「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる①「背景編」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/22/101835
前項はこちら。
さて、江戸初期に盛んに南蛮人が「金銀島」を探し、日本近海を右往左往していたのは探索チームからの報告があり翻訳等されている。
中でも割と事細かに記述され、現地人とコンタクトに成功した珍しい事例が「フリース船隊航海記録」。
前項でも極部で引用されている。
毎度「原本まで遡るべし」と言っている筆者。
この際と思い、各文献で引用した元の本を幾つか入手し読んでみようと思った。
第一段がこの「一六四三年アイヌ社会探訪記 −フリース船隊航海記録−」である。

・フリース船隊とは?
スペインの無敵艦隊を破り、海上勢力を入手したオランダは、インドネシアのバタピアやマラッカを占領し日本訪問に至る。
大陸や日本の状況を知り、オランダ東インド会社首脳は、日本東海上にあるとされた「金銀島」を探すべく艦隊派遣を決定。
先行していたスペインが「島影を見た」との報告をしていたので負けじと思いついた様だ。
一度目は1639(寛永16)年、クワストとタスマンを司令として開始するが全くの失敗に終わり、病死等犠牲者を出す。
二度目がこのフリース司令の元「カストリカム号」「ブレスケンス号」の二艦で1643(寛永20)年3月2日にバタピア出港したが、同5月19日八丈島付近で暴風雨に合い離ればなれに。
カストリカム号は僚艦探索したが、諦め単独で北上。
因みにブレスケンス号も遭難は免れ北上、択捉島,得撫島通過し宗谷海峡付近迄到達とされるが、戻りに補給の為に立ち寄った南部領で密入国宣教師の疑いを掛けられ18名逮捕、江戸に送られる。
カストリカム号は、
6月7日→襟裳岬付近到達…※1
6月13日→歯舞諸島到達…※2
6月18日→得撫島到達(コンパニースラントと命名、十字架を建てる)
7月3日→国後島(北東部)到達…※3
7月16日→南樺太到達…※4
7月27日→北樺太,海豹島到達…※5
8月3日→訓令日に達し、帰投開始。
8月12日→歯舞諸島へ…※6
8月16日→厚岸到達…※7
9月1日→厚岸出港
9月9日→陸奥国東方沖で金銀島探索しつつ南下開始
11月9日→四国南東付近でブレスケンス号と合流
後に台湾経由しバタピアへ帰投成功する。
※を付けた所で現地人と接触に成功。
これらを詳細に報告している。
勿論、本州や離島でも現地人に接触はしている。
往路、陸奥国沖ではポルトガル語を多少話せる者がいたり、「長崎へ行け」と言う者が居たりしている。

では、気になる点を…

1,同船に日本人は?
乗船していない。韃靼人が一人居た様だが、ほぼオランダ人の身振り手振りでの会話。
つまり、地名や単語は「オランダ人の耳で聞こえた範疇」になる。

2,上陸らは?
千島侵入後、オホーツク海らでは霧に悩まされた模様で、晴れた時にランチや小舟で上陸している。
深い霧の為、北海道と国後島の海峡を確認出来ず、陸続きだと思っていた。
勿論、報告の際、地図作成しており、専門家が一人乗船していた。
現地人との接触は、小舟で近寄ってきたり、浜でコンタクトしており、概ねタバコとアラック酒(積んでいた東南アジアの酒)を勧め友好関係を結んでいる。

3,どう暮らした?
基本的には上陸して水や焚き木食料(魚らは地引網で採る)を得ながら現地人と接触して物々交換でまた追加している。
自活用品は本船に積み、都度ランチや小舟に載せ替え活動する。
大航海時代のノウハウなのだろう。
両船とも、全長40m級。
勿論、武装もしており、獣を得る事も可能だが、報告の中ではあまり狩りの話はない。

4,現地人との接触方法は?
・上陸時点で植生や様子を観察しつつ、足跡らから追跡し、コンタクトする。
相手が武装している場合、上官が一人近寄り話しかけ、タバコや酒を勧めながら親睦を得る。
・本船が大きいのでしばしば小舟で寄ってくる事がある。
その場合も基本的には同様。時として乗艦させ、取引しつつ相手の様子を伺う。
事前情報を得ているのか、プレゼント用の布切れやタバコ,酒,ガラス玉らは大量に持っていた模様。

5,位置の確認は?
緯度経度の確認を行っている(現代と多少ズレるので著者が時として補正している)。
霧が酷い場合は沖を航行、晴れ間に合わせ目視と水深を測量しつつ陸地に近付いていく。
現代とズレがあり得撫島(コンパニースラント)らの位置は正確には特定出来てはいない。
著者も記述しているが、その時点での記録では無人の様なので、仮に本拠地として運営されていたら場合によってはオランダ領化された危険性も無きにしも非ず。
が、探索打ち切りで放置され、後に日露の国境問題化しているのでオランダは放棄した事になるのだろう。
得撫島には後にロシアが入り込んでいる。

6,金銀島は見つかったか?
勿論見つかっていない。
但し、現地人との接触で幾つか金銀の採掘情報を得ていた。
それはまた個別に項ももうけようと思う。
金銀島探索計画は、それに積極的だった総督の死去で頓挫する。
東インド会社の基盤増強に舵が切られた訳だ。

長くなりそうなので、幾つかに分けて報告する。
少々驚愕の内容もある故。
現地人は「原始人」的ではない。
既に西洋人を知ってたかも知れない。





参考文献:

「一六四三年アイヌ社会探訪記 −フリース船隊航海記録−」 北構保男 雄山閣出版 昭和58.8.20