時系列上の矛盾④…二風谷遺跡の包含層遺物、そしてまとめ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201533

さて、ラストはⅢ層、つまり平安(擦文)期~江戸初期(近代)迄を覆うⅢ層黒色土層の包含層遺物について、とりあえず引用してみよう。

「金属製品は、ほとんどがⅢ層上面(Ta-b火山灰直下)にあり、近世の遺物と思われるが、一部はⅢ層に少し入った状態のものもあり、これについては擦文期の金属製品の可能性が高い。」
「鍋:前略~内耳鉄鍋片である。~中略~8は口縁部の損傷部両端に、折り曲げた小札がついている破片。」
「刀子:前略~全体的に刃物を大切に使用している、印象を得る。」
「ナタ:いわゆる「腰鉈」と呼ばれるもので、ポロモイチャシ跡から出土した2丁と同一の形態である。木材切り出し、加工を行ったものだろう。」
「鎌:30は、ポロモイチャシ跡やⅢH-1からも出土している形態の、直刃鎌である。~中略~擦文期の鎌とする事ができよう。」
「鍬先:この遺跡における農耕を示唆する遺物である。~中略~ⅢH-4でイネ科(アワ?)、ⅢH-10でモロコシ類が検出されている。」
「斧:36は近世~現代に通用の形態で~中略~37は、擦文期の袋状鉄斧である」
「刀:」
「鏃:」
「魚獲具:前略~マレブ~中略~アブ~中略~かえりのついたヤス~後略」
「その他の鉄器:45は2列13穴の小札で、折り曲げられている。」
「垂飾:61~66のコイル状、67~69の渦巻双頭~中略~全体で腰帯様の装飾を構成するものと思われる。樺太沿海州・シベリア方面にその起源となるべき例を見出だせそうである。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

鉄器について引用してみた。この他、古銭やガラス玉らが出土している模様。

ここで気になるのはやはり鉈や鍬先だろう。
最上徳内らや幕府直轄時の各藩士の報告らでも、アイノはまともな農耕はやっておらず、やっても畝さえ作らぬ程度。
鍬なぞ必要すら無いレベル。
それを斧どころか鉈や鎌すら持ち、開墾する気満々なのだが。
でアワやモロコシ類が観察される。
これ、擦文期と予測しているが、直接擦文期住居跡から何も無いのだから、確証にはならない。
むしろ、ポロモイチャシ跡の鎌の状況を考えたら、擦文どころか中世でも良いだろう。
考えてもみれば、チャシの空堀を何で掘ったのか?チセの様に貝殻か?それはムリだろう。
先に考察した、柵列跡ら同様とすれば、チャシを築いたであろう2号墓の人々、又はその先祖は農業もやっていた「可能性」はある。
さて、この場合、ポロモイチャシ跡の炉跡の残存骨は、魚が殆ど。魚中心、穀物を農業で作り食べて暮らしていた事になる。
随分、東北の人々に近い。
ユオイチャシとポロモイチャシを「運用」していたであろう人々はそんな食生活をしていたと説明可能。
対して、廃絶後に柵列の柱を引き抜いたであろう人々は、鹿肉を好んで食べる肉食系の食生活をしている。
随分違うのだ。
この辺が、実は2号墓の人々と1号墓の人々は、違う集団なのではないのか?と考える根拠でもある。


次に特徴ある「垂飾」について…
包含層はある程度撹乱されているので、江戸初期の物でも説明がつく。
何より、北海道でそれを作るとしたら鍛冶屋が居なければならないが、この二風谷遺跡には、そんな痕跡は無い。
いずれにしても鍛冶屋の居る場から持ち込まれた物になるので、直接その人々が持つ文化ではない。
「Ⅳ章まとめ」では、ライトコロ遺跡らとの関連を述べているが、前述の通り、文化が違う「先住者」が居るなら、単なる交易品か?北から入ってきた侵入者の痕跡?どちらかとしても説明可能。
これ…ヤバくないですか?
そう、中世に本州に近い「先住者」が居れば、それは北方から、又は、北方の品々を携え侵入してきた人々…これで説明可能。

そう言えば、この時期に確実に大量に流入した人々が記録に残っている。
「鷹侍と金堀衆」…何故これに触れぬのか?甚だ疑問なのだ。


ところで、チャシの性質について、少々同様の時代はどうなのか?考えてみたい。
仕込みである。
以前見た、青森の浪岡御所に近い位置にある「高屋敷遺跡」…

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1310409896110612480?s=19

ここは11世紀頃(平安(擦文期))に築かれた、所謂「蝦夷館」とそれに連なる町の痕跡の遺跡。
特徴は、土塁空堀のある土豪の館を外れにして、そこから周に町が築かれる構造をしている。
これ、二風谷にの構造に非常によく似ている。
東北の土豪らの城館は、十三湊の「福島城」を始め、「蝦夷館」を補修拡大していき、それが山城化していく事がよくみられる。
これ、里の規模や敵対勢力の有無で、そうならない場合もある。

さて、まとめてみよう。
勿論、素人且つここだけ局部の考察である事を前置きにして、地層や文化面から並べ直してみよう。

1・ Ⅳ層…(暗褐色土)
縄文人~続縄文人
(鉄器無し)

2・ Ⅲ層…(黒色土、撹乱包含層)
①平安(擦文)期
擦文文化人…
(苫小牧火山灰層による)

②中世以降~江戸初期
チャシを築いた2号墓に代表される人々…
(柵列や2号墓の実績、食生活による)

③江戸初期
チャシ廃絶後に住んだ、1号墓に代表される人々…
(②同様の理由による)

④江戸初期
火山灰により荒廃

3・Ⅱ層…(Ta-b火山灰層)
荒廃により最低30年程度は定住せず
(遺物等無しと埋文が判断している)

4・ Ⅰ層…(覆土)
二風谷の所謂「平取アイノ」
(現在の地層)


こうなるのでは?
Ⅲ層②,③の人々が、擦文人と直接血統が繋がるか?は「解らない」。
が、東北の文化変遷や継続して行き来があった実績から考慮すれば、極端に文化や生活に差があるとは考え難い。
何故なら、特異な生活をしているとの記述は「諏訪大明神画詞」のみで、日ノ本,唐人らが、何処にどの様に分布したかなど解らない。
更にはこれだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019

仮に、安東vs南部の抗争激化の折りに、Ⅲ層②の人々が移り住んだとしても辻褄はあう訳だ。
この位の時期なら、2号墓&1号墓のタイムラグも、それなりに理由が付くと思えるが。


以上、如何だろうか?
時系列に並べる事は大切だ。
結局、ここに帰結する。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329

大正~昭和初期には「縄文にアイノを結びつける」為に時系列を無視しそうになったのを、歴史,考古,医学研究の先輩達が研究を持って止めてくれた。
戦後~現在、「近代アイノへ中~近代史へ結びつけよう」と時系列を無視しかけている。
必要なのは「原点回帰」だと考えるが、如何だろうか?
まぁ、真実に近付けば歴史的観光資源を失うなんぞと心配する不届きな御仁も居るだろう。
そんな心配は要らん。
アイノの人々の価値が、その程度で下がる事もない。
その上、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/134005
これが手に入る。
「後方後志柵」を探す手段もある。
北海道には、全時代の歴史がある。
それをプレゼンすれば良いのだ。
問題なぞ微塵も無し。


それとも、違う理由があるのか?と問いたいね、我々としては。


参考文献:
「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日