秋田の民の戦わぬ選択…清原氏と二ツ井町の関係

以前SNSで書いた事がある…
初めて「金ヶ崎要害歴史館」を訪れた時、平安期の話になった。
金ヶ崎は、胆沢に程近く、やはり「阿弖流為」推しである。
そこで秋田はどうか話した。
阿倍比羅夫の来訪時、エミシの長恩荷は争わず共に開拓する選択をしたと言うと、「戦わない」事に感動された。
秋田はその後、新田開発により穀倉地帯となっていく。が…
勿論、その後には、「元慶の乱までは」と付け加えたのは言うまでもない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137

さて、「戦わぬ選択」…
それどころか、偉業を成し遂げた方を紹介しよう。
以前新聞で見掛け、行きたかった「奥津城跡」へ訪問した事がある。
とは言うものの、城舘跡を連想させるものは現在無く、その地形から、舘かお寺があったのかな?と想像させるだけである。
ここに何があるのか?

フォロワーさん達なら、たまに聞く名前だが、清原氏
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507
出羽俘囚長にして、大鳥居山柵を完成させた清原光頼
その弟で前九年の役で一党率い、陸奥安倍氏を撃破、その功績から出羽陸奥初の鎮守府将軍になった清原武則
その子孫の墓所がある。
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後三年の役に破れた後、清原氏は散々となり、追っ手から逃れる為にひっそり暮らしていたとか。
1558年にこの地に辿り着いた清原氏
そこからの初代清原重光は、田口家と共に大禿村に堰で水を引き開墾、その時に寺を勧進別当となる。
これが、旧二ツ井町(現能代市二ツ井)の開村伝承となっている。

ここで背景考えてみる。
檜山(能代)の安東愛季が比内(大館)の浅利則祐を討ったのが入部直後の1562年。
そして安東愛季は、弟の浅利勝頼を傘下に入れ、南部氏と血で血を洗う鹿角を巡る戦いへ…
世は戦国乱世。
だが、その最中に、争いに飲み込まれずに開墾を進め、町の基礎を作っている…
二ツ井は、能代と大館に挟まれた地にも関わらず…
ひっそり平和を選び、村を発展させていたって事だ。
後、江戸期に佐竹藩となった二ツ井は、米代川水運の要所となり、更なる発展を遂げていく。

ムダに争わず、然りとて戦乱に巻き込まれない様に調整し、それを成していたのがなんとも凄い。
さすが出羽俘囚長にして、鎮守府将軍を排出した一党の力なのか?
冷静に考えたら凄い事…
感慨に更けながらお参りをさせて戴いた。

秋田の地における歴史秘話でした。