https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/04/194346
久々に「消えた宗教施設」…これに繋げてみよう。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005
先の北海道での「羽黒権現堂」を含む一節。
実はこれらを学ぶ過程でSNSで気になる事を見ていた。
https://twitter.com/porun778/status/1663566352538570754?t=xhDAxPfhb2hf41kRHWaKyQ&s=19
@porun778ぽるん様
よりお借りした。
感謝致します🙇
「北海道地方神社資料」によると…
『永正九年
夷賊蜂起、この爭亂に既設社寺等多数災禍を蒙りて癈絶せり。
箱舘砦主河野一族の者、舘神八幡宮(現、函舘八幡宮)を赤川村に奉還。
註1 此島二百餘年以前は、東西四十里の間に軒をならべしか、寺社多くありしを、長祿、永正の亂に癈絶して、十が一つ殘りしなり。
註2 殊に蝦夷に城を陷られて、この地に日本人の影を絶つた頃には八幡宮も赤川村におうちりになつて百年あまりお過ごしになつたことがあります。
註3 赤川村− 龜田郡龜田村大字赤川村
註4 舘神
本道の初期和人時代に於いては、安東氏一族の武士、或いは豪族は、要地に舘と呼ぶ砦を構えて之に?り、附近の住民及び産物を管してゐたが、舘神といふのは、その館内に祀られた社で、本道神社分布史上の一特點とも謂う可き特殊な發生を示している神社である。(以下省略)』
との事。
確かに「新羅之記録」「福山秘府」を中心に書かれた「松前町史」でも永正十年(1513年)の相原秀胤戦死らで混乱していた事は記載される。
その辺は
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005
それら古文に記録ない大殿の出陣あわせて、混乱収集と蠣崎氏の身分確定がされた頃に重なる。
何らかの事件はあったであろう。
ここで、2つのポイント…
・それら争乱以前には多数の寺社があり、それが争乱で減り荒廃していった…
・安東一族や従属する土豪は館の中に「館神」を祀っており、それが特徴…
「館神」については、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651
北東北の中世城館の傾向と何ら変わりがなく、まんまである。
所謂「チャシ」が、北東北の中世城館と同質だと仮定すれば、それはまんま設備全体で「館と宗教施設の両方の機能を持つ」で説明可能。
ましてや、安東一族,従属の土豪の特徴たれば、同じ土木技術で施工された事になり、似通うのも当然。
ならば「チャシ」とはなんぞや?
ならば、その辺を垣間見る事は出来ないか?
では本題である。
これは「華徳山 上国寺」の石垣。
松前町史では、コシャマインの乱鎮圧後に武田信広の勧進で開山され、函館にあった「阿吽寺」が大館に移る迄の1469~1512年に蠣崎氏の祈祷所だったとある。
実は、上国寺のこの石垣、平成5年の北海道南西沖地震と平成7年の集中豪雨で写真の様に一部崩落し、平成8年に修復工事を行った。その折、石垣周辺を発掘調査している。
まずは、これを確認してみよう。
発掘で解った事は、
①トレンチを切り、石垣基底部分を確認した限り、石垣は渡島大島火山灰Os-a(1741年降灰)へ更に盛土して積み上げられており、且つトレンチより19世紀の波佐見の徳利片が検出。よってそれ以後に施工されたもの。
②現在の本堂は宝暦8(1758)年に建立された事が本堂改修時に内陣天井に墨書されている事が確認されている。
③よって①②より、本堂建立の折に盛土の上、石垣を施した可能性が高い。
④石垣の盛土の中に柱穴を2箇所検出。判然としないが、Os-a層の下から検出された為に位置関係的に、それより古いものと考えられる。柱穴痕は一辺約13cmで、勝山館跡らとほぼ同じ。
⑤遺物は陶磁器片223点等。
概ね19世紀のものだが、
一点だけ美濃灰釉椀(大窯Ⅰ)の胴部分が出土。これは近在の重文「旧笹浪家住宅」でも検出され、中世遺物と考えられている。
但し、ハッキリとした層序は確認出来ず。
概ねこの様な結果が記載される。
松前町史では嘉吉3(1443)年説としているが、現状各種古書で開山説は主に三説あるそうだ。
①嘉吉3(1443)年説
先の内陣天井墨書らにあり。
どうやら安東盛季島渡りに由来か。
②永禄3(1560)年説
近藤重蔵らと同行した田草川傳次郎が記す「西蝦夷日記」の記述。
関連項に書いたが、安東氏内での蠣崎氏の身分確定の時期と一致しそうな感。
③寛永20(1643)年説
福山秘府らの記述。但し、改修された時の記載との指摘あり。
過去帳(明治に書換?)によると、開山から九世住職(1674年没)迄真言宗で、十世住職から浄土宗に改宗とされる。
と、未だ確定を見ていないとある。
少なくとも、現状の中世遺物では1400年代迄遡るのは難しい様だ。
幾分可能性があるとすれば②だろうが、移転の可能性もある。
現状は判然としないと言わざるを得ない。
なら、別の寺社から傾向は見れないのか?
たまたま入手出来た「正覚院史」をみてみよう。
これは、改築が本寺法幢寺の開創370年等にあたるのもあり、寺史として発行されたもの。
まずは同書での北海道への仏法伝来は?
ここではハッキリしないとしながら、日蓮上人高弟の「日持」の渡道(1296年)を挙げている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/28/165103
この話、一度触れた事がある。
ここにも疑問があるのだ。
法華寺のご住職と談義させて戴いた折、何故日持は東北での布教をしなかったのか?…置いといて…
後に渡党の渡道(ここでは鎌倉幕府からの流刑者を主に指す)に当たり、政争を進める中で政治顧問的に修験者を随従させたとする。
例えば(後代)…
安東盛季→道明法師
館造営時に堂宇を築き、そこを祈祷所とした…これが先にでた「館神」で、随従の修験者は別当となったとある。
この秀世阿闍梨が勝山館の鎮護寺として嘉吉3(1443)年、華徳山上国寺(正覚院史では浄国寺と記述)を開いたとしている。
また、それに先駆け嘉吉元(1441)年に泊村の泊館の鎮護寺として白性山観音寺が旭威法印により開かれる。
先にも書いたが、政治主導での移入で密教系が主流としており、鎌倉仏教はまだの様で。
では、正覚院の歴史は?
これは段階をおいて説明がある。
①曹洞宗の伝来…
②正覚院の本寺の創建…
松前藩の菩提寺である大洞山法幢寺だが、ハッキリしないとある。
福山秘府では、法幢寺の本寺を秋田の五城目町にある円通寺としているがハッキリとした創建年月日の記述が無く、永正9(1512)~永正10(1513)年の所謂「大館大乱」で断絶したとされる。
これを蠣崎光広がこれを鎮め道南の実権を掌握し、この期に上ノ国→大館へ移転の上で徳山城を築き、光広の孫の蠣崎季広が天文15(1546)年に若狭の宗源和尚により再興し、以後蠣崎(松前)氏菩提寺を法源寺→法幢寺と移す(お寺に住み主長が居なかったから?)とある。
③正覚院の創建…
元々正覚院は福山の泉龍寺内にあった(何時の創建か不明瞭)が、寛永8(1631)年に寺籍を江刺に移した上で禅道場として創建される。
これを行ったのが法幢寺三世の良天和尚。
この時はいずれの本寺にも属する事をしなかった。
だが一次荒廃し、秋田の補陀寺や先述の五城目円通寺を歴住した高僧の遺属である薫栄和尚が渡道し再興。
後に、享保年間に関三ヶ寺のお触れにより、法幢寺を本寺としその末寺として松前藩下の曹洞宗の統制下に入る…だそうだ。
さて、こんな傾向がある事にお気付きだろうか?
・盛衰が著しく、古来より残された寺伝が少ない上に改宗等で見えなくなる部分もある。
・それにより後代に纏め直される訳だが、史料的には新羅之記録や福山秘府らベースになる。
・再興らのタイミングがそれによりある程度の期間に集中している。
例えば上国寺を例にすれば、
・安東盛季の島渡りの時期…
・蠣崎氏の身分確定の時期…
・江戸初期…
こんな感じだ。
これは松前町史上でも同様…と言うか、史料が一緒なのでそんな風になるのも極当然なのだろう。
当然ながら、現代に至る直前の近世後期位からは同時代文書も残されるであろうから幾つか添付されてはいる。
だが、中世〜近世初期ではそれらが出てこない。
例えば同時代文書、この様なもの。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/02/110811
「夷嶋浄願寺」は、総本山の石山本願寺と連動し活動していたであろう事は予測可能。
これは法華宗も同様なのだろう。「日持伝承」も総本山の身延山らに記録があるので、それなりに伝承が維持されているのだろう。
ふと疑問が起きる。
鎮護の為に寺社勧進は当然かも知れないが、連発する争乱の中でそれが可能なのか?、これら部分で新羅之記録や福山秘府の文書批判を行ったら辻褄があうのか?…だ。
とは言え、寺伝や社伝として考えた場合、それはそれで構わないかとは思う。
信仰の対象を、無理やり学問側へ寄せる必要はないと考えるからだ。学問としてどうなのかは別として、これら文献らに記載ない「有珠善光寺の開山伝承」…あれはあれで良いと思う。
学問は学問として切り離し「過去の復元」を行えば良いだろうし。
むしろ「北海道地方神社資料」にある様に、往古はあちこちに寺社があり、当寺社はその中の某山の流れを組みます…これが無い方が我々的には不思議だ。
少なくとも先述の「泊館」は、蠣崎氏の主館とされる「花澤館」より北にある。
瀬棚方面へも軍を進めた話はあるので、道南十二館に限らずもっと広域に館&館神の寺社は存在したのかも知れない。
何せ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
これだ。
今迄、道南は元々安東氏や蠣崎氏らの拠点なので、優先順位は下げていた。
北東北の中世城館繋がりの延長として学んでみたに過ぎないが、少しずつこちらへも伸ばしてみようと思う。
なんでもかんでも、北方へ接続する必要もないだろう。
青森,秋田,岩手…陸奥エミシ、出羽エミシの末裔は動かずここに住み、古の北海道民と共に生きてきた。
で、陸奥エミシ,出羽エミシは土着性は高い。
自分で開墾した農地をずーっと耕し生きてきたのだから。
上記の通り、補陀寺や円通寺が寺社中興に手を貸した…何より繋がりを持っていた証左になろう。
参考文献:
「松前町史 通説編第一巻上」 松前町史編集室 1984.8.1
「上国寺 -石垣修復工事に伴う発掘調査報告書-」 華徳山上国寺 平成8.1.31
「正覚院史」 獄浄山正覚院 1997.6.20