国家規格の「製鉄炉」とは?…相馬地方の製鉄遺跡群を学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

さて、北東北の製鉄炉跡に対して、当時国家規格だったとされる「箱型炉」とは?

前項でも書いた様に、箱型炉は南東北迄しか伝搬しておらず、北東北にあるのは「元慶の乱」以降拡散した「縦型炉」のみ。

朝廷からも、箱型炉の伝搬はNGの司令が出ている。

なら、そこは何処か?

答えは福島県の相馬地方。

多賀城の管轄下とされ、

陸奥国宇多郡→現在の武井地区

陸奥国行方郡→現在の金沢地区

ここで行われていたとされる。

福島県浜通りになるこの周辺は、未だ砂浜に黒く砂鉄が見える「浜砂鉄」の産地、且つ、古植生では阿武隈高地にナラやクヌギの木が生え、それを木炭として使える環境にあった様だ。

それぞれ「宇多郡衙」「行方郡衙」と考えられる遺跡、須恵器窯らも検出されている。

結論から言えば、木炭作りから砂鉄採取、製鉄、製錬、精錬、鍛冶工房まで揃えた「古代製鉄コンビナート」があり、須恵器ら含めた「工人村」として7~9世紀に運用されていた地域であったと推定されている。

 

・武井地区…

丘陵地に19箇所の遺跡があり、

木炭窯…135

木炭焼成穴…76

製鉄炉…16

鋳造遺構…9

須恵器窯…1

等、

・金沢地区…

同様に11箇所の遺跡があり、

木炭窯…152

製鉄炉…123

鍛冶炉…20

須恵器窯…1

等。

約10年かけて発掘を行い、背景ら含めて解明していった模様。

さすがに国家規格のコンビナート。

 

では、「シリーズ「遺跡を学ぶ」−21  律令国家の対蝦夷製作  相馬の製鉄遺跡群」 より…

これが東北最古、7世紀後半とされる製鉄炉、箱型である。

尾根に直行する様に2基配置、前後に円形,長方形のそれぞれ作業場と思われる場所が付随する。各作業場には廃滓溝形を伴う。

周囲には木炭窯も配置。

長さ×幅×深さ、1.2~2×0.4×0.4m程度の炉体で、一度の製鉄作業毎に箱部分を破壊して鋼や銑鉄を取り出す。

写真は縦置きの配置だが、それが先行して横置きはやや後発らしい。

この周辺では縦置き,横置き共に検出し、概ねこの二形態は8~10世紀まで踏襲される。

8世紀中頃からはフイゴの羽口が検出し始めて送風技術の確立が認められるとの事。

武井地区の8~9世紀の遺構では、その廃滓量が1.6㌧/基に及ぶ製鉄炉もあるという。

北東北で顕著な竪型炉はここでも検出され、その登場は8世紀後半頃からの様だ。

実は同書によれば、竪型炉の検出事例は畿内以西では無いそうで、東国で成立したと考えられている。

当初、竪型炉は、

北アジア起源…

朝鮮半島南部の精錬鍛冶炉からの応用…

これらが有力とされてきたが、近年大道和人の指摘では、

・鋳造溶解炉からの技術応用(滋賀県鍛冶屋敷遺跡の調査より)…

との意見も出てきている。

いずれにしても、東国での技術発展である事は間違いなさそうだが。

これら竪型炉には「踏みフイゴ」で送風した痕跡があり、

この段階で安定した送風が行われていた事を想像させる。

勿論、この踏みフイゴは箱型炉にも設置される様になり、8(後葉)~9(初期)世紀と見込まれている。

 

その製鉄方式の変遷は、

・Ⅰ期(7世紀後半)

両側廃滓の箱型炉を尾根上に設置、羽口出土が少ない

・ⅱ期(8世紀前葉)

片側廃滓の箱型炉を斜面に設置、羽口が増え始める

・Ⅲ期(8世紀中葉)

ⅱ期同様だが、炉の長辺に送風施設?、そして竪型炉が出現

・Ⅳ期(8(後葉)~9(初期)世紀)

踏みフイゴ付の箱型炉が出現

・Ⅴ期(9世紀中葉)

Ⅳ期型の増強

そして、9世紀の終わりにこの地域での生産が終焉を迎え、廃絶。

推定される鉄生産量は、Ⅰ期で廃滓量の13~48%とバラツキがあったと考えられるが、最盛期Ⅳ~Ⅴ期では平均30%に安定し、34基で303㌧程度生産したと考えられるそうだ。

あれ?…と、思うのだが、この廃絶期は「元慶の乱後の竪型炉技術の拡散」と、タイミングが重なるが…

 

製鉄の系譜は、

朝鮮半島南部→北九州(元岡遺跡群)→近江官営製鉄所(ここで技術確立)→尾張・相模・常陸→相馬地方へ、百済,高句麗の滅亡で工人衆が渡来した…

この辺が通説的に言われている。

但し、この論には疑問点がつきまとうそうだ。

理由は「原料」。

朝鮮半島や近江では、鉄鉱石からの製錬しか確認出来ていないそうで。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/11/184237

実はちょっと触れた事がある。

砂鉄に含まれるチタンの量で現在その原料や産出場所を特定している。

砂鉄に多く含まれるこのチタンらの処理の有無で原料が鉄鉱石か砂鉄かも解る様で。

この近江官営製鉄所以降の紆余曲折が、後代の日本刀らを支える「たたら製鉄」へ昇華していくのだろう。

故に、朝鮮半島南部と近江官営製鉄炉だけでは、砂鉄を原料として製鉄を行う技術には直結出来ない…としている。

単に工人からの渡来だけでは、説明がつかない訳だ。

 

ここの製鉄コンビナートで何が作られたか?

鋳造遺構や鋳型からは、梵鐘,鼎ら仏具や羽釜,鍋ら。

後に東北で花開く「鋳物」による内耳鉄鍋や南部鉄器らのスタートラインはここになるのだろう。

また鍛冶による鍛造は、ここでは遺構らが少なく、国衙,郡衙らと合わせ分業していた事も想定される。

当然ながら鍛造により、鉄斧や鍬先、そして刀剣らが作られる。

 

上記変遷を見ると、この周辺での製鉄は阿倍比羅夫北進の少し後に開始され、当然ながらⅢ~Ⅳ期、つまり38年戦争ら情勢不安が起こる辺りで踏みフイゴ設置ら増産の為の改良が起こる。

盛んに征夷北進を行った時期と無関係とは思えないと、著者も指摘する。

故に「律令国家の対蝦夷政策」とし、多賀城の後背地としての位置づけをしている訳だ。

 

どうだろう?

ここから東北の製鉄らが始まり、情勢により拡大、そして安定をみた後に、元慶の乱以降に技術拡散し民間へ行き渡る様は想像出来て来るかと。

ここまでは流れは見える様な気はする。

なら、前項にもある北海道の事例は異彩を放つとは考えられないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450

先に仮説した様に、奥尻島では火力不足で製鉄が成功しなかったと考えたが、時期まで加味すると、「まだ砂鉄から製鉄する事が出来なかった」事も。

この場合、相馬地方に居た工人衆とは合致しない訳で、「別の系譜を持つ工人衆」だった可能性も…

さて、真実は如何に?

少しずつ学んでいこうではないか。

 

 

 

 

参考文献:

 

「シリーズ「遺跡を学ぶ」−21  律令国家の対蝦夷製作  相馬の製鉄遺跡群」  飯村均  新泉社  2005.11.15