奥尻島やサクシュコトニ遺跡の様に、フイゴの羽口や鉄滓?だけ見つかっただけで、製鉄や鉄精錬にtryした痕跡と言えるのか?が、我々的には疑問なのだ。
何しろ、当時の技術伝播ルートは本州からの北上であろう事は概ね出土遺物から推定可能なので。
参考として提示する。

キリシタンの関与
実は阿仁の「伝承館」ではキリシタンの存在は知らないとの事。
ただ、院内銀山に於いては、阿仁鉱山との鉱夫の行き来はあったとの事なので、全く関与が無いとは考え難い。
では、尾去沢は?
江戸期に尾去沢は南部藩領。
なので、上記の粗銅は、
・尾去沢
当初…米代川を下り、能代湊から上方へ
後…馬で陸路で野辺地湊へ運び上方へ
と、変遷している(久保田藩が水運費用を上げた為)
・阿仁
当初…米代川を下り、能代湊から上方へ
後…加護山精錬所へ運び、製銅と銀精錬を行う
以上となる。
さて、尾去沢鉱山キリシタンは、坑道に礼拝堂が作られ、密かに信仰がされていた事は概報。

折角なので…
これが、慶長年間の坑道礼拝堂の十字架の彫り込み。
当然、ある程度黙認されていたと考えられている。
関与の物証。

③金銀銅らの選鉱,選別
両山共に元々金山だった伝承を持つ。
特に尾去沢は、慶長の坑道が金鉱脈であり、金堀の痕跡を残す。
砂金や擂り潰した金の破片は、揺板を水に沈め比重差で選鉱する。
揺板は、概ね底が凹んだお盆型の物を想像するだろうが、実は角型の物もある。
更に…

今回気が付いたのが「かさかけのお椀」。
上記の5,の扇舟で選別後に、更に選別する時に使った様だが、確かにお椀で選鉱した方が細かく見る事は出来そうだ。
ましてや黒漆塗りなら水に入れても保ちは良いし、光る「黄金」なら目立つだろう。
利に叶っているとも考えられる。
漆器」と言えば…?
北海道のアイノ文化期の墳墓副葬に漆の塗膜がある。
生前の愛用品とされ、食に使ったものと解釈されているが、他に装飾品や職業柄に合わせた物が主。
これが「砂金の選鉱」に使った物なら?
対比色と言うなら、土師器や擦文土器も内側が黒い杯がある。
漆器以前に使ったとしたら?利には叶いそうだが。
まぁ邪推はここまで。
「選鉱に黒漆の椀が使われた実績有り」…ここまでは事実。
因みに…
選鉱した中の鉱石以外の岩石の再粉砕、より細かくするのに石臼を使ったのは知られるが、それだけではないようだ。
阿仁の「伝承館」には臼型のものがある。
要は乳鉢の化け物。
どうも地方色はある様だ。

④「カラミ」について
これが何か?解るだろうか?



これが「カラミ」。
上記7,−③の工程で「カワ」を剥がした後に発生し、状況に応じ4種類位の形になるようだ。容器に入れ固まればレンガ状、叩けば砂状…の様に。
当然、銅精錬においてはゴミ扱いで廃棄されるが、大規模鉱山として運用された阿仁では、これが大量に出た。
阿仁合駅裏手にこの「カラミ山」が見られ、レンガ状にしたものは住宅の土台として利用され今も建ってるものがあると言う。
ざっと目算で高さ2m✕数百m位は積まれるが、同様の「カラミ山」は数カ所あるそうだ。
銅山に限らず鉱山にはつきものでもある。
銅の鉱石の主なものは黄銅鉱で化学式は「CuFeS2」なので、必ず鉄(Fe)と硫黄(S)はつきまとう。
上記の様に1200℃位なら鉄は溶けず、更に比重が鉄の方が軽い為に溶解した銅に「浮かぶ」事になる。
なので「掻き出す」事が可能なのだが。
さて「カラミ」。
主成分は酸化鉄と岩石由来の酸化ケイ素になるが、粒状のものの見てくれは殆ど砂鉄だし、不定形なものは製鉄の鉄滓とよく似てる。
筆者が「天工開物」や「デ・レ・メタリカ」を見始めて疑問だったのが比重差。
鉄は銅より軽いので浮く。
ルツボらで固化するのを待てば底の形はトレースしない。
が、答えは「浮いた物を掻き出し集めたから」。
これなら写真の様に底の形をトレースする。
と、言う訳で、先の「①参考資料として」に戻って戴きたい。
北海道では、製鉄炉は見つかっていない。
フイゴ羽口や鉄滓?のみ。
なら、実は北海道の遺構,遺物は元来製鉄遺構ではなく、「カラミ」の様な酸化鉄の廃棄物を伴う鉄以外の精錬遺構ではないのか?…だ。
勿論、鉄滓と「カラミ」の成分を比較した訳ではないし、関連論文もまだ探してはいないので、当てずっぽうに近い。
が、奈良の大仏建立以降であれば、金銀銅の需要は拡大し、用途も仏像だけではなく「和同開珎」ら国内銅貨らへの利用と、需要は拡大し、価値は自ずと上がる。
これなら、当時貴重な鉄器とも同等以上のレートで交換可能となる。
無理に製鉄なぞやらずに、自分達が得意なものと交換すれば良いのだから。
擦文期、交易の民である…これを「前提」にすれば、割と合理的に「何故製鉄をしなかったのか?」説明出来てしまうのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824
何せ江戸初期に、彼等は銀精錬は知っている。
むしろ、それがいつ頃からやっていたのか?と言う着目で思考するならば、こんな想像も成り立ってはくる。
邪推はここまで。
我々は素人集団。
通説に拘る必要も、同系統の学閥論理に縛られる事も、一定のストーリーに捕われる事も、ー権威に頭を垂れる義務もない。
自分達の疑問を自由に学べば良いだけ。
こんな発想もあってよい。
こんな東北との違いから考え…
そもそも、北海道で本当に製鉄をやろうとしたのか?違っていたのではないか?…と。
間違っても修正するだけ。









参考文献:

「平成二十五年度第一回鉱業博物館特別展 -阿仁の絵巻がつむぐ150年前の銅プラント-図録」 秋田大学大学院工学資源学研究科附属鉱業博物館 平成26.3月