度々登場する「辰砂」とは?2…家康公や政宗公が真に欲しかったものとは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
さて、「朱の考古学」からもう少し「辰砂=水銀」については学んでみよう。
基本的にこの著書は前項で紹介した鍍金らよりもむしろ、古墳における辰砂の使用らについて解説がさかれている。
が、たまたま辰砂や鍍金と万葉集との関連記事があるのだが、その中に興味を引く一文があったので引用しよう。

アマルガム金銀精錬法は一五五七年メキシコで鉱山技師のバルトロメー・メディナにより発見され、佐渡金山においては慶長年間に行われていたことが明らかになっている(注3)。徳川家康はメキシコ産銀額の豊富なことを知り、アマルガム金銀精錬法についてフィリピン総督ロドリゴ・ヴィヴェロとの接触の際に関心を示していたという(注4)。おそらく、日本では慶長年間にはじめてアマルガム金銀精錬法を導入したものであろう。それはヨーロッパの技術であり、万葉の時代に金銀精錬法が存在したにしても、その技術的系譜とは明らかに異なっている。以上のことから「吹く」は単にアマルガム鍍金法を示すにすぎないと思う。アマルガム鍍金は六世紀半ばには日本でも開始され、万葉集歌の枕詞として成立する史的背景は十分に持っている。」

「増補 朱の考古学」 市毛勲 雄山閣出版 昭和59.9.5 より引用…

著者は、古代からの辰砂→黄金は、鍍金レベルだと考え、量らも限定的で、1557年のメキシコでの金銀精錬法を待つまでは、大規模なアマルガム精錬は行っていないと推定している。
で、家康公はそれにかなりの興味を示していたと言う。
これも、今迄も触れてきたが、ハッキリと書いた文面はあまりなかった。

と言う訳で、サン・ファンバウティスタ号…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/105131
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/20/141907
元々、この船は伊達藩の完全単独建造ではない。
先に三浦按針が指導した洋式船の船奉行らも、家康公の意向で参加している様だ。
メキシコ迄の航海は、家康公と政宗公の共同。
で、その目的は、メキシコの銀山鉱山のノウハウ習得が重要なウエイトを占めており、この「アマルガム金銀精錬法」を含む事になる。
まぁ当時、最大最新の技術を寄越せと言うのだから、なかなか。
むしろ、家康公の興味はこの鉱山・精錬技術だと思うが、如何だろうか?

勿論、メキシコとの交渉もスペイン,バチカンでの調整も不調に終わるがゆえ、正式な形での技術移管は行われず終わる。
その割には、「南蛮吹きの話」は伝承が残る。


と言う訳で、織豊~江戸初期の話。
島根県のHP「石見銀山の歴史」…
https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/outline/outline_08.html
これによると、佐渡金山同様、石見銀山でもアマルガム金銀精錬法はテストされた記録がある様だ。
古書上は佐渡での使用が最初と考えられる。
こちらによれば、鉛を使った「灰吹法」も1533年から。
結局、バテレンや商人から何らかの形で概略の内容は聞いていたんだろう。
基礎知識と原材料は持っているので概ねの話でも再現出来たかも知れない。

更に…
鉄砲伝来からの「弾丸需要」も含め、大名達は「鉛」も欲しがった対象。
考えてもみれば、
鉄砲の弾丸は「鉛」製。
→鉄砲らを買う為に「金銀」が必要。
→金銀を得るためには「鉛」が必要。
…堂々巡り。
ここで水銀で精錬可能なら、弾丸を含む需要へ鉛を回せる事になる。
家康公,政宗公が「アマルガム金銀精錬法」を欲しがったは、こんな事情もあったかも知れない。


さて、実は筆者は、上記を纏めながら、また疑問に辿り着いていた。
アマルガム鍍金はやっていたが、水銀精錬まではいってなかった…
・灰吹法も水銀精錬も戦国~江戸初期に導入…
この2点だ。

理由は極簡単を
①平安期の平泉では、既に金粒付着の坩堝片が出土している。
→熱したであろう事が解る
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836
当然、伝承は事欠かず、坑道の話もある。
②南部氏系居城、「根城」「
聖寿寺館」「三戸城」「九戸城」らでは、城内で金銀銅らを操る坩堝らが出土している。
→分離させていた=精錬していた可能性がある
③鉛山としての伝承はなかなか早い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/102500
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/17/201849
慶長年間で安東実季公は、自前船で敦賀経由で鉛を売買する算用状が残る。
太良鉱山か、なかなかの儲け。
これ、豊臣家に上納した物では、五奉行の返答付でやり取りしている。
蝦夷船が秋田湊で買ったのは「衣服,鉄器,鉛」。その決済に金銀を使い、秋田では銀を好んだとバテレン報告…
じゃ、その鉛は何に使った?

実際の規模は当然ながら不明だが、江戸初期頃と言わずとも、鍍金からの延長で水銀、又は地の鉛で精錬を行った可能性はありそうだ。
前項からの経緯を考えても、何らかの精錬を継続していたと考える。


採金や鍍金を我が国で最初に実践したのは「陸奥エミシ」。
技術を持って南下する事も考慮すべきではないのか?
各技術は、大陸又は朝鮮半島から伝来したと言う。
なら、蝦夷衆を介し満洲,沿海州方面から技術を導入…なんて事も考慮必要があるのでは?
勿論、それはトップシークレット。
何故なら、がめつい都の貴族や鎌倉得宗家、室町幕府に寄越せ!と、言われるのは目に見える。
「文字が無い」接点を作る格好の材料とも、言えるが。
思われるより、東北は都に近い。
そして、北海道は大陸に近い。






参考文献:

「増補 朱の考古学」 市毛勲 雄山閣出版 昭和59.9.5