時系列上の矛盾…秋田「宮崎遺跡」に見える、北海道「北大式土器集団」と東北「土師器集団」の交流痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/22/192105
発掘調査報告書を紐解く「時系列上の矛盾」…
たまに北海道以外の報告書も参加させてやろう。
秋田県由利本荘市西目町
由利本荘市の南、にかほ市に隣接する地域。
ここに、古代北海道の痕跡がある。
では、引用してみよう。

「付近一帯は昭和初期の村道改築工事のための土取りや畑地造成、また昭和39年に発生した新潟地震の際に発生した鉄道線路の復旧工事の土取り等で遺跡の6~7割は無調査のまま消滅してしまっている。」

「SI02竪穴住居跡(第5図・図番2) 北壁は畑によって削平され、南壁は約5.5m遺存するが、東部はSI03竪穴住居跡によって切りとられているため全容は不明である。」
「10~15は北大式土器である。口縁部から頸部にかけて数条の横走、縦走する微隆起線文を配し、2条に1個の割合で突瘤文を施す。突瘤は内面を指頭で押さえて刺突するためボタン状を呈する。頸部から胴部にかけては、斜め方向の縄文をを施文した後に微隆起線文を作り出す。内面は口縁部から横方向の密なカキ目が施される。全て同一個体と考えられるが、接合不能なため全体の器形については不明である。」

秋田県内において北大式土器の報告がなされた例は、大館市舘コ遺跡がある。」
「同遺跡からは、6点の後北式土器と共に9点の北大式と考えられる土器が出土しているが、いずれも小片であることから断定されるに至っていない。」
「外面における口縁部の縦走する微隆起線文と頸部から胴部にかけての斜め方向の縄文と横・縦走の微隆起線文という文様構成は大筋においては青森浜尻屋遺跡、同大間貝塚北海道大学構内遺跡、吉井の沢遺跡に類似するものである。これらのことから本遺跡出土の北大式土器は、北大Ⅰ式併行と考えらる。」

「ところで、内面における器面調整は、きめ細かいカキ目を横、斜め方向に施すものであるが、北海道内においては、北大式土器にカキ目が施された例は未確認とされている。しかし、宮城県木戸脇裏遺跡の北大式土器の中には、「裏にかすかな擦痕が認められる」という報告例もある。従来の北大式初期において、内面の調整技法にカキ目を導入した事実がないものとすれば、本遺跡の土器については土師器集団、あるいは本州に渡った北大式土器集団が土師器の技法を取り入れて製作した北大式類似の土器ということで、「北大式系土師」と呼称するのが妥当かも知れない。」

「北大式の年代については、多くの先学によって研究がなされてきたところであるが、大きくは初源を5世紀~6世紀と見る見解と7世紀~8世紀とする両者があるように見受けられる。本遺跡の北大式土器は、その文様構成から北大Ⅰ式併行と考えられるし、また同遺跡から出土した土師器についても前述の如く、共伴関係と見ることが可能である。すなわち土師器等から5世紀~6世紀前半の年代を与えることができよう。」
「北大式土器を古く見る見解を否定的に考える大きな障害は、これまで北海道において5世紀~6世紀と考えられる搬入品がほとんど出土しないところにあった。しかし官見によれば、滝川市において古式土師器と考えられる器台、杯形土器が出土し、また北大構内遺跡でも所謂南小泉式の土師器杯形土器と北大式土器が共伴した例が報告されている。おそらく搬入品土師器の絶対数は少ないと考えられるが、これらの出土例は本遺跡例も含めて5世紀~6世紀における土師器と北大式との交流を物語るものと言えよう」


「宮崎遺跡 発掘調査報告書」 西目町教育委員会 昭和62年10月 より引用…


北大式土器に関しては、北海道教育庁、北海道大学埋蔵文化財調査室らへ問い合わせを入れた模様。
このSI02竪穴住居跡は、覆土が10cm程度まで削られ、明確にここで使われたとは断定には至らず。
だが、かなり集中しており同じ様に出土した土師器とほぼ同時代にここにあったであろう事が推定されている。

北大式土器を5~6世紀と見るか?7~8世紀と見るか?この時期はまだもめていた様だが、逆パターンで本州に北大式土器が出土すれば、ある程度過程を当て嵌める事も可能。
と言うか、これ、7~8世紀説にトドメを刺した感。
当然である。6世紀中葉には秋田城が出来る。
土師器どころか須恵器が出なければ辻褄が合わなくなるのだ。
正直に言えば、この辺まだ、時代が下る方向に見ている感は、昨今こうして「時系列の矛盾」シリーズをやってみて感じる事だ。
この点、土器編年経過までは我々も掘り下げられていないので、漠然とした感覚なのだが、擦文土器の始まりと終焉は、時代が下るのではないか?とふと思う事はある。

ところで、引用中にもあるが、内面のカキ目がこの段階で北海道では無いと言う。
つまり、北海道へ渡った土師器集団、又は、本州に渡った北大式土器集団が土師器技法を使って作った「可能性」を示唆し、「北大式系土器」が妥当か…ともしている。
少なくとも、これら痕跡より、技術交流を含む、人の移動が行われていた事が示された遺跡だと言うのは確かなのだろう。
そして、この技術交流が、擦文土器誕生へ進化していく訳だ。
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弥生系土器の痕跡、井戸の出現、本州に来て擦文系土器を作った人々、そして擦文土器がどのように成立していくか?等、北海道と東北の繋がりを示す論が強くなっていく。
北海道の歴史が、全く単独で成り立っていくなど、有り得ない結果が強くなっていく。
つまり、5~6世紀でも、北海道と東北は繋がっている。

重要なのでもう一度…
「北海道と東北は繋がっている」



参考文献:
「宮崎遺跡 発掘調査報告書」 西目町教育委員会 昭和62年10月