「相馬」に対して、日本海側はどうなのか?…「新潟」の製鉄炉変遷トレンドも学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/30/201841

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

前項,関連項はこちら。

製鉄に戻る。

東北の製鉄炉変遷トレンドは以上迄で何となく掴めてきたのではないだろうか?

国家規格の「箱型炉」は「相馬」迄で北上を止め、それ以北は「竪型炉」が拡散する。

同時に相馬でも箱型炉→竪型炉への転換がなされていく。

陸奥側は南三陸周辺で北上が止まり、出羽側は秋田城ら国衙,郡衙に伴う竪穴炉が河川に伝い伝播、津軽陸奥北部へも拡散していく。

但し、何故か同じ出羽の山形では製鉄炉が検出されていない…こんな感じ。

そして製鉄に成功しなかった北海道でも、何故か奥尻島に箱型炉らしき形跡が残る。

これらは古墳〜平安期位に起こった事。

さて、ここまでくれば疑問にならないか?

そう、越国ではどうなのか?

日本海ルートで考えたら、国衙「出羽柵(後の秋田城)」の北上は越後から。

新潟の製鉄技術のトレンドはどうだろう?

 

筆者は狙いの文献を発注する時、同書店の在庫から何気に気になる物を一緒に入手する事にしている。

たまたま「金津丘陵製鉄遺跡群」の発掘調査報告書を発注していた訳だ。

折角だから、ここから概略のトレンドを覗いてみよう。

 

金津は本書では「新津市」となっているが2005年に新潟市編入され、「秋葉区金津」となっている様だ。

磐越自動車道建設の盛土で土砂掘削し、跡地は運動公園へ…この為に確認調査を行った。

ここで「八幡山城跡」とされていた所が新潟最大規模の「円墳」だったり、弥生の集落跡?が出たりと発掘が進められた。

で、古津,大入,居村らの地区で製鉄跡群が検出され、金津一帯が製鉄遺跡である事が解り、同書の調査となった様で。

GoogleEarthを見て頂ければ解るが、阿賀野川信濃川に挟まれた舌状台地の先端付近…何もないハズも無く…

では、基本層序から…

Ⅰ層…暗褐色土の表土 5~10cm

Ⅱ層…暗褐色土の遺物包含層  10~20cm

Ⅲ層…漸移層

Ⅳ層…地山の明黃褐色土,明黃褐色砂質土で一定せず、場所により砂礫が変化する。

ここで発掘は事前確認を行い、

・丘陵で遺物包含層が顕著でない

・人工遺物が表土では希薄

以上が解ったところで、遺構関連が薄い所は重機による表土剥ぎを進め、遺構関連が濃い部分は表土から全て人力掘削を行ったとある。

三年計画で

・居村遺跡(E,C,A地点)

・大入遺跡(A地点)

の順で発掘調査を起ない、総称が「金津丘陵製鉄遺跡群」とされる。

結果をざっと…

居村E…

精錬炉×1、木炭窯×3、焼土坑×11ら

 

居村A…

精錬炉×1、木炭窯×4、炭置場×2、焼土坑×24

 

居村C…

精錬炉・踏みフイゴ座,作業場×1、木炭窯×12、焼土坑×28ら

 

大入A…

精錬炉・踏みフイゴ座×1、廃滓場&炭置場×1、木炭窯×3、焼土坑×3ら

 

となる。

何と周辺で思い切りの製鉄プラントの模様。

居村Eが箱型炉、それ以外は半地下竪型炉である。

大入Aで検出された竪型炉からはフイゴ座が検出されその変遷順は、

居村E

→居村A

→大入A

→居村C…

と推定され、居村Aの大型竪型炉からむしろ小型化+フイゴ使用と、その変遷がうかがえる。

また、鉄滓らの科学分析から原料は砂鉄を使用、木炭燃料で還元、炉底の鉄を取り出す事に「特化」している様で、椀型鍛治滓や鍛造鉄滓らは全く検出していないそうだ。

純粋に、鉄精錬を行ったプラントと言う事になる。

但し、それ以前に発掘を終えた居村B,D地点にて椀型鍛治滓ら鍛治関連遺物が検出されていて、精錬と鍛治それぞれ時期や場所を変え行われた様だ。

また、砂鉄は周辺のものか、川辺や海岸からのものかは、調査報告書段階では特定出来ていない。

 

と、言う訳で…

残念ながら須恵器,土師器らの遺物が少なく、概ね8〜10世紀の製鉄遺構群と推定するが、それぞれ地点の形式が移行した明確な時期の特定が難しいという問題も残った様だ。

だが、新潟でも西日本,北陸に広がる「箱型炉」→東日本,関東的な「竪型炉」へ変遷したトレンドが見てとれ、相馬らと同様の変遷を辿ったものと考えている模様。

その辺のベースは、穴澤義攻氏(穴澤1984)、関清氏(関1989)を引用している。

遺物としては、鉄滓,須恵器,青銅器,鉄器,土製品,等が出土しているが、本項は製鉄遺構の変遷トレンドを知るのが目的なので敢えて割愛。

 

新潟も、相馬同様の変遷…

新潟からも箱型炉の北上はなく、概ね北緯39度で止まっている。

で、それ以北は全てが竪型炉…まるで別の流れがあった様にだ。

これは、磁鉄鉱を使わずに砂鉄や餅石を原料とする以上、大陸文化の直接移入とも一致しないので、渡来人がやり始めたとも言い難い。

何時、何処で、誰がこれを始めたのだろうか?

東日本から始まり、相馬や新潟にも影響を及ぼした…とも言えそうだが。

何故、ここに拘るのか?

そう、最北の国衙「秋田城」が端から竪型炉であるから。

そして、秋田城より古いであろう奥尻島の青苗遺跡のみ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141

これと合致せず箱型炉であろうから。

この辺から、少し時代を遡っていこうか…

なら、我が国最古級の製鉄炉とは?東日本の豪族達がその館で工人達にやらせた製鉄炉とは?

この辺の接続が出来てくれば、金属器技術視点での北海道〜東北の関連史も見えて来よう。

忘れたか?

河野博士も後藤博士も、鉄器に拘った。

理由は、古代北海道が大陸に近いか?本州に近いか?を調べる為。

基本に忠実に…

そして、北海道の擦文以降の鉄器はほぼ本州産だと言う事を。

 

 

 

 

参考文献:

「金津丘陵製鉄遺構群発掘調査報告書Ⅱ」  新津市教育委員会  1997.3.28