この時点での公式見解⑲…史書に記される松前渡海船と遺物,書状との矛盾

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/02/205112
関連項はこちら。

日頃から筆者は、博物館,資料館は二度目が面白いと言ってきた。
この項は、その文献版。
少しずつ知識が増えると、疑問が三倍になる法則。
改めて、新北海道史をサラリと読んでみたところ、見逃していた場面はあるものだ。
知識が無い内は、何とも思わずスルーしていた。
だが、知識を得てくれば、必然的に記述に対する疑問が湧き、目に停まる訳だ。
多少は知識が増えたのだと言う事になるのだろう。

シーパワーの要「船」。
蝦夷地と松前をどの様に行き来したか?について記述があったので、引用してみよう。

松前陸路の交通は福山から東には吉岡峠、知内峠(福島峠ともいう)があり、西には小砂子山道があって、交通をはばんでいたばかりでなく、その他の箇所も海岸の砂地、礫石地でなければ、台地、原野を過ぎる粗悪な道路が通じていたにすぎなかった。ゆえに貨物はたいがい小船もしくは馬で運搬された。」
松前より蝦夷地におもむくには船に乗るほうが便利であった。」
「要するに蝦夷地はまったくの未開で、開墾した道路も、架設した橋梁も、宿舎も、馬匹もなく、わずかに蝦夷を雇って供とし、案内とし、夷家に宿り、夷舟に棹して行くほかはなかったために、和人の往来はすこぶる困難であった。」

松前から交易のため、蝦夷地に渡航するのには、多く二百石ないし五百石の縄綴船が用いられた。その製作法は鉄釘を用いず、木皮縄で板を刳ぎ木船の縁に綴じつけるので、すこぶる脆弱ではあるが、軽くて使用に便利であった。このような船が使われたのは、鉄釘の不自由な時代の遺風もあったと思われるが、また蝦夷地には良港が少ないので、船を川口又は砂浜に引き揚げ囲っておかねばならぬためでもあった。ゆえにもし良港ある土地に行くときは、普通の船を用いたという。蝦夷地の航海が進歩して、普通の船を使うようになったのは明和、安永以後のことであったと思われる。」
蝦夷の使用する船は小形で丸木船と、丸木船を台としてこれに板を綴じつけたものとがあった。丸木船は河や湖に用い、後者は海岸に使った。櫂はいわゆる車櫂を用い、帆は扇帆と呼ばれた蓆を利用したもので、これによってよく長途の航海に耐えた。もちろん岸に沿って走るので、夜になれば船を引き上げ、丸木を組み、これに苫蓆をまといつけた丸小屋を作って宿った。和人の小船による航海もまたこれと同様であった。縄綴船は実は、蝦夷船を模したものであった。」


「新北海道史第二巻 通説一」 北海道 昭和45年3月31日 より引用。

蝦夷地への交通」の項から抜粋した。
陸路的には、福山より峠がある上に、
蝦夷地→
海岸中心にしても、礼文華付近は船だが、様似,幌泉,広尾の難所は平穏な日のみ岩伝いに通過可能。
西蝦夷地→
太田,狩場,雷電,神威,雄冬ら難所続きで、これらは全て船。増毛まで行ければ斜里まで徒歩可能。

陸路の東西横断は、
遊楽部→瀬多内
長万部→歌棄
勇払→石狩(最重要)
石狩→上川→天塩
十勝→富良野→上川
釧路,根室→斜里
は、通過可能だった様で。

とは言うものの…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/05/194001
江戸初期位には、蝦夷地での馬の使用や、駅逓制度を張り巡らせる様な藩主命があり…
まぁ、新北海道史の方が発行が古いので、アップデートされたものとして捉えようか。

だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108
ならば、この和船を使ったのは誰?
松前藩の者ですらない。
発掘に携わった名取/峰山/石川博士らは、後の発掘でも道に協力している。
何せ報告書に名を連ねる物はある。
そして、アヨロ遺跡の一回目の発掘は昭和37年に報告書が出てる。
何故反映されぬのか?
これは、発行の時系列的に誤魔化し様がない。
大体、あちこちで船釘は出土してる。
それも、有珠火山灰直下。
つまり、江戸初期に和船は使われていた事になる。

更に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
大体、松前藩成立前から、南部も安東も蝦夷衆に船を売っていると、南部公は言っている。
それらの動きに全く触れられないのが疑問。

更に更に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/24/145700
アンジェリス/カルバリオ神父らの報告には、蝦夷衆は小型船だけではなく、二百石位の大型船を使い、長い航海をした者達の姿も記述している。
両神父の報告は、新北海道史でも引用されている。
蝦夷衆の風俗についての記述なので、編纂委員が見逃すハズもなし。

この疑問を持った出来事を時系列で並べたら?
①安東,南部は蝦夷衆に船を売っていた
②アンジェリス/カルバリオ神父の報告
③アヨロ遺跡での和船の降灰
④駅逓制度の完成
ほぼ江戸初期以前に起こった事。
アイノの船の絵図らより、遥か前の出来事。
話が食い違ったとしたら、和船に乗る人々の話を消し去っている事になるのだが。
まさかとは思うのだが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939
松前慶広公始め松前藩の人々は、松前領から蝦夷地側へ行った事も無く、蝦夷地の状況を全く知らなかったのではあるまいな?
こんな危惧を抱いてしまう訳だ。
いずれにしても、編纂委員がいかに考古学でのアップデートを嫌っていたかの証左であろうと言わざる終えない。
なら、
アヨロ遺跡らに船を残した人々は誰?
アンジェリス/カルバリオ神父が記した人々は誰?
安東,南部両公が船を売った相手は誰?
まさか、UMAではあるまい。
これだけネタが上がってるのに、未だに巷では、こんな船の話が無い。
筆者的には疑問なのだ。

アヨロ遺跡は白老にある。
貴重な遺跡と銘打っておきながら、反映しないはおかしい。
もう一度書く。
「アヨロ遺跡は白老」である。



参考文献:
「新北海道史第二巻 通説一」 北海道 昭和45年3月31日 より引用。