時系列上の矛盾…厚岸町「下田ノ沢遺跡」に残る、続縄文での「北方交易」及び「鉄器」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/17/193429
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/203042
前項までの厚岸町「下田ノ沢遺跡」を追ってみたい。
実はここでは、貝塚において、木製品出土が特に特記されている。
実際、我が国は酸性土壌。
木製品は、水辺の粘土層らに封印されねばなかなか残りはしない。
幸運にも、この遺跡で出土したと言う。
では引用してみよう。

「本遺跡における特色ある出土遺物として各種の木製品がある。3次に亘る発掘調査において泥炭層および泥炭層から下部の青粘土層にかけて20点出土している。」

「皿状木製品(79図4) 長さ16.5cm、幅5cmの破片で、表面は焼けこげている。高さ5mmの立ち上がりを持ち、全体は角形もしくは舟形を呈するようである。板材を剥貫いて作ったものと思われる。」

「棒杭(79図3) 前述の木製品と伴に多数の自然木に混在して横倒しの状態で泥炭層より出土した。そのため、他の出土棒でが先端部のみの残存であるのに対し、本資料はそれらのほぼ全形を推定するに足るものといえよう。残存部は径5.4cm、長さ98cmであるが、取り上げる際に破損した部分もあるので、本来は優に1m以上の長さをもつものである。先端は両面から削って楔形に尖らせている。」
「棒杭(79図7) 泥炭層から垂直に青粘土層まで突き刺さった状態で出土した。残存部は長さ2.5cm、径4.5cm。先端は一方向から斜めに削っている。また図左側面にも削り跡が観察される。」
「棒杭(79図9) 本資料は出土木製品のうちで最も保存状態の良好なものである。現存部は径2.5cm、長さ16cmで、先端はかなり鋭利な刃物痕を留めている。」

「これら木器の材質は次のとおりである。79図1はイチイ(オンコ)、同2はモミ(トドマツ)、同3もモミ(トドマツ)、同4はゲイマツ、同5~7はニレ、同8はモミ(トドマツ)であとは不明である。」

「前略~木製品とした板材、弓らしいもの、皿状木製品に、棒杭が発見されている。いずれも下田ノ沢Ⅰ式(筆者註:続縄文土器の仮分類)に伴ったものである。皿状木製品は材質が本道に自生しないゲイマツであり、その渡来経路が注目されよう。」

「これらの遺物は貝層下層に位置する泥炭層の存在によって出土したものである。木製品は棒杭様の先端部にみられる鋭利な刃物による切口面から、間接的に金属器の存在を思い浮かべるのに充分な素材である。」
「材質は記載でもふれたとおり、イチイ、ニレ、モミ類(トドマツ)、ゲイマツである。これら樹木のうち、イチイ、ニレ、トドマツは本道に自生するが、ゲイマツはない。本種の分布は、千島、樺太カムチャッカ沿海州満州、シベリアといった北方系の植物である。したがって、これによって作られた本遺跡出土の皿状木製品は、その原郷土を本州以外の道外に求めなければならない。ここで最も近い産地ということになれば、南千島、つまりクナシリ、エトロフ、色丹島というのとになる。そして当然浮かび上がってくるのは、近世における厚岸とそうした島々との関係であり、それはとりもなおさず、厚岸アイヌとクナシリ、エトロフなどの島々との関係である。それは今更いうまでもなく、エトロフ島漂着記や有名な蝦夷地一件などにみられるように、非常に密接な関係をもっていたということができ、こうした下地は、既に下田ノ沢に貝塚を営んだ人々の年代まで遡れるものであることを示すものとされよう。」

厚岸町下田ノ沢遺跡」 厚岸町下田ノ沢遺跡調査会 昭和47年3月25日 より引用…


特徴的なものを抜粋引用してみた。
まずは一言…
近世だと言う前に、まず「中世を繋げろ」と言いたい。
こう言うところが「ダメ」だと考える。
時は逆行しないのだ。
仮に中世だけが繋がらなければ、中世以降に入り込んだ可能性浮上。
そんなセンシティブな事を考えて無い段階で、首を傾げる。
何せ学者が触れない「火山灰下で生き延びれるのか?」これを考えねば、リアルな歴史は掘り出せん。
中世が絶対に必要なのだ。

下田ノ沢Ⅰ式は続縄文系土器に仮分類されていたので、続縄文からコンタクトはあろうけど、オホーツク系の土器がここで出現するのは、擦文期。
生活痕として考えれば、後の時代。
正直、数が少な過ぎて、これだけ見れば何らかの交易品としか言い様がない。
それでも、続縄文でコンタクトがあると推定させる事は可能なのだが、何せ仲良く出来ていたばかりとは言い難い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/19/184154
この辺は続縄文期だろう。
粛愼は、良い粛愼だけではなかったのだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
とは言え、これが後の「赤蝦夷」と呼ばれる人々の片鱗だとすれば、最低続縄文期からの接触痕スタートは確認の可能性は出来た訳だ。

敢えて言いたい。
後の時代ではあるが、北方四島は我が国固有の領土である。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010


さて、元々厚岸町の発掘調査報告書を確認したのは、「湊の痕跡」を確認したかったから。
粘土層にぶっ刺さった棒杭が湊の橋桁ならな…と期待したが、何しろ細すぎるし時代背景的には少々遡り過ぎか。
粘土層…水辺ギリギリだったかも知れないので、川止め漁用杭(テシ状遺構)にしても弱すぎるのではないだろうか?
むしろ、水際…
祭祀跡はどうだろう?
だが、ここには木製品の斎串やイクパスィと思われる物は出土していない。
箆状製品はメカジキの角系材質の上、状態が悪く判然としない。
少々微妙である。

むしろ、粘土層に刺さっていた為、それら棒杭の先端の加工が非常に鋭利で、出土している石斧で削れる様な切削面ではない事を特記しており、確かに写真でもまるで鉈か何かで削った様な感じなのは確認出来る。
既にこの時代に、鉄器を持った者が来ていたとすれば、想像より早いのではないだろうか?
否…驚きはしない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
続縄文期で「井戸様遺構」…むしろ有り得る。


ところで、この様な感じで、厚岸でも特徴ある出土遺物は確認出来た。
「湊」の痕跡は?
厚岸含め、まだ追い掛ける必要はありそうである。


参考文献:
厚岸町下田ノ沢遺跡」 厚岸町下田ノ沢遺跡調査会 昭和47年3月25日