これの話である。
「似たようなものはある」…少し拡充していこう。
前項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/02/121528
さて、然りげ無く仕込んでたのであるが、お気付きだったであろうか?
「9~10世紀頃と思われる底部に「✕」が掘られた須恵器らもあるが、今回はこの「移動式竈」に特化してみる。」
しれっと書いてみていた。
で、これがそれ。
須恵器の欠片に残された何らかの記号。
当然これは鳥取県「高住牛輪谷遺跡」での出土なので、近辺の須恵器窯で焼かれたものだろう。
さて今迄も、北海道に絡んだ話で本州にも似たようなものはあると話をしてきた。
御幣信仰…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716
紋様を施す刀剣拵…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/19/184606
樹皮繊維の利用、但し、紡績技術伝播無し…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/155334
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/121516
まぁ、アットゥシの刺繍もある意味、こぎん刺しや刺し子ら東北に伝わる刺繍に似ているし、成立時期も同じ様なタイミングで北前船就航後の伝承。
こんな話を知ってるので、訪道時にアイノ文化の特異性を強調される度、共通点が見えたと答えてドン引きされた事は既報。
勿論、専門家として「系統立てられた学問」として、識別のされた中で特異性を説明されてるんだろうが、筆者的には散々似たものを見てる故に??。
と、言う訳で、ここから本題…
関連項は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019
南部氏居城「聖寿寺館」の工房跡から骨角器と「シロシ」入とされる陶磁器が出たとされる話。
では、いきなり引用からいく。
「本遺跡の出土遺物のなかでもっとも数多く、バラエティーに富んでいるのがこの木製品である。低湿地のため保存状態が良く、堀後は・井戸跡を中心に、当時の暮らしぶりを垣間見ることができるたくさんの資料かま出土している。一部に竹製品や広葉樹と思われる材を含むが、ほとんど杉材であり、在地の「秋田杉」を使用して道具を製作していたことがわかる。」
「椀は黒色漆が塗られているものがほとんどである。漆塗りの範囲は全面にわたるものと、底部を除いて塗られているものとの2種類に分けられる。また内部に赤色漆が塗られているもの(270-7・9、277-3・4)、内外面に赤色漆が塗られているもの(280-4)がある。276-1・3・4、277-1・2は底部に「+」「-」の線刻が、280-4は体外面に線刻がそれぞれ認められる。~中略~280-3は底面に「二」の赤漆文字が見られ、もう一点の漆塗り椀と共にSK223土坑から出土した。この土坑は形態と埋土から墓と考えられ、椀は副葬であった可能性がある。」
「洲崎遺跡-県営ほ場整備事業(浜井川地区)に係る埋蔵文化財発掘調査報告書-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成12.3 より引用…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/16/200026
この通り、度々登場する秋田県井川町「洲崎遺跡」の木製品−椀の部分である。
説明にあった底部の刻印「+,−」、底部の「ニ」の朱漆、側面の刻印がこの図の写真になる。
そして、巻頭写真がそれらの現物。
陶磁器編年より13世紀後半に運用開始…16世紀後半に廃絶と推定され、吾妻鏡ら古文献上登場する「湯河湊」の比定地の港湾,門前を含む町家遺跡。
周囲には板碑群が残され、八郎潟町,五城目町らと合わせて、平安の秋田郡衙、中世の市や職人町らがあったとされる地域の中核。
まぁ漁具的には八郎潟の漁を想起させる遺物あれども、流石に近辺の海は秋田湾内部で海獣やイルカら哺乳類、大型のカジキ,マグロは回らないので銛の中柄は必要ないであろうから、骨角器は出てはいない。
が、「シロシ」ではないか?とする様な記号付きの漆器椀ならこの通り。
勿論、地の秋田杉製だし、「シロシ」なんぞ一言も記載されてはいない。
さて、底部の「+,−」らの刻印が、「シロシ」と言うなればこれらは何だ?となる。
で、記号をつけると「シロシ」とするのか?、その根拠は?、なら島根の須恵器の事例は?、記号と言うなら「刻書や墨書」も記号だが?etc…
ちょっと安直な気もするのだが。
確か筆者の記憶では、この手の記号を記した椀らは、まだ東北に色々あったと思う。
見かけたら、この項に追記して行こうと思う。
その記号をもって「シロシ」、つまりアイノ文化の指標と出来るか?
まぁこの洲崎遺跡に住んでいたであろう人々の末裔は、地域の寺社で宗門改されずーっとこの辺に住んでいるのだが。
元慶の乱で焼かれた秋田郡衙比定地まであり、平安,鎌倉,室町と記録が残るかなり明確に背景が解る場所。
それも、聖寿寺館の様な閉鎖された城館ではなく、庶民が暮らした町。
履歴がしっかりする分…これがアイノ文化の指標だとするなら、旧安東領に住む秋田の庶民は殆どがその末裔になりかねないが…良いのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625
まだ北海道ですら、その指標が研究により諸説ありで、定義が明確ではないのに…だ。
まぁ、定義の設定は我々の仕事ではないので知った事ではない。
その設定が先だと思うが。
その辺、刻印の話のスタートはこの辺なのだろう。
奥尻島「青苗遺跡」の擦文期の土器底部の刻印。
確か、近似刻印は、余市の大川or入舟遺跡でも検出していたと思う。
これらと近世アイノの「シロシ」を共通項と見る事が出来ないか?だ。
但し、青苗遺跡は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450
中世前に廃絶、製鉄遺構と思われる物らからかなり朝廷に近いと想定され、また余市も港湾遺跡でカタイ出土らまた朝廷に近い事が考えられる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
擦文土器や文化が生まれる過程がこう想定される以上、奥尻島も余市も本州に近い場所…と、なってくる。
特に、同遺跡の馬らの作画と違い、これら記号は鳥取の事例からも「擦文期の刻印」は、本州の影響もあり得る事になって来るであろう。
直接繋がるなら、アイノ文化はかなり本州の影響を受けた文化と認めざるを得なくなる。
それで…良いのか?
それより何より、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
擦文の「+」とアイノ文化の「シロシ」が繋がっていると唱えるなら、この「中世の空白」について説明が必要となる。
聖寿寺館同様の「+」が、中世陶磁器でもボコボコに検出して然るべき且つ余市,厚真の他にも遺跡がありその中に居住区が含まれなければならないのだが…無い。
どうだろう?
少なくとも、記号を記した漆器椀は洲崎遺跡で検出している。
町や住む人々の経緯も通史的にかなりしっかりしている。
「似たものをある」…
ここだけは明確だろう。
この刻印の件、また他の「似たものをある」に関しては、気が付き次第追記,紹介らを進めていく。
参考文献:
「高住牛輪谷遺跡Ⅰ -一般国道9号線(鳥取西道路)の改築に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 ⅩⅢ-」 鳥取市教育委員会 2014.3.24
「洲崎遺跡-県営ほ場整備事業(浜井川地区)に係る埋蔵文化財発掘調査報告書-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成12.3