改めて「古代製鉄」を学ぶ…岩手県立博物館「古・岩手のクロガネ」に見る東北の古代製鉄炉、そして「北海道の矛盾」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450

今回は「古代製鉄炉」を学んでみよう。

これは2度のフィールドワークからの情報収集による。

7月に釜石の「鉄の博物館」,「釜石市郷土資料館」、そして今回の「岩手県立博物館」である。

古代製鉄を学ぶとして釜石に向かったのだが、釜石の鉄の歴史は主に幕末~明治の近代高炉から。

その時に、少し前に県立博物館で古代製鉄をテーマに特別展があり、よく纏まっていたとの話を聞き、今回訪問した訳だ。

ズバリ尋ねると、図録出版はされていないが展示パネルのベースになる資料集はあり、見せて戴いた…と言う訳だ。

それが非常に良く纏まっていて、ほぼ必要が古代製鉄で気になっていた事の答えがあったので、それをベースに書いていく。

関連項はこちら、奥尻島青苗遺跡。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141

何故、青苗遺跡?

それは最後に書こうと思う。

さて、進めていこう。

 

①製鉄とは何か?

解りやすい図があったので、「古・岩手のクロガネ」より…

鉄は砂鉄にしても磁鉄鉱にしても、酸化鉄の形で世の中に存在している。

主には弁柄(赤錆、Fe2O3)と砂鉄(黑錆、Fe3o4)。

製鉄で使うのは主に砂鉄。

では改めて…

木炭(炭、C)を燃やすと、空気中の酸素と炭素(C)と酸素(O2)で二酸化炭素になるのだが…

砂鉄と木炭を一定比率で混ぜ込み製鉄炉の様に密閉されたところで燃やすと、酸素不足に陥り一酸化炭素(CO)が出来る…これを利用する。

Fe3O4+(3個のC)+(3個のO2)を加熱

→(3個のFeO)+(3個のCO)+(残りは燃焼ガスとして大気放出)

→3個のFe+(3個のCO2として大気放出)

単純に例えれば、砂鉄を一酸化炭素中毒にして、砂鉄に含む酸素を吐き出させて鉄だけにしてしまう…

まぁ不純物らもあるので、そんな単純な話でもないのだが。

この一酸化炭素中毒を起こさせる事が「還元」。

砂鉄を溶かして、この「還元」を起こさせるのに1400℃以上に炉内温度を上げる必要がある。

製鉄技術は熱との戦いでもある。

なので、融点の低い「銅」「青銅」より高度な熱技術が必要なので、先に青銅器時代が始まる…これは以前から説明済み。

銑鉄と鋼の用途については、以前「鍋・釜」の項で少し触れたので。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/17/190904

 

②伝搬した製鉄炉とは?

実は、古代製鉄炉は大きく2系統の系譜がある。

・縦型炉

遺跡から切り取ったサンプルを見れば解りやすい。

これは「史跡尾去沢鉱山」の資料館で常設展示される「堪忍沢遺跡12号炉」を保存処理したもの。

穴を丸や楕円形で掘り、底が炉床、背後上部からフイゴで空気を吹き込む。

こんな風に縦に長い。

筆者がフィールドワーク、発掘調査報告書を読む様になってからずーっと見てきたのはこの形。

・箱型炉

細かくは横置き,縦置きに分かれるが、基本掘り込みをせずに傾斜面を壁にして、対面(手前)にフイゴらを設置し空気を吹き込む。

「古・岩手のクロガネ」資料集より。

上が南相馬長瀞遺跡15号炉、下がそれを元に福島県文化財センター白河館が復元したもの。

こうなると、今も伝わる「近世たたら製鉄炉」の原型にも見える。

構造的に箱型炉は製鉄終了と共に「箱」の部分を壊して中の鋼,銑鉄を取り出す為に原型が残らず、炉床と壁面が検出するのみとなる。

 

③技術伝搬の歴史

我が国が製鉄を始めたのは何時なのか?

これは諸説あり。

だが、東北に製鉄技術が伝わるのはずーっと遅い。

鍛冶の伝搬が奥州市「角塚古墳」に纏わる集落、これで古墳時代

製鉄技術はそれより時代が下り、南東北の福島の相馬周辺が大体7世紀後半、そこから北上して宮城→岩手と遺跡が出現する。

秋田に至っては8世紀中頃、つまり秋田城が築城されてから技術伝搬しており、秋田城、払田柵ともに製鉄炉跡は検出される。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523

以前より報告済みだが、元慶の乱以降、その製鉄技術は須恵器窯技術と共に能代,由利本荘へ伝搬、そこから米代川,子吉川を遡り伝搬、更には津軽へ伝搬…と、伝搬ルートは概ね解明されている。

さて、ここで問題。陸奥側は?

岩手県内では古,中世の製鉄遺跡が28箇所、製鉄炉後が111基検出されているが、内陸では殆ど無く、ほぼ沿岸中部に偏重しているそうだ。

鍛冶場に関しては内陸にも存在しているのにも関わらず。

考えられる理由は「砂鉄を含む花崗岩が海側」だからとの事。

ほぼ、花崗岩体に立地又は近接する傾向にある。

この辺は、近代製鉄の町「釜石」が海側にある事でも解るだろう。

砂鉄を掘り尽くしても元になる花崗岩があるので、それから磁鉄鉱鉱脈を掘れば良い訳だ。

で、伝搬ルートはその沿岸部に関しては南からの北上、薄い内陸や北部に関しては秋田城→能代→鹿角→一戸と米代川を遡る秋田城からのルートではないかと考えられるそうだ。

元慶の乱…恐るべし。

この辺で釜石を訪れた理由の一つ、岩手側での製鉄技術伝搬ルートの謎は解けた。

まとめてみよう。

「古・岩手のクロガネ」より引用すると…

「東北の製鉄は、当初から砂鉄を原料とし、7世紀後半から福島県沿岸北部で始まり、8世紀には宮城県、8世紀後半には岩手県、9世紀以降に秋田県青森県と広まりました。」

ここで山形県が無い。

山形では製鉄炉の検出がまだ無いそうだ。

古代製鉄検出数を「全国/東北」で比べると…

遺跡数→350/110

製鉄炉→1100/420

となり、如何に東北で盛んに銑鉄されていたか?が伺える。

さて、ここで大問題が出る。

製鉄炉形式と技術伝搬を絡めると…

 

              南東北                   北東北

  7世紀  箱型炉                   縦型炉

  8世紀  箱型炉/縦型炉     縦型炉

  9世紀  箱型炉/縦型炉     縦型炉

10世紀  箱型炉                  縦型炉

 

かなり大雑把ではあるが、こんな傾向。

南と北で差がある様だ。

この理由だが「古・岩手のクロガネ」資料集ではこう推測している。

福島県で始まった頃の製鉄炉は、全国各地でほぼ同型・規模で「官営標準型」として近江国から全国へ伝搬したと推測される。

律令国家の勢力拡大の為に古代郡衙,城柵官衙造営に伴い、工人衆が配置され製鉄炉が稼働し始める。

陸奥側では7世紀後半からコンビナート化し、8~9世紀の蝦夷(エミシ)討伐に合わせ最盛期を迎える。

つまり「38年戦争」らでの武具供給らでフル稼働させた。

・8世紀に縦型炉が出現するが、これは国家標準型ではない。

これは、西国でも6世紀後半以降に伝搬している。

関東を始めとする東国配置された渡来人の工人から伝搬したと考えられる。

ここで、何故国家標準型である箱型炉が北東北に伝搬しなかったのか?

757(天平宝子元)年の「養老令関市令」で「東辺、北辺に製鉄施設を置く事を禁ずる」命令が出ている。

つまり、これ以降に官営型の製鉄炉が設置される事は無くなる事になる。

故に、国家標準型の製鉄炉が北東北に伝搬する事は無かった事になる。

箱型炉が秋田,青森で検出されるのは、秋田→12世紀末

青森→13世紀代

で、それは北陸系の箱型炉であり、それまでは縦型炉ばかりで稼働していた。

以上。

筆者が調べたかった事に対する答えはこれでほぼ出揃った。

古墳~平安期において、箱型炉が北東北に伝搬するハズが無かったのだ。

故に、筆者はこれまでずーっと縦型炉を見てきた訳だ、秋田でも津軽でも。

秋田城,払田柵、土豪の防御性集落でも。

今迄も陸奥国司や秋田城介として赴任した百済王一族の話はしたが、それらのツテで連れてきた工人衆かも知れないが。

但し、鎮守府胆沢城、志波城、徳丹城に銑鉄遺構は検出していないそうだ。

そこは養老令が守られた事になるか。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/18/222411

まぁこんな推測をしていたが、「夷の事は夷で」…38年戦争、いや、元慶の乱以降、こんな支配体制は徹底されたのかも。

故に中世化し、土豪の台頭→別将への警察権付与→安倍,清原氏の勢力拡大と繋がる感はある。

 

④北海道は?

北海道では、製鉄は成功していない。

ではここで改めて…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141

奥尻島青苗遺跡。

ここでは「製鉄遺構」とされるものが検出されている。

他の地域では、鉄滓やフイゴ羽口は検出するものの「製鉄遺構」そのものの検出は未だ無い。

ではもう一度、青苗遺跡の「図版編」からその「製鉄遺構」を比べてみよう。

一枚目は全体像、二枚目が比熱痕がある場所になる。

これ、どう見ても北東北に広かった「縦型炉」ではなく、むしろ「箱型炉」だろう。

古代には北東北には存在するハズの無い「箱型炉」近い形の痕跡が青苗遺跡にはあった事になる。

さて、これが製鉄炉跡だとしたら何故こんな事がお起きるか?

A、北方から大陸系の人々が伝搬させた…

青苗遺跡は続縄文~擦文文化の痕跡が主で、渤海らの工人が住み着いたならもっと大陸系遺物が多いだろうからこれは難しいと考える、

B、757年の養老令以前に朝廷又は北陸系住民が構築した…

北陸系の製鉄炉はまだ確認していないし、公営形式と合致するかの確認は今では難しいだろう。

ここの擦文遺物は主に7~8世紀位と考えられていたかと思うので年代的には合致してくる。

阿倍比羅夫の北進に伴い、北陸系の工人を帯同させる…

むしろこちらか。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/193325

720年の渡島津軽津司の諸鞍男ら六名の靺鞨国訪問の記録。

太平洋ルートは面制圧、日本海ルートは港を押える点制圧。

秋田城(出羽柵)北上以前に、連絡網を敷く拠点は設けた節はあるので、奥尻島にもそれを置いたなら、話とすれば成立しそうな感じではある。

余市と共に「渡島津軽津司」又はそれに連なる役人が居た可能性は出てくるだろう。

C、現地住民が朝廷工人らの製鉄炉を真似て作った…

ここでの製鉄は鉄滓を見る限り、成功はしていない様だ。

我々は火力不足を想定しているが。

この場合でも、その現地住民は、朝廷工人衆の製鉄を間近に見る事が出来た立場にいた事になるだろう。

記録上、渡島衆が朝廷へ朝貢に訪れた記述はある。

工人の仕事を見られるなら、かなり恭順の意志の強い者となるのではないだろうか。

こんなところか。

確度が低いであろうAを除けば、B,Cいずれにしても、トップシークレットであろう製鉄技術に触れる事が出来た人物なので、港の管理者として朝廷指揮下に居た事になるのではないか?

むしろ当然なのかも知れない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/19/184154

国防上の問題として北方からの侵入があり、現地からの要請で阿倍比羅夫が派遣されていれば、後に越冬食料調達も含めて土豪が恭順しても何の疑問も起こらない。

史書記録に素直に合致する。

問題を抱える分、局部的ではあるが出羽に先立ち朝廷指揮下に入るのは矛盾はない。

更には余市町大川遺跡の「カタイ」との整合もとれてくると思うが。

 

如何だろうか?

これだけで、筆者がずーっと引っ掛かっていたモヤモヤが随分解消された気がする。

勿論、これで決まりなどと言う事は無いし、断片の一つに過ぎない。

が、当時の製鉄に対する背景を重ねるとこんな見方も可能だろう。

特にトップシークレットが絡む分、話は重くなる。

これを深化させるには技術史の学びが必要になる。

まずはここまで。

 

一つだけ…

この時代にアイノ文化はまだ、萌芽すらしていない。

そんな北海道で言うところの先史時代の話である事を付け加える。

先史時代で既にこうなのだ。

 

 

 

参考文献:

 

2019年度岩手県立博物館テーマ展 「古・岩手のクロガネ」 資料集   岩手県立博物館  2019

 

奥尻島青苗遺跡 図版編」 佐藤忠雄/函館土木現業所/奥尻島教育委員 1979.3.15


奥尻島青苗遺跡」佐藤忠雄/奥尻町教育委員会 1981.3

 

秋大史学 第43号 「大清水台Ⅱ遺跡の試掘調査について」渡部育子/船木義勝 1997