https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652
そう言えば「元慶の乱」についても「火山灰考古学と古代社会」では、9世紀前葉以降の「俘囚や蝦夷の最大規模の反乱」と紹介している。
元慶の乱とは?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137
こんな感じ。
我々も何度も元慶の乱と記載しているが折角なので復習してみよう。
①元慶の乱とは?
「日本三代実録」「藤原保則伝」らにされている元慶2(878)年での出羽国蝦夷&俘囚による反乱を指す。
②原因は?
・前年の飢饉
・秋田城司良岑近の苛政による(藤原保則伝)
「秋田城跡歴史資料館」展示より。
渡嶋や津軽の人々への饗応に合わせて周辺から米をかき集めた話は木簡で立証される。
交易量が増えれば、当然として使用される米の量は増える。
乱以前に出羽国の「公民の1/3が奥地に逃げた」報告はあるので「苛政」も考えられる訳だ。
③規模と要求は?
乱に参加した記述があるのは十二村。
・上津野(鹿角)
・火内(比内)
・榲淵
・野代(能代)
・河北
・腋本(脇本)
・方口
・大河(大川)
・堤
・姉刀
・方上
・焼岡
以上。
要求は「秋田河(雄物川と推定)を己が地とする」
④戦況
・878年3月勃発、秋田城,秋田郡衙,秋田城周辺民家を焼き払う。
・同年4月戦況悪化、能代営の救援にも失敗し大敗を喫し、秋田営へ引く。
この時に前述の「要求」がなされたとされ、陸奥,上野,下野から援軍派兵、藤原保則が出羽権守で派遣される。
・同年5月に援軍集結の秋田城へ俘囚軍が船で急襲、大敗し大量の物資を奪われる。
・同年6月に、藤原保則到着、鎮守府から小野春風が鎮守将軍として着任。
当初藤原保則は常陸,武蔵から二千人の援軍派遣を要求されるが朝廷から拒否され「俘虜により夷俘を討つ」様に命令が下る。
・同年7月に俘虜を主力に据えた秋田城軍が大勝、同年8月には秋田城軍へ付いた渡嶋,津軽の俘囚が参戦し更に大勝。
ここから乱は収束に向かい、翌879(元慶3)年にかけて俘囚軍の降伏と渡嶋,津軽の夷の帰順が相次ぎ終結。
奥地への追討も検討されたが、実施せず。
④事実関係は?
・秋田城の発掘により、
1,政庁と東脇殿の柱跡から大量の炭化材検出で主要殿舎の焼失が立証
2,外郭材木塀の炭化柱材から外郭区画施設の焼損が立証
3,炭化材周辺の土器編年で9世紀後半で一致
・五城目町「石崎遺跡」の発掘により、
秋田郡衙と考えられる柱材検出とその炭化より焼失が立証
等々で、元慶の乱そのものが立証されている。
それらから、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/05/165357
末期古墳の最終形態「岩野山古墳群」の第一墳墓の被葬者は元慶の乱で秋田城へ加担した俘囚の長と推測されている。
⑤「火山灰考古学と古代社会」で挙げられる4つのポイント
・俘囚軍に参加した十二村は「賊地(蝦夷の村)」でありながら「己が地」にする事を要求している事。
この十二村は元々朝廷に帰順した「俘囚の村」だった事になる。
統治状況的に重要。
ここでも、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/22/203614
取り上げた。
小野春風は父小野岩雄と共に陸奥に滞在していた事があり、夷語に通じていた事が藤原保則伝にある様だ。
・津軽俘囚は多くの集団が存在し、数千人規模且つ天性勇猛で戦い慣れしていた記述がある事。
・渡島の長達103人が「その種の人々」三千人を率い秋田城詣でしている事。これには賊にならないとする津軽の者100余人が帯同し帰順した記述がある事。
申し出を断れば遺恨となる為に大いに慰労したとあるそうで、北方の人々を大いに気にかけていた事が示唆される。
津軽俘囚の中には、俘囚軍側に当初ついた者もいたとも看取される。
・これら4点より、著者は「郡制」を敷いた敷かない…という様な単純な二局論ではなく、その服従も複雑に入り組んだ濃淡を持っていたと考えている。
以上の通り。
さて…
ここで終わったら、我々的にはつまらない。
少し、追加してみよう。
①遺跡から…
元慶の乱は878~879年に掛けて起こった。
ここで前項を思い出して戴きたい。
十和田噴火は915年で胡桃館遺跡や片貝家ノ下遺跡らをラハールに飲み込んでいる。
つまり、元慶の乱以降には寺社や倉庫らと思われる物が検出されている。
郡制が敷かれていないとされる地域でも、朝廷と共存し律令国家側とされる生活を営んでいた事になる。
これらを加味すれぱ、同書著者の指摘通りに郡制記録だけで単純なニ局化は無理がある事になってくる。
②技術面から…
今迄も記述してきたが、元慶の乱以降、製鉄,須恵器窯が拡散しているのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915
これらで解るだろう。
そうなのだ。
国家規格たる「箱型炉」ではないにしろ、虎の子の製鉄技術を「縦型炉」の形で伝搬させるのを許している。
更には、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/14/154855
秋田城周辺で焼かれた須恵器は、技術拡散の後に津軽の「五所川原窯」らに変化していく。
これらは発掘らで確認された事実。
敗北したハズの俘囚軍は、結果的にこれら最新技術を手に入れる。
これは、元慶の乱終結後、改めて帰順する事でお互いの信頼関係を構築し直さなければ説明がつかない。
支配体制は「土地→統括する長の帰順」と変容したのではないか?と言う事にならないか、である。
こうなれば、郡制だけで服するかしないかを結論付ける事は出来なくなるだろう。
現実、そんな単純な話ではなさそうだ。
③帰順…
関連項でもあるように、津軽,渡嶋の長達は「自ら選択し」朝廷側につき、俘囚軍を攻撃している。
その後は上記の通り、帰順ラッシュ。
ここでも「自ら選択し」その道を選んでいる点。
これは「利益」を考えてもそうなる。
俘囚軍につけば、交易はそこまで。
だが、朝廷側につけば、最大消費地である「都,畿内」と直結する大商いが可能となる。
どちらに利が出るか?考えたら、当然の選択だろう。
ましてや、それらより遡って粛慎の南下の際の安倍比羅夫の一件がある。
力の均衡が破れ、防衛上の問題が出てくれば、朝廷軍の力が必要となるだろう。
後の交易状況や安倍,清原氏、奥州藤原氏の時代、余市の発掘らから考えても、その方が矛盾は無いだろう。
どうだろう。
独立性を持ったもの…と考えるよりは、集団を率いる長による服従によりある程度統制が効いていたと考える方が矛盾がないのだ。
その方が利益は出せる。
考古学によるアップデートは必要になってくる。
より解明が進む事を望む限りである。
参考文献:
「火山灰考古学と古代社会 十和田噴火と蝦夷・律令国家」 丸山浩治 雄山閣 2020.8.25
「日本の遺跡12 秋田城」 伊藤武士 同成社 2006.7.10