「弾左衛門」…蝦夷地を測量し、近藤重蔵に地図を渡したとされる人物

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/24/200439
関連項はこれになる。
と言うか、この手の話はセンシティブな部分も含むので、どうかとも思うが、先にネタふりもしているので、サラリとだけ触れておく。
2012年に書かれた論文をメンバーが掘り出してくれた。
徳川幕府による蝦夷地の創造 : 国家、領域及び地図」 ボイル, エドワード・キーラン2012-07-31 と言うもの。
近代国家を作る上での地図,領域の重要性と江戸幕府蝦夷地に対する対応を記したもの。
ただ、むしろその内容より「え?」と考えさせられる部分がある。
22pにこんな一文があるので、引用してみる。


蝦夷地の場合、蝦夷地を地図化する第一次的意義は、この地域を農地開拓のために再生することにあった。17世紀後半頃から既にこの地の農地開拓は提言されていたものの(高倉新一郎 1933b, 1933a)、交易を独占していた松前藩がその既得権益を明確に固持していたため、大半は実現されずにいた。植民地を扱う文脈においてよくみられるように、「探検家は、空間的、経済的、そして
社会的組織に対する先入観と、仮説と共にやってくる…。土地の探索及び将来的な入植の計画という二つの過程は切り離せない。すなわち、この過程は複雑で、しばしば探索隊の地図や文献に明らかに関連するものである」(Nobles 1993: 13)。すなわち、領域を「開く」という概念は、領域を国家へ統合させ、生産力をもたらすという双方の意味を有し、国家の代理人によって実施された地図作成によって、可視化され続けた。この点は特に、近藤重蔵による「蝦夷地図」に示されている(近藤重蔵 1993)。近藤重蔵による地図は、その数十年以上前に関東の穢多の頭であった弾左衛門が7万人の穢多・非人を集めて蝦夷地へ送り、「此段別千百六十六萬四千町歩石十分一、百十六萬六千四百町歩、新田畑開発可相成積」と報告をしたことを受けて、国土の空白を埋めるべく作製されたものである(小林茂 1995)。このような取組みは、領域に対して具体的な効果をもたらすことはなかったものの、国家に対しては、領域を把握しやすくさせたという点で「事実を要約し変換する力」を実証したといえ(Scott
1998)。18世紀後半、日本の探検家と幕府の要人は、蝦夷地を農業開拓用地として把握しやすくするために、この地域を稲田へと変質させることはなかった。しかしながら彼らは、この手つかずの未開の地を、国家の領域として再生することには成功したのである。」

徳川幕府による蝦夷地の創造 : 国家、領域及び地図」 ボイル, エドワード・キーラン2012-07-31 より引用…


日本最古の地図は、「行基図」は8世紀頃に成立、律令性の中で成立し、それからほぼ変わりなく使われた。勿論、かなり雑?な作りなのは皆さんご存知だろう。
何せ、北海道と津軽,陸奥はくっついてる。現地はまだしも、都等ではそんな土地勘なのが中世以降も続き、江戸期に各藩に書かせ報告させた物、更にご存知の通り本格的な地図を作ったのは、伊能忠敬の測量による。そして間宮林蔵へ…

とは言え、その前、近藤重蔵最上徳内蝦夷地探索へ向かう時の地図は、江戸幕府の命で手勢を連れて蝦夷地入りした「弾左衛門」が作った物ベースだと書いている。
論文の趣旨が地図と国家の関係なので、詳しくは書いてはいない。
但し、7万人…当時の北海道の総人口同等以上の人数。
これに匹敵するのはゴールドラッシュでのキリシタンを含む「金堀衆」位のもの。
事実だとしたら、江戸中期位にそれらの人々が北海道入りした事になる。
まぁ肉の解体らは御手の物。
ただ、どんな経緯で、誰が人選し、誰が指令したのか?…現状はここまで。
その後、どうなったとかは「解らない」。

だが、遊郭らの広がりに対する記載は、新北海道史にある通り。
遊郭らは経営,管理ノウハウが必要。
となれば、その利権を取らぬ訳もない。
新北海道史にあるように、後、吉原らのノウハウが利用され、許可制らになる過程も記載がある。
大奥のみならず、吉原らでも蝦夷錦は珍重されたとか。
ならそれは、どうやって手に入れていたのか?
割と話が符号してしまうのだが。


まぁこの辺にしておく。
弾左衛門が何者か?は各自の検索を期待する。
論文にはっきり書かれていると言う事は、最低限一部では知られた話なのであろう…と、付け加えておく。


参考文献:

徳川幕府による蝦夷地の創造 : 国家、領域及び地図」 ボイル, エドワード・キーラン2012-07-31