時系列上の矛盾…厚岸町に残された貝塚は、「送り場」と言わずとも「産業廃棄物廃棄場」でも説明可能

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205
我々には「ホットスポット」と考える場所が幾つかある。
その1つは散々取り上げ、未だ文献収集中の西の「余市」。
実は、東のホットスポットにはなかなか触れてこれなかった…資料が少ない。
が、この場所の発掘調査報告書をガッツリ抑えると、江戸期の状況は解りやすい。
何せ一次資料たる「運上屋書類」や「日記」、二次資料たる「史書」等に結構登場するからだ。
そこは?…「厚岸」。
何せ、北方四島、千島らの玄関口の湊町。
やっと何とか発掘調査報告書を入手した…
と思ったら前項「赤蝦夷風説考」やら千島絡みがボコボコ出て来て、更に…
https://twitter.com/porun778/status/1371138119781642241?s=19
SNS上でこんな著書が紹介された。
蝦夷地場所請負人 山田文右衛門家の活躍とその歴史的背景』
ロバート G・フラーシェム/ヨシコ N・フラーシェム
厚岸場所の研究書。
その引用文中に「牡蠣」とあったので、筆者は思わず反応した。
読み出した発掘調査報告書に「牡蠣殻」があったので、渡りに船、絶妙なトスがピンポイントに来た如く…
なので、ここは、本来紹介しようとした部分に先駆けて、「Bクイック」でスパイクを打つべし…

前提条件は、
1600年代に運上屋が出来…
牡蠣は江戸期を通した「交易品」である…
この二点を把握した上で読んで戴きたい。
貝塚についてである。

「三回に亘って発掘した貝塚の散布範囲は、東西20m、南北50mと帯状にみられ、当初かなり大規模なものを予想させたが、本来の貝層は、竪穴のある5m段丘を中心に斜面に沿って弧状に分布しているのであった。したがって、斜面上部に浅く、下るにつれて厚く堆積し、その下層に発掘区によって多少の違いをもちながらも、包含層は黄褐色砂質土層、魚骨腐蝕土層、泥炭層、粘土層を介在させ、青色粘土層上面をもって遺物の出土は尽きる。しかし、貝塚は単一時期のものだけではないらしい。」
「遺物の出土傾向は大まかにみて、純貝層の上にくる混土貝層中には続縄文、擦文、オホーツク式土器が出土し、純貝層以下の層位から続縄文の前半の土器群が出土している。」

貝塚の発掘は一つには良好な包含層を求めて回を重ねた面もある。にもかかわらず、全トレンチにおいて随所に撹乱層がみられ、異常な状況を示していた。」
「このことと関連して、清野謙次博士は大正15年の人類学雑誌上に興味ある通信を寄せている。博士はこの年、人骨を求めて7月から8月にかけ、本町に滞在し、大別、チラカベツ、尾幌、オカレンボウシ、筑紫恋の貝塚などを発掘した。それを報じた中で、筑紫恋を除く他の貝塚いづれも数年前に建築用の貝灰の原料としてカキの殻を採取したため、これらの貝塚の大部分が荒らされ、特に神岩の貝塚は全滅したと述べている。」
「このことについて、この辺の事情に詳しい本町在住の田口省一朗氏に聞いたところ、大正4、5年頃から数年の間に、厚岸湖周辺の比較的便利な場所に存在した貝塚は、軒並み貝灰用の貝殻を得るため乱掘されたという。同氏も大正6年から一時それに従事した。その堀り方は次のようなものである。まず表土を剥ぎ、保存の良い部分カキ殻を手当たり次第掘り出し、破砕された貝類及び石その他邪魔物は次々と後ろへ投げ捨てるか、或いは掘った穴へ埋め戻し、掘り進む。貝は真竜にあった貝灰工場に運び換金したという。」
「この様なわけでオボロ貝塚は全滅に近い状態となり、対岸の大別貝塚を荒らし、別寒辺牛川を渡って神岩周辺の貝塚に手をかけたのである。尾幌川の河口で貝塚採集中に得た人骨頭部を当時来町した河野常吉氏にあげた記憶があるといっている。このことは清野博士も記録している。下田ノ沢については、湖岸寄りの部分の貝層は掘ったが、奥は手をつけなかった筈といっているが、誰か別の人が手をつけている可能性はあるという。これによって、ほゞ異常なまでの層序の混乱は説明がつく。今後この一帯の貝塚の調査に当たっては、この事実に充分留意する必要がある事が解った。」

…「厚岸町下田ノ沢遺跡」 厚岸町下田ノ沢遺跡群調査会 昭和47年3月25日 より引用…

以上である。
①牡蠣は交易品で大量に必要となり得た。
②続縄文期位から、厚岸湖周辺では大量に牡蠣が採られ、その牡蠣殻は周辺に廃棄されていた。
③廃棄は、時代を跨ぎ、高台から川や湖の方向へ断続的に行われた。
④近世~近代で、牡蠣殻を貝灰原料として掘り出し、工場に売却した。
⑤それに寄って失われたり撹乱された貝塚は多数に登る。

ここまでは事実だろう。
まるで鉱山。
ここを読んでる時に、上記情報があったのでピンと来た。
元々我々は、「何故こんなに貝、特に牡蠣殻を残す必要があったのか?」考えていた。
何故なら、あまり郷土料理等で貝を使った物を見てはいなかったからだ。
当然、食べたであろう。
貝塚はあちこち海辺中心に検出されている。
だが、時代複合とは言え、工場用原料として使えた規模となれば話は別。
コタン規模から考えて食いきれる量だととても思えず。

「売る(交易)為に、牡蠣を捕った」…
つまり産業として成立していたのなら、話は別だ。
海運を使うなら、保存も含め乾燥して出荷したであろう。これは全時代においてである。
当然、大量の貝殻を廃却する必要が出てくる。
勿論、誰が廃却したか?は別にしてだが。
これが「江戸期に大規模貝塚が再登場」する理由には、十分。
よく、この手を「送り場」として、宗教行事場と称するのは、幾つかの発掘調査報告書に記載され考察されるのは散見される。
だが「アイヌ民族は食べきれぬ量は捕らない」…これはどうなのだ?
産業として、生業として、大量に採った…つまり産業となっていたのなら、これは「送り場」なる宗教行事場ではない。
「産業廃棄物廃棄場」となる。
勿論、先の通り、産業廃棄物廃棄場に誰が廃棄したのか?、全ての貝塚がそうなのか?これは別の話。
この点は留意する必要はある。

こんな事を書くと、また一定の主張をする輩が沸いてくるので、下記を添付しておく。
各地の教育委員会も、貝塚が誰が作ったものかなぞ、断定する「物証」なんぞ得てはいない。

「これら貝塚を残したのが人々が和人なのかアイヌ民族なのかという問題がある。余市地方では中世以降、本州からの文物が早くから使用されており、近世社会ではアイヌ社会の生活様式が和人化していることが考えられるからである。一般に陶磁器類についてはアイヌ民族はあまり使用されず漆器が主体と言われるが、骨格器は地元での製作であり、アイヌ民族との関わりが強いと考えられる。このような状況をどのように理解すべきか今後の調査と研究の課題としておわりとする。」

「大川遺跡発掘調査報告書 -大川橋線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」余市町教育委員会 平成12年3月25日 より引用…

以上。
当然だ。ごちゃ混ぜに種々の文化の遺物が出土し、時代も混ざる。
特定なんぞ直ぐにはムリ。
文句がある方は、各地の教育委員会へどうぞ。
これで各教育委員会にクレームをつける様な方は「ムダに採らない持続性文化」を自称している事を無視する「文化的レイシスト」とでも呼ばせて戴だく。


冷静に考えて戴きたい。
自分が牡蠣殻を廃棄するとしたら何処に棄てる?
・自分の目の前には置かない…
・自分の足元より高い場所には棄てない…
・従来廃棄されている場所に棄てる…
斜面や凹み、且つ以前から棄てられた形跡がある場所を選ぶのが自然なのだ。
更に東北の実例…
宗教と廃棄を含め「捨て場」と呼ぶ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/02/191856
まぁ「捨て場」→「送り場」となるのだと、こう言いたい方はこちらをどうぞ。
聖地白老だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/161755
その変化は、火山灰が降り注ぐ前後からだと、認めて戴ければ宜しい。
つまり、ここが文化が変わるターニングポイントとなると認めてしまえば良い。

東北の「捨て場」…これとの関連?
それは今後、別の項にて。
まだまだ、厚岸町の歴史を楽しもうではないか。



参考文献:
厚岸町下田ノ沢遺跡」 厚岸町下田ノ沢遺跡群調査会 昭和47年3月25日

「大川遺跡発掘調査報告書 -大川橋線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」余市町教育委員会 平成12年3月25日