時系列上の矛盾③…二風谷の建物編

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/02/184205

続けざまに、ユオイ,ポロモイチャシ跡&二風谷遺跡について掘り下げてみる。
ポロモイチャシと二風谷遺跡の建物について。


「A壕とB壕との間には、1.6mほどの橋状に残る部分があり、その土層断面の観察から、A壕の掘削がB壕のそれより若干先行することが判明した。またA壕の内部には土塁がめぐらされ、土塁の上には柵列とみられる15個の穴が確認されている。」

「A郭・B郭には、それぞれ建物跡が確認されている。A郭の建物は、コの字形に盛土がめぐる7.8m×5.6mの主要部分に、3.6m×2.2mの張り出し部をもつものである。主要部の中央には炉跡があり、南西側を入口部分としている。また、建物跡主要部をめぐる焼土の広がり、壁材の一部とみられる炭化材の出土状況からみて、この建物跡は焼け落ちたものと推定される。」

「これに対しB郭の建物跡は、A郭の盛土に相当する積み重ねられた礫がコの字形にめぐらされている。規模は6.2m×5.9mでほぼ正方形に近い建物跡である。南西側に入口をもつものの、A郭建物跡にみられたような中央の炉跡とみられるものがこの建物跡にはなく、A郭・B郭の性格・機能がそれぞれ分かれていたのであろうか。また、B郭では、建物跡の北東側に隣接して足高倉庫とみられる4個の柱跡を検出している。」

「このチャシ跡は、Ta-b火山灰に被覆されており、その降灰年代1667(寛文7)年(石川俊夫他)をさほど遡らないとみられる。またA郭にはチャシに先行する建物跡(ⅢH-13)が想定されており、こと段丘突端部が早くから居住空間として利用されていたことがわかる。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

チャシと建物の特徴である。
①壕…
土塁途中に苫小牧火山灰層が散見と。
つまり中世以降に建造されたもの。1663,1667共に覆うので、降灰で廃絶と推定。915~1663年の間に作られているのは揺るぎない。
②建物…
穴にはⅢ層黒色土が入る。
つまり、降灰より先に各柱は引き抜かれて埋められていた事になる。
確認した限り、穴の中に火山灰層は混入しない。
と、A郭の建物は火災跡ありと見られる。
③出土遺物…
刀子類・内耳鉄鍋・鎌・鉈・ノミや小札等の金属器、A郭建物からは絵唐津大皿と鹿角の銛ら。
ほぼ、遺跡のⅢ層上にあり、火山灰を被る事が多い。


これから言うとユオイチャシ同様で、廃絶は1663年より前と言う事になると思うが…そんな推定はしていない様だ。
…何故?
勿論、「チャシの使用者」も炉に魚らの骨が残る為焼いている様だが、炉跡は近くに三ヵ所あるので、主だった食料を焼いた跡は廃絶後じゃないのか?
それなら、先のユオイチャシ跡での柵列跡の考察とも合致する。
火災の跡については、その後ほぼ触れていない。
仮に…
戦いで館を焼かれ、防御柵列を抜いた…なら、その後に入った集団の生活痕で合理的に説明可能。
で、この場合は、やはり2号墓の集団が館を築き、1号墓の集団はそれを落としたとするのがスッキリする。

で、二風谷遺跡の11の建物跡…
いや、ここでやっと嘘発見。
最も古いと報告をしている「ⅢH-9」について、これ、一番最後まで使われていたと考えられる。
根拠は、この「ⅢH-9」のNo.2,3の穴に、火山灰入ってる。
つまり、降灰した段階で、まだ穴が塞がっていない証左。
ユオイチャシ跡の獣骨片は「柵列柱を抜いた時に撹乱したのでは?」とまとめの章で発見したが、さすがにここはそんな詭弁はつかえなかったか、本文中に記さず、「図62」のみに図示している。
で、実はこの「ⅢH-9」住居跡のド真ん中に「1号墓」が作られているのだ。
その「1号墓」の墓標穴には、火山灰が入っている。
つまりタイムラグが殆ど無い。

これは少々酷い。
筆者の様な素人でも、パズル同様に同じ地層を探していけば、ある程度積層された順番で時系列に並べる事はできる。
専門家がこんな重要な情報を見逃すハズは無い。そうでなくとも、ⅢH-9は二風谷遺跡内では最も古いと何度も書いているのだから。

火山灰であるⅡ層は、遺跡遺物は無いとされ、全て先行除去されている。
ここが時代背景の境界線だ。
有珠山の東側であるが故の特徴。

ここでSNS上での話となった。
素朴且つ単純な疑問。
ハッキリ解る程降灰して、植物は枯れ、動物は逃げる。
狩猟を生業としているのに、狩場にならぬ山に留まれるのか?

https://twitter.com/F34fC9F4NEMW5e2/status/1334387368481017856?s=19

こんな意見を戴いた。
縄文期同様とするなら…
この発掘結果を鑑みれば、二風谷には、短くて1700年頃でなければ人が住めない。
とすれば、二風谷は寛文九年蝦夷乱の時に、人が居住する訳がない。
仮に居たとすれば、食料は持参の金堀位か?。
勿論、降灰層上には獣骨片ない様である。
なら、二風谷アイノは、何時何処からここに入ったのか?
先住民なんかとは言えない。
逃げた人々が居るハズなのだ。

実はこの報告書、三名の方が手分けして書かれており、それぞれが文責を持つ。
相対的に、時代背景を加味せず、道内の他の遺跡との関係のみに終始する方がいる。
何故か、古書や他の歴史書との関連を加味して、ここに居たのが誰なのか?こんな視点での検討しない傾向が見える。
ここに、大きな違和感を覚える。

ただ、この三名の内、一人は客観的検知で文章を書いている方がいる事は付記しておく。
この方の文章は違和感を感じない。

手口…見えてきたと思う。