時系列上の矛盾②…二風谷のお墓編

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/161755

引き続き、ユオイ・ポロモイ・二風谷遺跡について見てみよう。
象徴的な物として語られる「お墓」について、どう描かれているだろうか?
敢えて、一番最初に書いておく。
二基の墓は「近世アイヌ墓」として表題されている。


まずはⅣ章「二風谷遺跡」の発掘時での記載より…

「本遺跡では、2基の近世墓が確認された。2基は、ともにユオイ・ポロモイ両チャシ跡間の河岸段丘上に存在し、1号墓がそのほぼ中央に、2号墓がユオイチャシ跡に近いユオイ沢に面する段丘縁辺部にそれぞれ位置する。両者の間には、58mほどの距離がある。」
「これらは、外観上、周溝と盛土をもつ同形態のものであり、規模も長軸4.3m前後でさほど大きな違いはない。ただし、立地の面で、2号墓が竪穴(ⅢH-7)のくぼみを利用していることが、注目される。長軸方向は両者とも、沙流川の上流方向つまり北東方向を示している。墓墳形態は両者ともに長台形を呈するが、2号墓には、意識された副葬空間が頭側にあり、副葬品がそこに集中している。それに対し、1号墓では、副葬品を特定の空間に固めて置くということはない。副葬品の内容は、両者とも太刀・山刀・中柄・漆器と、基本的に組合せは同じである。」
「両者の年代は、本遺跡自体がTa-b火山灰で被覆されており、下限をTa-b火山灰の降灰年代1667年とすることができる。しかし、上限については、それを決定できる要素はない。ただ、墓標穴の覆土が、1号墓でTa-b火山灰、2号墓で火山灰を含まない茶褐色土となっていることから、1号墓は1667年をさほど遡らないとみられ、2号墓がそれに先行する可能性が考えられる。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

両者共に、人骨や中柄(弓矢の鏃と柄を繋ぐ部分でシカ骨や鯨製)は腐食が進むが、新しいであろう1号墓の方が残留部分は多いとしている。
札幌医科大学の百々幸雄助教授(当時)の取り上げ時の確認では、熟年~壮年男子の模様。
特に副葬で注目したいのが太刀。
1号墓…蝦夷太刀ではと思われる小太刀
(鍔形態は室町?)
2号墓…南北朝頃の拵えを持つガチの「太刀」
同じ様な構成だが、副葬が細かいところで微妙に違う。
墳墓としての最大の違いは、時系列上、2号墓→1号墓となっており、2号墓も1号墓も何故か墓標が引き抜かれたと見られる。
だが、2号墓は火山灰が降る前に既に引き抜かれ、1号墓は降灰後に引き抜かれた点。
2号墓の墓標穴に火山灰が含まれないのがその根拠。これは覆し様がない。
とは言うものの…
誰が何故わざわざ墓標を引っこ抜くのだ?と考えてしまう。
確証は無いが…
仮に2号墓と1号墓で埋葬者が、元々属する集団が違い土地の利用方法らに違いがあるのであれば、それなりに説明は可能だ。
この場合、先のユオイチャシの柵列跡の内容を鑑みれば、チャシを運用したのは2号墓(古い)の集団、廃絶後に獣骨片をばら蒔いたのは、より新しく且つ降灰直前にそこに居た1号墓の集団となる。
この場合、2号墓や柵列の柱を引き抜いたのは1号墓の集団と考えるのが妥当であろう。
勿論、これらは筆者が見た印象であり、勝手な推定に過ぎないが、墓であろう事が解っていて且つそれを引き抜くのなら、全て繋がってるとは思えない。

そう言えば、シャクシャインの子孫は加賀の庄太夫に逃がされ、平取アイノの祖になったと主張する方がいた。
とすると、この話に出る「シャクシャインの子孫達」は、この2号墓,1号墓の人々とも、またまた別集団になる。
何故なら、寛文九年蝦夷乱が拡大するのは、有珠山らが噴火しTa-b火山灰層が降り注いだ後となっているからだ。
全て違う事になる。
因みに、先述の1号墓の漆器は「秀衡椀」で安土桃山様式と推定されている。
降灰直前にその場に居たとしたら、概略ではあるが、時代背景は合ってくるのだろう。
さて、降灰状況では、1号墓は江戸初期であることは揺るぎない。2号墓は太刀様式だけならそこを下限として最大300年程度遡り得る。2号墓は中世墓の「可能性」があるのでは?


さてでは、これらが、まとめ編ではどう書かれているか?
こちらも「近世アイヌ墓」として表題されている。

「今回の発掘で、2基の近世アイヌ墓が確認された。いずれも、周溝・盛土・墓標を持ち、墓壙も同じ長台形を呈するものであり、頭位方向も同じ北東方向、副葬品も基本的に同じものをもっている。そして、この2基の墓は、ともにTa-b火山灰に被覆されており、その下限を1667年とすることができる。このように、降下火山灰を指標として、下限を18世紀中葉以前に確定できる近世アイヌ墓の調査例は年々増加してきており、千歳市ウクマサイ遺跡B地点・同N地点・千歳市末広遺跡・瀬棚町南川2遺跡などがあげられる。」
「二風谷例は、墓標の位置に多少の違いはあるものの、ともに周溝・盛土を持つ形態である。田村俊之氏分類のⅡc型(田村1983)にあたる。類例は、ウクマサイ遺跡B地点の3号アイヌ墓、同N地点のAG-2と、末広遺跡のIP-1・2・3・14の6例がある。これらの地域はともに河野広道氏が墓標よりみたサルンクルの地域(河野1925)にあたり、また、田村氏が20世紀前葉の沙流アイヌの葬制(久保寺逸彦1956)との比較で、千歳川流域のそれに共通性を見い出だしていることに、また一つ、周溝と盛土を持つ墳墓形態という共通要素が加わった事になる。(注1)」
「周溝・盛土を持つ墳墓形態という共通性のある6例と、二風谷遺跡の2つの墓をについて、その立地をみるとき、二風谷の2号墓のみが竪穴のくぼみに立地している。他の例はすべて河岸段丘上の平坦面につくられている。この立地の点から、他の形態の墓が混在する末広遺跡(昭和53~55年度調査区域)(注2)をみてみたい。末広の場合、図122(注3)のとおり、墓はすべて撮文基のくぼみを外して、平坦部および段丘縁辺の傾斜地に立地することが認められる。」
「このことから、本遺跡2号墓は特異な例といえる。」
「2号墓の特異性は時間的要素に起因するものと考えたい。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

この後は、頭位とアイノ的要素との検討となり、刀剣等副葬についての記載はない。
終始これらを近世墓又はアイヌ墓として扱い、近世、と言うより近代アイノとの繋ぎへの検討としている。
まぁ元々の歴史感のスタートがこれである。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/101118

北海道の歴史=アイノの歴史…
こうなるであろう。
気が付いたであろうか?
1667年の降灰で時代特定可能としながら、この章の説明では、下限18世紀中葉となるの墓との関連性を見ている。
これは記載ミスでない。引用通り。
歴史的変遷より現代に近い方近い方へ繋ぐ気満々ではないか。
そうなのだ。
似た傾向を寄せ集めねば、近世と繋げられる確証すらない。故にそうせざる終えない。

だが、この報告書の検討内容だと、この遺跡には、中世の痕跡が丸で無くなってしまう事になるのだが…良いのか?
擦文期から江戸初期、遡り安土桃山位迄が宙に飛ぶ事になれば、如何に現代,近世と繋がろうとも、その時代に「移住した」人々だと言うことを否定出来なくなってくる。
なら、ここで爆弾投下…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019

南部配下の部隊なのではないのか?
特に2号墓の埋葬者は、南部配下として仮説しても成り立つのだ。
割と時代背景がピタリくる。
当然、この場合、南部と二風谷とは行き来があり、渡った者達…つまり先住民ではない。
これを否定する材料はあるのだろうか?

たった一冊の発掘調査報告書だが、場所が場所故に面白い。
元々、古書上、この地近くに居たのは、沙流のウトマサでは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523

何故その辺との関連性を追わぬのかが謎。
勿論、その場合はシャクシャインとは敵対勢力の勢力圏になるが。
降灰の状況を鑑みれば、ウトマサらとコンパチになる。
それでは…ダメなのか?


この件、もう少しだけ続けてみようと思う。
これだから、歴史は面白い。



参考文献:
「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日