https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/13/192151
少々SNS上話が出たので、もう1項追加しよう。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/03/193625
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
北海道での開拓新道の魁は、近藤重蔵が通訳や役土人と相談し、地の土人を集めて、近藤の自腹で様似〜勇泉間を開通させた事から始まる…これは概報。
更に、悪虐非道と思われる場所請負人も、背景の詳細確認は必要となろう。
では、新道を含む北海道開拓をどの様に土地の人々は考えていたのであろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/22/053602
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/05/194001
元々、屯田兵含む北海道開拓は江戸幕府直轄施策の課題であり、松前藩独自でも場所間を新道で繋ぐ駅逓制度を広げて行く方針は見てとれる事も概報。
「明治政府ガ〜」…これがそもそも間違い。
端から松前藩も江戸幕府もやっている。
明治政府はそれらを引き継ぎ、国家予算枠を割き、短期間且つ強力に推し進めたに過ぎないのだ。
では、それまでどうだっのか?。
まず、役土人の職制に触れておく。
「乙名・小使
=蝦夷の部落には各酋長があって部落民を統率していたが、松前氏の統治時代に、蝦夷に對しては従来の貢納・交易関係を存積し、彼ら自身の支配関係をそのまま利用して、酋長を村役人的なものに任命した。すなわち酋長を乙名と呼び、その下に小使などを置いて補佐させた。一場所に数部落ある場合には、總乙名・總小使・脇乙名を置いて全部を総轄させた。小使は和人の下知に従って蝦夷を奉仕のために呼び集め、所定の労働に従事させる役で、副酋長というよりは全く場所役人の下使のごときもので、場所役人によって任命された役であった。」
「蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
これと似た事は新北海道史でも記載あるが、コタンを統括し裁判権を持ち方針決定したのが「乙名」、実務的に請負人や支配人,番人との調整や人集めらを行うのが「小使」となる。
さて、ここまでが前提。
では、引用していこう。
①山越内領(礼文華(東)〜歌棄(西)の黒松内新道)
「従レ是西地ヲタスツ〔歌棄〕への道有。黒松内越と云有。先公領の比(筆者註:第一次直轄)、黒松内と云に土人(レブンゲ〔禮文華〕土人ヲベツキ)一人住し、往来の者を木賃にて泊めしが、其後(天保二辰年)松前の利右衛門と云者、土人(エヒソ、ラムカクシ、シネハンコ)とともに川に橋を架け、谷地には木を横たえ、往来の便利たらしむ。其出来上り時、エナヲを削りて立てしが、新道の愈開ける兆なるか、芽を噴枝を出して盛長し、今にエナヲ柳とて有。其後安政三辰年、箱館在の者四人(中ノ郷源兵衛、千代田才兵衛、一本木新兵衛、庚申堂儀兵衛)官に乞ふて、今は車馬も通ずる道と成りし也。」
「蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
②山越内領(静狩〜礼文華新道)
「賤苅〔静狩〕休所より岩角九折まで桟道を行や(右高山、左谷)、賤苅〔静狩〕峠、爰よりヲシヤマンベ〔長万部〕濱一面に見へ風景よろし。〜中略〜(筆者註:礼文華の)番屋元へ出る。此山には往古より土人の道形少有しを、文化ど、當所詰合の者切開、今は馬足も立様に成たり(従ニしつかり_三り廿丁)。」
「蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
※ここは往古土人の道があったが、場所の番人が改めて馬が通れる様に開拓。
③虻田領(稲作開始と牧場開設)
「其山に靠て土人の畑多く連り、また近比石橋某君の世話にて、詰合前田・落合の両人新田を開かれしが、南受にてよく熟りし也。是此地稲作の始也。」
「下に牧士長屋。此牧は(富川牧、平野牧、岡山牧、豊澤牧)文化二巳の年、戸川筑前守〔安論〕、様原新助・福井千馬助・河間彦八郎等と議て江戸より父馬を下し、始め給ふ。今莫太〔大〕の数に成たり。又出稼人家も追々増繁昌に長屋也。」
「蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
※水田は場所役人2名、牧場は武士により開拓。
④幌泉領(北海道養蚕の起原)
「この邊にて桑を多く見る。此事哉、當所詰合鈴木三左衛門と云雇足軽に話したれば、翌年蠶養をなせしが頗るよく出来たり。毎々蠶養は魚獵や等の臭氣ある處にては出来難き由申せ共、此地にて能出来たるにて考ふれば、其土地の仕癖になる物かと思はる。是蝦夷地にて蠶養をなせし起原なり。」
「蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
※養蚕は桑がある事から松浦が場所番人に提案し成功(請負人は苦言していた模様)。
⑤太田領(太田山道の一部)
「此所ヲハナ〔尾花〕岬と對し一灣をなす。爰に小道を建、参詣者の籠堂とす。内を伺ふや、ヒトリの僧有、備前の産にて宗健〔儉〕(真言宗)と云よし。三四年住て頗る土地の事に委敷ゆえ、新道の事を談るに、左候はゞ我が見込を以て開度よし言いが、其事を官に伺もせでニベシナイより切上、此所へ切下げしが、其功を妬みて小吏に追はれ、箱館に出来り、審に又其事を訴しが、鎮將深く是を憐愍玉ひ、其功を賞して再住致させられける。」
「蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
※一部は真言宗の僧が開拓(元々函館奉行所が開拓を全国に募った)。
⑥岩内領(雷電山新道)
「此雷電山のことを憂給ひしが、終に不レ年して馬足を通る地と成に及ぶ。鎮將(筆者註:箱館奉行の事)の功勲實に萬世不朽の業、誰か仰かざらん。」
「蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
※この新道開拓は箱館奉行の功績。
⑦厚田領(厚田〜毘砂別の山道)
「此山道、厚田より此方三山道の打ち、切方第一にして、不日に馬足も立様になるべし。是は岩内出稼人柳川善蔵・番人茂吉・乙名シカノスケと三人にて踏試みしと。其功實に不レ少。」
「蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
※この新道は出稼人、場所番人、土人乙名の三人が開拓。
⑧厚田領(厚田〜浜益の山道)
「以て濱益毛は〜中略〜暮秋より仲春迄は離島に在る如し。故早々此山道を可レ開との事にて、増毛場所支配人黒澤や直右衛門思を起し、松前領及部村作右衛門・幾次郎其筋を見立、出稼孫三郎・興助、外土人乙名シカノスケ・脇乙名シヨウカタ・平土人アワサシ・増毛乙名トンケシロ等、堅雪中其筋に目印して、安政丁巳〔四年〕五月十八日鉞を入、閏月〔閏五月〕より六月十三日迄、出稼人帰るを不レ残頼み入、切開き候事、一方ならざるの功業なり。」
「蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
※増毛支配人の発起で、松前の者、厚田の乙名ら、増毛の乙名らで開拓を始め、出稼人に残ってもらい切開を続け開拓。
因みに黒澤屋直右衛門は、完成から3年待たず死去。
もう、この辺で良いだろう。
各種東西事業を列記した。
幕府役人(近藤重蔵や最上徳内)、函館奉行、場所支配人、番人、乙名を始めた土人、出稼人達、移住者…
松浦武四郎はその功労者を列挙している。
これは、そんな人々の名が記された所「だけ」を引用している。
名もなき新道切開やらは敢えて引用していない「だけ」。
又、木材や鉱山の話にも触れていない。
まだまだ記載されている事はある。
身銭を切る者、折角成功したのに疎まれる者、功績を妬まれた者、事業を見届け直ぐに亡くなった者、様々ではないか?
その当時、その場に居て関わる官民の総力を上げて、皆の利便性を上げる為に汗水垂らし成功させている。
新道や山道の開拓理由は種々あった様だ。
・出稼をスムーズにさせる事。
・馬や材木の流通をさせる事。
・難所や陸の孤島を解消させる事。
・増毛や留萌では蝦夷衆への撫育として、食料を送り届ける事…etc…
北海道開拓は明治政府や開拓使の功績?
それ以前から、総力戦だったのだ。
物流をスムーズにし、各場所等がもっと富める様に考えて実行していた。
上記の通り、それは身分や出自なぞ松浦は気になぞしていない。
主に動いた者の功績として紹介している。
明治政府の功績…
これに全てをもっていったのは、明治政府のプロパガンダであろう。
また、蝦夷衆も積極的に一緒に動いている。
厚田乙名のシカノスケなぞ良い例だろう。
これで、開拓が「施政者の横暴」?…馬鹿を言うな。
場所支配人は極悪非道?
蝦夷衆と一緒に開拓へ邁進した者も居るが。
背景を調べる必要があるとはこう言う事だ。
一事が万事ではない、万事が一事でもない…
森を見て木を見ず、木を見て森を見ず…
我々は正直に言えば、明治政府の功績「だけ」を称える様な話は反対なのだ。
勿論、その功績が小さいハズもない。
だが、実際にはこんな名も無き人々の総力で、今の北海道があるのは間違い無い。
称えるなら、こんな人々をも共に称えるべきだろう。
松浦武四郎は、明治政府成立前のそんな人々をも記している。
北海道を開拓したのは誰か?
これを見る限りでは時代時代の人々の「総力戦」…
そうとしか言えないと思うが。
そしてそれには明治で「旧土人」とされた人々もちゃんと参加している。
参考文献: