ゴールデンロード⑤…遠野と金山,水銀との繋がり、そして修験道の関与は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836
さて、遠野フィールドワークの第2報…
とは言え、前項は「ゴールデンロード」である。

とりあえずレポートは…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1458390818742407171?t=N6_yTeBcnTQqeimk4NViig&s=19
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/10/180435

昨今、東北を回ると何故か「金山」「砂金」に出くわす。
前項もだが、野辺地でもあった。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
そうだし、八戸の根城周辺も「金」。
実は、レポートにあるように遠野も金山があった。
さて、詳細を知りたくなった筆者は、遠野市立博物館で販売していた過去の特別展の資料集を入手したので、その実態を報告しよう。
いきなり「ごあいさつ」でぶっ飛ぶ。

「遠野にはかつて数多くの金山がありました。その始まりは明らかではありませんが、遠野市小友町から宮守町にかけての金山地帯は、平安から採掘され、奥州藤原氏の平泉文化を支えたとの伝説もあります。江戸時代に編纂された『遠野古事記』には、金山でにぎわう小友町の様子を「金山繁昌」と記しています。また、小友町には東北地方で唯一の水銀が産出した蛭子館鉱山があり、寛永5年(1628)にはこの山をめぐって仙台藩盛岡藩の境争いが起きました。」

「金山繁昌 -黄金に魅せられた人々-」 遠野市立博物館 平成28.7.22 より引用…

なぬ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/16/054836
既に金ヶ崎町で、伊達と南部の藩境争いが金山によるものなのは捉えていたが、東北には無いと考えていた水銀も関わるとは。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/105131
実は、サン・ファン・バウティスタ建造と遣欧使節団派遣で家康公と政宗公の目論見が合致したのは、メキシコ銀山での水銀を使った最新精練技術が欲しかった為とする説もある。
当然ながら、遠野に編入されている事から、仙台藩は水銀鉱山の入手に失敗した事になる。
これが北海道なら水銀自噴鉱床「イトムカ」含め、幾つかの水銀鉱床があるのは、既に縄文期に於いて、朱顔料である「辰砂(硫化水銀)」の産地で本州にも流れてきているのが知られているなので、入手出来ていても不思議ではないのだが。
日本最初の産金地は、遠野より南の宮城の涌谷町「黄金山」。
当然、朝廷も陸奥エミシも砂金は探していた訳で、それが平泉の黄金文化を支えた伝承として残る。
この特別展企画に合わせ古文含め登場する金山伝承は65ヵ所(重なりも含め)、内最低一ヶ所は南部が入る前から金山伝承があると記事あり、多くは開山が詳細不明。
この辺が東北の金山の恐ろしい部分。
近世開山の記録がなければ、黄金山以後なら規模は別としても百%なかったと否定不能となる。
何しろ、そうでなければ平泉の黄金文化が解釈不能なのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
たった一点、平泉中尊寺金色堂だけでも、その金箔を何処から入手したか?と言う問題にぶち当たるからだ。
本書にある佐渡金山の産出量と比較してみよう。
幕府以降厳格に管理された佐渡金山の金山産出量は、江戸の開山~平成の閉山まで388年間に78tの採掘と記録される。
78÷388=平均200kgとなる。
藤原清衡一切経入手に使った金が約2,000kg。佐渡金山の十年分をたったそれだけの為に使った事になる。
勿論、鵜呑みなぞ出来ないが、それと同時に中尊寺金色堂を造営していたと考えれば、如何に金に溢れていたか?目眩がしてくるだろう。
つまり、平泉の金山は一ヶ所だったとは考えられず、あちこちにあった物を集めたとしなければ辻褄が合わなくなる。

さて、江戸期の製金はどうだったか?
これも同書に記載がある。
佐渡金山に伝わる「金沢御山大盛之図」に図示される。
①採掘
②鉱石の鑑定
③品位別に選別
④焙焼(鉱石を焼く)
⑤粉砕
⑥石臼による微粉砕
⑦セリ板やゆり板による比重選別
⑧灰吹きによる精練
以上。
江戸期は灰吹きは鉛で行ったが、上記通り、メキシコは銀ではあるが水銀を使って大量の精練を行っていた模様。
我が国の水銀鉱床は北海道を除けば脆弱。
この辺の精練技術も後に追ってみたいテーマではある。
また、④焙焼は、坩堝で野焼き状態が図示されており、製鉄の様に製鉄炉は不要なのが解る。
つまり、焼土として痕跡は残ろうが、炉としての遺構が残る訳ではない。
これは灰吹きでも囲炉裏状の炉が図示される。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/04/110421
ガラス質迄の昇温は不要なので、今まで北海道の製鉄遺構ではないか?とされる場所と坩状土器のみで、その処理は可能であった事になる。
凝灰岩破片も含め坩堝として疑えば、実は「製鉄痕跡はメインの作業ではなく、それらは本来金銀銅を取り出す為の作業場」…そう解釈すれば否定する事は出来なくなってくる。
製鉄は「ついでにやってみた」程度であり、本来焙焼や灰吹きの為の施設だったのではないのか?、なら、北海道に東北にある「縦型製鉄炉」がない理由も説明がついてくる。
また、砂金選別に使用されるゆり板。
これは当然上記の様な金精練過程でも使用された物だが、こんな物をイメージするだろう。
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遠野市立博物館の常設展示より。
内側窪みがついたお盆状…
が、しかし、
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同書にある事例では窪みらしいものは見えない。
細かく砕く事で、水中で揺らせば水圧で分離出来るのだろう。
更に以前確認したもの、
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内側に湾曲あれど、円形ですらない。
そう考えれば、材質が「木」である必要すらない。
クリーニングされてしまうだろうが、砂金粒一つで歴史が変わる…と、言う訳だ。
現実、その考えが頭の片隅にでも無い限り、気が付きはしないのかも知れないが。
目から鱗
発掘調査報告書で、窪みあるお盆を探してきたがそれは先入観でしかない。
石臼も、それ以前の時代を考慮すれば、凹み石と叩き石で問題はない。
擦文の竪穴には、よく解らない叩き石状の石が出土する事があるが、本当に食べ物用なのか?
仮に焙焼鉱の粉砕に使ったなら、これを原始的な生活具と言えるのか?
否。
その場合、これらは高度な工人集団の痕跡へ早変わりしてくる。

既成概念の破壊…
目から鱗

そんな視点も有って良いのではなかろうか?
北海道に於いて擦文期は先史時代とされているが、本当か?
疑いを持った方が良いのではないか?

我々が言いたいのはそれだ。
あまりに「アイノ文化期」ばかりを気にし過ぎる傾向は…危険ではないか?。
こんな工人集団であるならば、13世紀で終わりとなる事はない。
もっと擦文文化終了は、時代が下る事になる。
誰も否定は出来ない。
何故なら、誰も持論を工程する物証を持っていないのだ。
遠野は実に、良い発想の転換をさせてくれた。


最後にもう一点。
筆者がフィールドワークするに辺り、気がついた事なのだが…
遠野も含め、鉱山伝承がある町では何故か「修験道」「山岳信仰」が色濃く残る。
それはそうだ。
金山神社等々、山神に無事と採掘の成功を願うところからスタート。
遠野でも修験道信仰が近世色濃く、
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この様な、近世迄使われた祭祀具が残されている。
写真中央にあるのが、祈祷の時に神仏に供物を捧げる「六器」。
これらに水や穀物等を元々入れていた様だ。
元々は密教の仏具で、密教の影響を持つ修験者がそれを取り入れたと考えられている。
材質は、
銅系の合金であり、
青銅…銅(Cu)+錫(Sh)
真鍮…銅(Cu)+亜鉛(Zn)
佐波理…銅(Cu)+錫(Sh)+銀(Ag)や鉛(Pb)らを少量
この辺になる様だ。
………このブログの読者の方はお気づきになっただろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/17/161552
そう…「佐波理の銅碗」。
都の上級貴族は、一時食器として銅碗を使った事は記録される。
が、普通の一般庶民が買える様な食器ではない。
北海道においては数例の出土事例があり、これらは上級貴族の食器と解釈される事が主。
だが、これを密教具として考えたら、初期に北海道,東北に伝播させたであろう「修験者」なら当然持っていて然るべし。
何故かこれらが出土する場所には、祭祀で使われた?とされる、謎の周坑らが検出されたりしているのも事実。
東北の傾向を当て嵌めれば、密教具とした方が辻褄は合って来るのだが、如何であろうか?
何せ当時の僧は仏教だけやっていた訳ではなく、技術者であり学者でもある。
その教えを知る修験者なら、仏教ごと製金技術も伝播させる事が可能だった訳だ。


どうせ、まだ真実は「解らない」のだ。
出来るだけ、広い視野で検証すべきだと思うのだが、如何であろうか?

我々も、目を曇らせぬ様に、広い視野を持たねば。
遠野は目の前の雲を少し晴らしてくれたと思う。





参考文献:

「金山繁昌 -黄金に魅せられた人々-」 遠野市立博物館 平成28.7.22