修験鍛冶についての備忘録…刀工衆「月山」の存在と古代製鉄への疑問

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

ふと疑問になった事を備忘録として。

https://www.city.yurihonjo.lg.jp/bunka-sport/bunka/c1337/13390

筆者は、由利本荘市岩城町の「亀田城佐藤八十八美術館」で行われた「日本刀展」を見学してきた。

事前ポスターで見ていた触れ込みに興味を持っていたから。

出羽の「月山」

陸奥の「宝寿」

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1512699517485056003?t=IflTFpiPjs2_7dVHieE-gg&s=19

以前から、月山派の刀は見た事があった。

展示パネルによると、主な東北の刀匠鍛冶は三派…

・舞草鍛冶…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/04/052124

毛抜型の「舞草刀」からの刀匠鍛冶で、平安期の安倍氏奥州藤原氏を支えたが、源頼朝の「奥州合戦」で散り散りに。

一部は相州へも渡った様だ…

・月山鍛冶…

出羽三山の修験鍛冶を源流として、鎌倉〜室町末位までが概ね活動期。

江戸期でも菅江真澄の記録や大阪に移り住んだ弥八郎貞吉がその火を守ったようで。

特徴は地金が積み重なり「綾杉肌」言われる文様が浮かび上がる事…

・玉造鍛冶…

散り散りなった舞草衆の一部が、宮城方面へ南下。

その一部が「宝寿」を名乗る。

 

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/16/193257

月山鍛冶については、江戸期に「マキリ」を打っていた「酒田鍛冶」でも少しだけ触れた。

戦国期の「最上義光」が織田信長とのやり取りで、馬らの他に月山鍛冶が打った槍を十本贈った等の逸話が残る。

 

さて、古代製鉄を少しずつ学んできたところでいきなりの疑問である。

前項にあるように、山形では、何故か製鉄遺構の検出がまだ無い様で。

思えば何箇所か山形の資料館は回って居るが、ありがちな製鉄遺構の剥ぎ取りは無かった気がする。

検出が無ければ展示するはずもない。

ここで疑問…

月山鍛冶はいったい何処から「鋼」を入手していたのか?

時代が江戸期迄下れば、畿内以西から北前船で入手出来ただろう。

そうでなくても、室町途中には東北のあちこちでも縦型製鉄炉は検出しなくなっていく。

宝寿ら玉造鍛冶なら、同じ陸奥の鋼を入手出来たであろう。

が、月山鍛冶は鎌倉〜室町、特に南北朝期辺りがその最盛期の様だ。

ふと、疑問になる訳だ。

 

ここで、月山鍛冶が修験鍛冶から成立した話が気になってくる。

出羽三山は修験の山。

神域なので発掘はしていないだろう。

仮に山形一帯の製鉄を出羽三山鳥海山の修験者らが独占していたら?

当然ながら、鍛冶は元々長吏管轄、且つ信仰と深い関わりを持つ。

何せ羽黒山には防御性集落らが検出され、蝦夷館公園としてその痕跡が見える。

最上や伊達も中々手を出せない大勢力だったのは、想像に易しい。

この辺はまた山形の地方研究らを学ぶ事になるだろう。

まずは入口に辿り着いた感。

 

そう言えば、月山鍛冶の最盛期が南北朝期…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

貴公子「北畠顕家」の弟の「北畠顕信」は、兄が討たれた後、多賀城奪還の戦いを続け、一時鶴岡の「藤島城」へ入ったとされる。

鶴岡市藤島は、羽黒山への入口だったりする。

出羽三山も実は一枚岩とも言えず、羽黒山,月山が後に天台宗系だったが、湯殿山のみ真言宗系を貫いた…だったか、出羽三山歴史博物館にあった様な…

羽黒山麓も月山麓も砂金産地、ましてや湯殿山は…

いや、湯殿山は聞くなかれ、語るかなれか、今は伏せよう。

 

これら、信仰,宗教と技術伝搬らの話は密接だったりする。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225

何せ、こんな話も。

故に修験の山は、単なる信仰対象としての存在なのか?それだけではないのではないか?

と、勘ぐってしまう訳だ。

 

まぁ、今回は入口。

我々は信仰だけではなく、製鉄や精錬ら、技術論的な視点からも追ってみたいと思う。