「最上徳内」は北海道をどう描いたか?…「蝦夷草紙」を読んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/07/211949

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327

松浦武四郎に続けてみよう。

今回取り上げるのは「最上徳内」の「蝦夷草紙」。

最上徳内は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/22/224121

一度取り上げた事がある。

上司である近藤重蔵と共に択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てた人物、幕府役人やまた個人として九度も北海道や樺太や千島,カムチャツカ近く迄探検した人物、かのシーボルトにして「日本随一の老探検家」と言わしめた人物…後には、北方問題のエキスパートと言われる。

この人物、山形県村山市の農家の長男。

学問に目覚め、その交友の中で蝦夷地探索を志し、後に幕府役人として活躍した。

松浦武四郎は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/03/193625

この様に、近藤重蔵最上徳内の報告書を熟読し、その内容を紹介しつつ自分の見聞したものを追加し記述したりしている。

最上徳内が幕府役人として北海道へ行ったのは幕府直轄領化前の1785年、松浦武四郎は一度松前藩管轄となっていた1844年(第二次直轄化が1855年)で、この差約60年。

松浦武四郎の感覚には、「昔と今はどう違う?」的な部分は入っている。

二人の間には、一次直轄→松前藩という、政治的な大変革がある事を踏まえる必要があるだろう。

もう一点、最上徳内が探索した時代は既に場所請負制が始まり、所々に松前藩知行主の名がある時代背景だと言う事も忘れてはいけない。

では、いきなり「自写本」の

自序から引用してみよう。

当時最上徳内近藤重蔵、そして幕閣達がどう北海道や地の人々を見ていたか?を記す部分がある。

 

「夫れ按ずるに、或は蝦夷、或は蝦狄、或は荒夷、或は蝦賊、或は夷俘、或は蝦虜、或は俘夷、或は蛮夷、或は荒狄、或は夷虜、或は又東夷といひ、陸奥・越後の蝦夷といひ、津軽の俘といひ、渡嶋蝦狄といひ、何れも皆恵美寿の称号にして、其根元は倭人の種なり。蝦夷といヘバ、人種別のよふに思ふは誤れり。唯王化に染ミず、奸佞にして法を犯し、文の道を知らず、野心なるを名付て恵美寿とはいふなり。 唐土人は北俊・毛人・毛民抔と称するものにして、則今の南部・津軽・秋田等なり。 開け来りて良民となれり。爰に松前志摩守領する所の蝦夷は、往古所謂渡嶋蝦夷なり。田桑を教へ、風を移し、俗を易へれば、我朝の人に異なる事なし。終に良民となるべし。天稟の別なる者ハ、蝦夷地東北の奥に赤人と唄う異国人あり。是魯斉亜(筆者註:魯斉亜→ヲロシイヤのルビ)といふ国の人にて、毛髪は茶色に、眼の玉は薄黒く、骨柄は高し。是は松前にて赤蝦夷と唱ふなり。又蝦夷地西北の奥にサンタン〔山丹、山靼〕といふ国あり。此国の人は天性は蝦夷と別種なれども、骨柄はあたか恰も蝦夷人に似て、流俗は大に異なり、唐土の人所謂粛慎・挹裏の類ひなるもの歟。此三国の風土を記し、三巻となして、蝦夷草紙と名づくとしかいふ。

寛政二年九月中旬」

 

蝦夷草紙」  最上徳内/吉田常吉  時事通信社  昭和63.9.25  より引用…

 

まずは①…

地理観。

最上徳内は赤蝦夷風説考を読んでいる様だ。

彼や近藤重蔵らの考える異国とは、赤蝦夷の住む領域であるカムチャツカ、山丹人の住む大陸の様だ。

つまり、蝦夷の住む地である千島と樺太は「我朝」と言っている。

最上徳内はそれどころか、カムチャツカや(伝説の)金銀島(があれば)、それも本来は我が国だと書いている。

 

次に②…

人々について。

元々の人種は日本人だと。

松前領、ここでは北海道本島の意味だろうが、ここに居た者が渡嶋蝦夷だと言っている。

その上で、統制に従っていない者達…と言う主旨か?

この辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/27/205924

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158

吉田菊太郎翁や荒井源次郎氏、金田一京助博士らに近い歴史観なのだろう。

この辺は我々の史観と一致はしないが。

多額の資金投入して政策実行するのだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552

優遇政策位は行うだろう。

更に、同化政策で農業らを教え、風俗を整え、法に従う事を熟知するなら、本州人と何ら変わりはしないと言っている訳だ。

「本州人と変わらなくなる」これは数回登場する。

解説の中で訳者は、これは「最上徳内の地の人々の愛」と言っている。

この辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/01/223305

イザベラ・バードもだが、その純朴さ故に、付き合いが深くなれば情が移ってしまう…そんな人々だったのだろうか。

最上徳内は、山丹人との交易で支払い出来ず奴隷的に連れ去られた人々を「たとえ数万両掛かろうとも取り戻したい」と書き、同化成功し服従した暁には「高代まで日本の宝となる」と言う主旨でこの自写本を締めくくる。

これはある意味、実現している。

奴隷らとして連れ去られた人々は幕府が費用を出し、借金をチャラにして取り戻し、明治になり教育政策が展開され、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440

成績が本州人とほぼ変わらない事は証明された。

吉田菊太郎翁はそれを誇らしげに語る。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

つか、普通に筆者の先祖たる東北人と行き来していて、特別な優劣なぞあるハズもないと思うが。

以前も書いたが、筆者的には「隣のちょっと変わったオッサン,オバチャン」としか思っていないので、正直言えばなんで特別なもんと扱うのか?…これすら全く理解不能なのだ。

まぁ感覚的には、道端で会えば「久しぶりだな、元気してたか?」と挨拶する古い同級生か遠い親戚程度のものだろう。

だから、広報される観光用文化には全く興味がないし、北海道の資料館を見ても似たような物を見るので何の感慨も起きない。

これが本音である。

 

まぁ先に進む。

③として「地境の事」…

皆さんが興味あるのはこんな事典はないだろうか?

 

松前蝦夷一躰の地方を考るに、親疎の二儀あり。松前土民住居する所を、俗に名付てシヤモの国といふ。蝦夷人住居する所を、俗に名付てアイノの国といふ。又近き蝦夷地をロ蝦夷 といふ。遠き蝦夷地を奥蝦夷といふ。口蝦夷と奥蝦夷とには境界もなく、唯遠近の異名のみなり。親の形は、瓢箪の側なる物にして、ロ蝦夷と奥蝦夷とを弁ずべし。口蝦夷と奥蝦夷とを弁ず〔る脱〕には、瓢箪の中くびれたる形の所に、シコツ越へといふ通路あり。是より上級の方を口蝦夷と、下級の方を奥蝦夷といふ。 シコツ越への道を境とするに非らず。 大凡の総名なり。又帯に当る所は松前に当り、臍の所はウラヤンベツニ当なり。又疎の形は扇子の半に開たるものにして、アイノの国とシャモの国を弁ずべし。アイノの国とシャモの国とを弁ずるには、扇子の要の所は松前に当り、骨の通りハシヤモの国也。 地紙の通りハアイノの国也。右の角はメナシ〔目梨〕、左の角はソウヤ〔宗谷〕に当る。二形ともに図する所を以見つべし。西の方を西蝦夷と云、亦上蝦夷ともいふ。東の方を東蝦夷と云、又下蝦夷ともいふなり。 国中声を上と、東を下と云也。」

 

蝦夷草紙」  最上徳内/吉田常吉  時事通信社  昭和63.9.25  より引用…

 

イマイチ何を言いたいのか?解り難いので全文引用してみた。

ここに来てやっと「アイノ」という単語が登場する。

今迄読んだ新井白石の「蝦夷志」、工藤平助「 赤蝦夷風説考」、林子平「三国通覧図説」には登場せず、片鱗が見えるのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/22/203708

ポルトガル人地理学者が聞いた「ainomoxiri」。

これは、アンジェリス神父も地図上で記載しているのみで、本文中は「yezo」で通している。

なので、この単語を誰が記述し始めたのか?その時どんな意味合いを持って使ったのか?は大いに興味あるところ。

まだこの「蝦夷草紙」と「赤蝦夷風説考,三国通覧図説」の間は読んでいないが、ここで始めて見た訳だ。

さて、この使い方はどうか?

素直に読めば、

1,yezoの人々が住む地理的領域を指す

2,本州系を指す「シヤモ」に対して、土着民「アイノ」を示す対義語

ではないだろうか?

よく聞く「神たるカムィの対義語」とは読めなそうな…

この辺は、途中の古文の使われ方を探る必要があるだろう。

これむしろ、「我々」的な且つチリな使い方をしてるのではないだろうか?と、筆者には感じるのだが…。

因みに津軽弁で「自分」の事を指すのは「わ」「わー」。

まぁ良い。

幕末〜明治の絵図に記述されるのは確かだが、まずは「蝦夷草紙」迄は遡れたし、何となくイグナシオ・モレイラの使い方と似ている感じが解れば「良し」。

後は宿題。

 

④として、習俗と生業。

松前所在嶋は周回八百里程あり。耕作の道なき国なれば、産物の有無に依て、所々家臣に封じ置しものなり。故に領主の領する場所もあり、家臣の領する場所もあり、或は五六拾里、或は七八拾里、諸所に相交りあるなり。何れも皆海辺にて、各其場所に松前の町人ども行きて、交易するなり。是を蝦夷介抱といふ。 実は介抱にあらず、利潤の為に行くなり。先づ商人ども集り、其場所の地頭へ出て、蝦夷人介抱いたす請負の入札をいたし、運上金の高を以て其場所を相渡すなり。 請負ふたる商人、俄に通辞・支配人・番人等を雇ひ、其場所に遣し、米・酒・木綿・小間物の類ひを船にて其場所に積送る。通辞・支配人・番人ども、其処の産物、魚油・干魚類ひと交易いたして、船に積入れて松 前の請負人方に運送す。請負人其魚油・干魚類ひ水揚して、諸国の商船入津を待って、 米・酒・たばこ、其外諸色の品と交易して、是を家業とするなり。其通辞・支配人・番人どもの仮住居する小屋を運上屋と唄ふなり。」

蝦夷国地へ都穀物の種を渡す事停止なり。故に蝦夷人は耕作の道を知らず。 田畑は一歩たりとも決してなき事なり。殊に蝦夷人は元来野菜物を好マざるものにて、蕪・大根・茄子・角豆の類ひ一切なし。款冬(筆者註:フキのルビ有)・牛房〔蒡〕は自然に生ずれども、蝦夷人一向食せず。 只魚肉・獣肉を食物とす。 其外草の根に食すもの、二三種あるのミなり。」

蝦夷人の食事は椀壱つにて、膳を用へず。 汁菜の類ひ食せず。 味噌・塩・醤油の類ひもなし。故に魚肉・獣肉・草の根、都て真水にて煎て食す。或ハ又海水を少し用へて塩梅をする事もあり。又食事をするに、時も定まらず、昼夜に限らず、好ミに随ひ食す。食物 の有る時は、終日終夜食し、食物無き時は、二三日も食せざる事あり。然れども敢て食を欲せず。」

 

蝦夷草紙」  最上徳内/吉田常吉  時事通信社  昭和63.9.25  より引用…

 

凡例より引用した。

上記より既に「藩士による知行制」「場所請負制」は始まっており、高い運上金を払う事で知行主から場所請負の権利を得て、雇われたスタッフを運上屋に常駐させ経営。

周辺の土着の人々に魚や産物を納品させ、米や酒、木綿や小間物と交換し、船に積み込み松前で外部商人へ引き渡して売上を得ている。

管理すべき士族はおらず、常駐のスタッフのみ、松前土着の者も濫りに請負場所へ行く事は停止されているとある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415

この辺は新北海道史や松浦武四郎の「蝦夷日誌」でも学んでいる。

請負人に丸投げし無管理状態にし、好き勝手を許したシステムの不味さ。

所謂「請負人の横暴」の時代だ。

だが、ちょっと待った。

先述の通り、最上徳内の探検,報告と松浦武四郎の時期には約60年タイムラグがあり、最上徳内が見た蝦夷地側は幕府直轄前の悲惨な状況、松浦武四郎が見た蝦夷地側は松前が再統治〜二次直轄,東北諸藩統治である程度解消された状況。

実は、本書にも幕府直轄化段階で乙名らからの要望で、評判悪い場所請負制→直捌制へ改められたとある。

勿論、警備目的で士族の常駐は始まり、現地スタッフがやりたい放題出来る状況には無くなった訳だ。

後に場所請負制は復活するが、それは箱館奉行,諸藩役人らが管理した状況での事。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/18/210005

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847

これが一次文書である「加賀家文書」での統治システム。

三役から申出されたら最後、請負人は解任され、それこそ江戸や各藩縁の商人に首を挿げ替えれば、懐は更に肥える訳だ。

新北海道史でも同様、久保田藩士の日記らでもトラブルの話は殆ど無く、松浦武四郎もヤバそうな行為は知り合いでもある箱館奉行に報告して改善させたりしている。

この辺が我々グループが述べる「時空のシャッフル」「時代の圧縮」だ。

不正が百%無い藩なぞ有りはしないし、システム改善される前の事を何度も使い回す手口と言わざるを得ない。

先に進み、上記から生業は狩猟や漁労になる。

農業をやるどころか、ほぼ野菜らを好んで食べないとある。

これで壊血病らビタミン不足が解消可能なのか?

因みに、最上徳内間宮林蔵樺太では海藻を大量に食べてそれらを克服していた記述はある。

まぁ、交換した米が玄米なら、ある程度代替可能ではあろうが。

聞いた話では、獣や魚の脂での調味はやったらしいが。

この段階での「オハウ」は、魚介の出汁のみの味しかしない事に。

また、暦や時計の概念が無く、食べたい時に食べ、無ければ食べない様な食生活。

何時の時代まで、何処まで再現するかは別だが、この時代迄遡り再現させたなら恐らく現代人なら体調を崩すのではないか?

農業をやらぬ理由は、種そのものを配布しなかったからとある。

これも文字ら同様で、本書内で最上徳内は農業なら実績が出るまで三年は必要としている。

場所請負人にすれば、莫大な運上金を支払い、現地の人々が食べようともしない野菜を作らせるより、漁労に集中させた方が実入りが増えるし、慣れない事をやらせる必要もない訳だ。

勿論、そこは東北人たる最上徳内

ぶっちゃけ、漁労は漁労、畑仕事は畑仕事と掛け持ち奨励の上で、やる気の有る者に文字を教えたり、農業を教えたりしている。

ある意味、やる気の無い者にしてみればたまったもんじゃないだろう。

最上徳内は道南の農業にしても、東北人で土着した者すら、成功に届かぬ者は焼畑農業を始めたりする者が居た事迄記載し嘆いている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

土地がこれなら、簡単に立ち上がるとも考え難い。

松浦武四郎が畑跡を連発していたのも頷ける。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848

松前でも稲作は試したとある。

が、成功出来ずそれ以上の追求は止め、種籾支給を止めたともある。

そんな事情も加味するべきだろう。

但し、各種情報を持つ最上徳内、東欧が穀倉地帯になっているのは既に知っていた。

北緯が同等以下の北海道で出来ない訳はないと考えており、それが出来ないのは先立って進めるリーダーが居ないからと迄言及している。

まぁそんな話があるので、最上徳内松前藩から危険人物視され、当初道内に入る事を禁止されたりしている。

この辺を多視点で見ると、それぞれ言い分はあり、そこそこ納得出来る。

尚、ラッコ皮や外部からの特別な搬入品は、宗谷,厚岸,国後の三場所に限定され、そこには上乗と言われる役人が年一度船で来るとしている。

それが外来品が献上されるタイミングである様だ。

 

では、⑤として居住と周囲の状況…

 

蝦夷地中、都て(筆者註:すべて)浜辺通りは蝦夷人住居すれども、地中に至りては、蝦夷人住居一向なし。此故に開闢以来、未だ人の足を踏ざる深山幽谷の多し。」

蝦夷国中に造りたる道なき国なり。得手勝手に通り、自然に出たる道路もあり。蝦夷人は跣にて通行するものなれば、道形狭く、僅五六寸計にて、草鞋を履きては通り得ずし〔て脱〕、多分は砂浜を往来する也。」

蝦夷国中の村といふものは、纔五六軒位あり。適には拾軒余も有る所は稀なり。」

蝦夷人の住所住宅ありといへども、急度定りたる事なし。春夏秋冬によりて、其時の猟事ある所にて仮住居して年月を送れバ、住居定らざるが如し。家作ハ杈ある木を建て、柱となし、桁を掛け、梁を渡さずして、杈首をあげ、芦茅にて葺き、壁は塗らずして、芦茅を掻き付、一両人にて出精いたせば、終日の内にも出来あがるべき躰の家なり。」

蝦夷人風俗は、貢物なき国なれば、租税を出す心配りもいらず。金銭通用せざれば、金銀を儲け貯ゆる貪欲も起らず。野菜を喰ハざるものなれば、圓土を耕す骨折もなし。織工の道なき故、模様合〔恰〕好の望もなし。魚類沢山にある国なれば、晨(筆者註:あした)の食物なきにも構ハず。盗賊・火災の愁もなし。故に明る日も明る日も、悠々緩々として逍遙の楽をなして日をくらし、麁食麁服にして、敢て厭ハず、至て直にして愚なる者なり。」

 

蝦夷草紙」  最上徳内/吉田常吉  時事通信社  昭和63.9.25  より引用…

 

概ねの所なので、また凡例より。

・居住区は海岸限定で山中には無く、道路も作ってはいない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/03/193625

同行した近藤重蔵が開削道の最初だし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327

60年後の松浦武四郎の時代ではこれ。

必要に駆られれば、役人,請負場所側,地の住民らが協力して開削道を通す姿を松浦武四郎は満足気に見て記述している。

・村と言っても5~6軒、十軒位は稀。つまり、この時代は我々がイメージする古潭などと言う規模の「村」は無かったとし、その理由は、季節毎に狩猟や漁労に合わせて移動していたから、としている。

萱野茂氏が、このチセ再現過程で、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902

所謂チセ以外の狩猟用仮小屋を幾つか紹介しているが、現実的にはその中でも住居的なタイプが主流だったのかも知れない。

特段贅沢はせず、季節や旬も気にせず(暦の概念が無い)、食べたい時に周囲から獣や魚を狩り食べる…こんな生活だ。

持ち歩くものも、火打ち道具、菅のどうらん、弓矢、キセルと煙草入れのみ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/04/224207

これが林子平の三国通覧図説。

純然と3階層位に分かれている。

財産的最下層の人々は、その日暮しに近い生活をしていた事になり、逆に財産的上級層は請負場所との関係を密接にして交換で品々を得ていた事になる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/07/133243

人集めは三役の中の小使の役目。

こんな最貧層も、場所と言う「雇用の場」に連れて行けば、贅沢品も手に入れられる様になり、それは少しずつエスカレートしていくのは概報。

地方史書の記述とも合致し、食料→贅沢品と欲しい物も変化したのは理解出来る。

 

さて、如何であろうか?

これが最上徳内が訪道した初期の姿。

この姿から目に見えて開発が進んでいるので、所々にある松浦武四郎の喜ぶ姿は納得である。

何せ、統治システム迄変化し、ロシア南下への対応で社会背景が変わる約60年。

全く何も変わらぬハズがないのでは?

そんな風に、時代変遷に合わせて古文を並べて様子を比較するだけでも、見え方は丸っ切り変わると思うのだが…不思議と「時空のシャッフル」「時代の圧縮」に引っ掛かっている方は多く感じるのは、我々だけであろうか?

その辺が理解不能

これら古文の読み直しも、随時進めて行く。

 

 

 

 

参考文献:

蝦夷草紙」  最上徳内/吉田常吉  時事通信社  昭和63.9.25