真に守るべきものは?…東北史のお勉強タイム-5

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055
さて東北史のお勉強タイム…と、いうよりは筆者の考えさせられた事をふと書いてみようと思う。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716

筆者は先日、遠野の「遠野市博物館」を訪問した。
f:id:tekkenoyaji:20211110170844j:plain
「呪術展」と言う特別展示を行っておりそれを見たかったからだ。
さすが遠野物語の里。
民俗系の展示が濃く、修験道系の信仰がそれを支えていたのが直ぐ解る。
その仕入れについては、別途報告したい。

さて、下記写真の様に、神棚は御幣や紙の飾りらで彩られる。
f:id:tekkenoyaji:20211110165441j:plain
御札やしめ縄も、結界を張ったり、破邪の呪文を書いたりしているのほ解るだろう。
そんな紙飾りをしてきた研究者が書いた本に、考えさせられる内容があったので、紹介しよう。
あの「3.11」の後に東北を訪れた時の話と言う。


「前略~東日本大震災のなかで失われた文化のあまりの巨大さには、言葉を失う。ある三陸の町では、「この津波で、町から江戸時代が丸ごと持って行かれました」と語る人に出会った。」

「四月のはじめから、被災地を訪ねる旅にとりかかった。五月の末に、宮城県南三陸町の小さな海辺のムラで、その地に伝わる民俗芸能の鹿踊りが復活しているのを知った。ムラの人たちは、海岸から川沿いに何キロメートルも上流まで津波が運んだ瓦礫のなかから、鹿踊りの衣装や太鼓を探しだした。それを洗い清めてから、避難所で踊った。誰もが涙を流した。生きとし生けるものたちの命の供養のために捧げられてきた鹿踊りが、すべてが津波に奪われたムラに真っ先にもどってきたのである。」

「復活した理由のひとつは、あきらかだ。それらの民俗芸能が死者たちの鎮魂・供養、厄除けなどをテーマとしていたからである。それがたんなる祝福の芸能であったならば、これほど早い復活はなかったかもしれない、と思う。」

「やがて、われわれにとって宗教とは何か、というタブーに包まれた問いが姿を現わす。思い返してほしいが、鹿踊りのような民俗芸能はみな、例外なしに神社や寺と深くかかわりながら受け継がれてきた。地域の精神的な、宗教的な文化の核である。宗教と切り離しては、祭りや民俗芸能など、そもそも存在それ自体がありえない。パンドラの箱を開けるべきときが訪れているのかもしれない。」

「現実はかぎりなく厳しい。しかし、宗教や伝統文化の復興なしには、東北の復興や再生もまたありえないことだけははっきりしている。次々に、民俗芸能が復活を遂げていったように、その土地に生きる人々が心の底から求めるものは、たやすく途絶えることはないのだと信じたい。そのために、寄り添うことを願う人びとにもできることは、きっとある。地の記憶をひとつひとつ掘り起こし、それを記録しておくこと。」

「東北の伝承切り紙 神を宿し神を招く」 千葉惣次/大屋孝雄 2012年9月12日 より引用…


鹿踊りに限らず、祭りや神事の踊りや郷土芸能は、その起源が鎮魂や厄払いらによる物が多い。
瓦礫の中から道具を掘り出しそれを舞う…
心中どんなものであろうか?
が、本当の危機や絶望に際して必要なのは、こういうものなのかも知れない。
実際に見に行ったりなかなか難しいので、相互フォロワーさんから流れてくる画像を見ているだけではあるが、解る様な気はする。
何故なら、資料館らに収められたそれら道具は、その祭り当日には神を宿し、演者の血や汗と共に土地の土や風すら宿した物…
独特の輝きと言うかオーラを放つものがある。
繋いできた想いや歴史を、神を降ろしていない時でもそのまま封印された如くの重みがある。
昨日今日出来たばかりの紛い物とは、文化の深みが違う。
時としてその深さに圧倒される。

我が国の民俗文化は、恐ろしいほど深い。

で、それを繋いできたのは、施政者ではなく、民だ。
鎮守の寺社の祭りと結び付け、民衆がその意志で繋いできたもの。
なので、それには起源があり、何らかの事件を基に始まっている事が多い様だ。
つまり歴史のタイムカプセルを忘れぬ様繋いできた事になる。


本当に守るべきものは「地元の人達が必要としたから続けてきた物、守り活かしてきた物」だろう。
資料館に行ってみると解る。
ずっと続けられた伝統の深みにただただ圧倒させられる。

行事を続け続ける…
建物を大事に使い続ける…

単純だが、最も困難な事だ。
伝統まで昇華させるのは並大抵ではない。
「有って当たり前」迄継続されるんだから。
それも自らの意志で、誰の手も借りず、当たり前の様に。
だからこそ、神が宿る。
失われた時に、再び神を迎える為の依り代となる。
これが伝統の力。
継続は神すら呼ぶ。

本当に大事なのは「守る」ではなく…
「守り使い続ける事、活かし継続する事」…

単なる依り代に神は宿らない。
それを脈々と続けたから、神が降りる。
脈々と語り継がれるから、祭りや建物に纏わる町の歴史もまた語り継がる。
基本的なところは老若男女問わず、何らかの形で参加してきたからこそ、共有されてきた。


さて、北海道はどうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
こんなスタンスやウポポイが掲げた「新たな文化創成」…
これを見た段階で、筆者としてはもう見る必然は皆無。
現実、作り物なのも解ったし、そこに暮らす人々が必要としている訳でなく一度失われたものを行政が主導してやっているだけの事。
失われたのも自らの意思。
仮に見る価値を見出だすのなら、今から二百年ずーっと継続出来た後だな。
残念ながら筆者は生きてはいないだろうし、それが継続される訳も無いだろう。
そこの住民が必要として自主的にやる訳ではないのだから。
強要されて続くものじゃない…
キッパリ…ムリ。
出来る位なら、江戸期からでも…その行事がもっと残ってるよ。


結局、継続された物…
その物、その行事の「歴史」を守っているのだ。
さて…
あなたは何を保ち、何を守りますか?
歴史を知らず、保ち守れるものなど一つも無い。





参考文献:

「東北の伝承切り紙 神を宿し神を招く」 千葉惣次/大屋孝雄 2012年9月12日 より引用…