防御性環濠集落の行き着く先−1…出羽清原氏の居館「大鳥井山柵」とは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/15/190213

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/18/074550

これらを前項として。

さて、概ね10~11世紀、主に北緯40度線以北に顕著な構造物「防御性環濠集落」。

勿論、それ以前に東北には「多賀城」「鎮守府胆沢城」「秋田城」「払田柵」等、朝廷の古代城柵があるが、それらが機能停止した時期から現れ始める。

また、同時期には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652

十和田噴火等により集落の移動を余儀なくされ、人口の集中や分散が発生したのも事実だろう。

後にそれら「防御性環濠集落」が姿を消しつつある頃に登場した城館の象徴たるものが、出羽清原氏の「大鳥井山柵」と陸奥安倍氏の「鳥海柵」。

今迄も取り上げてきたが、これらがどんなものか?改めて学んでみよう。

筆者はその両方や幾つかの防御性環濠集落、蝦夷館と言われるものを直接見た事がある、とは言え遺構はそれぞれ埋め戻され保存されているから片鱗のみ。

まだ同時代(11~12世紀)の関東以西の城柵を見た事はないので比較はムリ。

だが、同じ東北の中世城館と比べると、それらが如何に化け物級なのか?は想像可能。

では本項では、出羽清原氏の「大鳥井山柵」をとりあげよう。

これが「安倍・清原氏の巨大城柵  −鳥海柵跡・大鳥井山遺跡−」 の表紙。

概ねこれは上下で西←→東を向いている。

南,西を横手川、北,西を吉沢川で囲まれ、宗教,政治の場として「大鳥井山柵」、居住らの場として「台処館」が機能していたと想定され、その中央に南北に旧羽州街道が通っていたと思われる。

「大鳥井山柵」だけで丘を2つ、台処館も含むと3~4の丘をそのまま利用する。

ピンとこないので、現在のGoogle Earthで見てみよう。

赤が「大鳥井山柵」、青が「台処館」、紫線が旧羽州街道、緑→に陸上トラックが見えるが、これと比較すればその規模の大きさが何となく解るかと。

概ねの構造が、

「−写真で見る国指定史跡−  大鳥井山遺跡の本来の姿」によると、旧羽州街道に面する東側を中心に北~東~南には「畝状空堀群」が施され、川側に面する西側は比高10~20mだが断崖絶壁。

土塁には柵列、柵に接する様内側に櫓状建物が設置されていたのが発掘で解っている。

同書にある東側の「畝状空堀群」がこれ。

土塁上の人の姿でその大きさが想像出来るだろう。

この城柵の成立は1050年頃、一度後三年合戦前の1080年頃に「畝状空堀群」の増強はされているが、基本的構造は当初と同じとされる。

「安倍・清原氏の巨大城柵  −鳥海柵跡・大鳥井山遺跡−」の島田祐悦氏の解説によると大鳥井山遺跡の小吉川の様相は、

・東(下)部…

主に掘立柱建物跡が並び、兵舎や倉庫が置かれており、中央付近に土橋と大手櫓門があったと思われる、

また、空堀から陶器片、椀や曲物、鳥形らが出土し、宴会や食事、祭祀らが行われていたと考えられている。

・南(左)部…

この辺が遺跡内では古い模様。

馬蹄型の溝や雨溝と建物らと共に、フイゴの羽口も出土しており、鍛冶工房らがあったと考えられている。

また西南方向には火葬墓や土壙,集石や石柩らが検出、墓域だったと考えられる。石柩には副葬は無し。

また墓域としては約百年後迄使われていた様だ。

西部は小高い尾根になり、端は断崖絶壁になる。

・北(右)部…

東(下)部以前より、政治らの中枢が置かれたと考えられ、かわらけが遺跡の全時代を網羅する様に出土し、堀(溝)で区画整理され、中心建物(六度建替)が検出。

最終版では、桁行三間(約16.5m)の大型四面廂付建物となる。

この規模の類例が陸奥安倍氏の城柵とされる「鳥海柵」にあり、国司館を模したのではないかと推定される。

更に堀や土塁を挟み隣に隣接の大鳥井山には、その山頂部(大鳥井山遺跡で最も高い)に四面廂掘立柱建物や後の中世の塚が13基検出される。

ここからは、横手盆地が一望可能。

現状は寺社らと推定され、特に夜は灯籠らで盆地内の周囲からそれが見えたのではないか?と考えられている。

ここまで書くと解るかと思うが、「大鳥井山柵」は台処館も含めて行政,軍事,居住,生産,宗教らがパッケージされた複合施設だろうとの指摘がある。

実は、先述のかわらけや土器の類は、比較的近隣にある「払田柵」と一部時代が被り、現状払田柵が何であるかの最有力「第二雄勝城」と一部並立した時代があるとの指摘がある。

つまり、当初国衙として作られた施設の機能が、まま清原氏の私的城柵である大鳥井山柵へ移行されたともとれるのだ。

この時には既に秋田城も機能停止をしており、清原氏から出羽国司,秋田城介に対して租税した…故に出羽山北三郡俘囚主と言われる事になるのか…

実際には、同時代の秋田市の「勅使館跡」や「虚空蔵大台滝遺跡」ら、土塁,空堀や寺院関連遺物が共通する遺跡を含め、出羽清原氏一党が構成され、その勢力を維持していたと考えられ、その宗家が大鳥井山柵の主。

前九年合戦で敗戦濃厚になりつつあった源頼義,義家へ、1万を超える兵力で援軍可能なバックボーンはこの辺から来たのだろう。

同書で監修した樋口知志氏らの研究によれば、清原氏は純粋な蝦夷(エミシ)の後裔ではなく、元慶の乱で都から派遣された「清原氏」を父系に、それに協力した土豪を母系にし、現地と都のパイプ役も含め、現地の開拓を進めて財をなし頭角したと考えている様だ。

また、大鳥井山柵の廃絶は、そのかわらけや土器の編年指標から平泉柳之御所と一部共通し平泉と一部時代が被ると考えられている。

つまり、平泉の出羽側の拠点して一時機能していたとも考えられており、後三年合戦で廃絶された訳ではなさそうなのだ。

平泉を開いた藤原清衡は、前九年合戦で父の藤原経清が処刑された後に清原武則の子武衡が養父となっている。

藤原清衡は大鳥井山柵を知っている。

この辺から柳之御所は大鳥井山柵をモチーフ(軍事機能を薄めた上)としているとされる。

その為、大鳥井山柵を出羽側拠点としたとしても違和感はない。

出羽清原氏陸奥安倍氏は婚姻関係があり、それらと他の豪族との勢力関係が、前九年合戦の遠因とも推定されている。

また、後三年合戦も出羽清原氏(元々の清原氏宗家)と鎮守府将軍となり陸奥側へ拠点を移した陸奥清原氏の仲違いに源氏が介入したとも。

割と…この辺から鎌倉殿源頼朝へ至る源氏は、何気に最近の研究を読むとエグいのだが。

何故、源氏が東北に執着したのか?

後に、鎌倉幕府の将軍が次々に亡くなり、陸奥守となった北条義時安倍氏後裔,俘囚長を名乗る安東(藤)氏に「蝦夷の沙汰」を任せ、御家人らを配置したか?

これらを学ぶと、何となく理解出来てくる。

武力や経済を押える為の「富」の源泉の確保…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836

まぁ平泉の時代でこれ。

それは更に後代の

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

陸奥将軍府北畠顕家も同じであろう。

 

何故、清原氏がこんな時代に不釣り合いな巨大城柵を作り得たのか?

後代迄の動きを通史で見ていけば、何となく納得出来るのではないだろうか?

 

まずは、出羽清原氏の「大鳥井山柵」から。

次は当然ながら陸奥安倍氏の「鳥海柵」をとりあげよう。

で、この2つ…

ちゃんと防御性環濠集落の傾向を持つ様だ。

その辺は今後…

 

参考文献:

 

「安倍・清原氏の巨大城柵  −鳥海柵跡・大鳥井山遺跡−」  樋口知志/浅利英克/島田祐悦  吉川弘文館  2022.10.10

 

「−写真で見る国指定史跡−  大鳥井山遺跡の本来の姿」 横手市教育委員会  平成29.3.31