ロシア南下の緊迫度は、そんなもんじゃなかった…ソ連のお抱え学者が目を覆いたくなっていた「ロシアの暴挙と混乱」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

これを前項に。

北海道の動向とロシアの南下を重ね合わせてきた。

今度は、ロシア側からそれを覗いてみよう。

SNSで、ロシアが北方民族らに行った政策やその結果らを含めた本「シベリアの先住民の歴史」が引用され紹介戴いた。

近世近代は筆者的には優先順位は低いのだが、興味を持ったので入手してみた。

前項の1700年代中頃に重ねれば、ロシア視点が幾らか解るだろう。

 

全体像は後として、まずその部分を確認してみよう。

17世紀、つまり1600年代のシベリア〜カムチャツカは、

こんな風だった様だ。

本書によると、何故ロシアが東進したか?

目的は「クロテンの毛皮」。

西方との戦争に備え、時のロシア皇帝ピョートル大帝」は、高価になるクロテンの毛皮を国家独占を布告(1697年)にした様だ。

だが、1600年代後半迄に、東シベリアのクロテンは既に絶滅に近い位に狩り尽くされた模様。

そこで、新たな毛皮用動物の狩場開拓が必要になり、シベリア地方の行政官にそれを厳命する。

 

「ともかくロシアの征服は、既に次の段階に移っていた。一六九七年にコサックの将校V・アトラソフは、新しい貢納を求めて、六十人のロシア人と六十人のユカギール予備軍からなる分遣隊とともに、アナディルスクの要塞から南へ出た。 オホーツク海北端のベンジナ湾にいた定住コラクのいくつかの集団は、「誠意と懇切を込めて(形式的な語句)」「絶対君主の御手」に服すようにさとされ、鉄製ナイフ、斧と交換に、赤キツネの皮をヤサク(筆者註:帝政ロシア時に非ロシア系住民に課された物納税の事)として手渡した。アトラソフは、これらのコラク(筆者註:カムチャツカ半島付け根西のベンジナ湾周辺に住んでいた人々の事)からカムチャツカ半島の存在を聞き、南へ進んで太平洋沿岸にいるコラクの、オルトル部族の領土に侵入し、続けてカムチャツカの地峡の西側へと進んだ。この辺りは野蛮で、はるかかなたの隔絶された土地であった。そして、そこを探検したロシアの冒険家たちは、当初から分捕り品に露骨なほど強欲で、先住民のことなど眼中になかった。 先住民も同じように暴力によって応えるしかなく、ツンドラ群とともに徘徊していたトナカイ・コラクは、ロシア人のカムチャツカへの旅を、きわめて危険な陸の旅にした。チギル川に着くとアトラソフは、半島の骨格を山脈に部下を何人か行かせた。さらに アルネイの高峰の下で、カムチャツカ川流域に通ずる小径を見つけた。その川は二つの火山帯の間を北に流れ、幅広く、湿地の多い平原を形成してから、海岸の山脈を切って太平洋に流れ込んでいる。ここでコサックはすばらしい光景を目にした。現在クリュチェフスカヤ・ソプカの名で知られている、標高一万五千五百八十三フィートの、雪で頭を覆われ、煙を噴 き出す火山が目の前に聳えていたのである。

カバの木とカラマツの森林からなるこの土地に、きわめて多数のイテルメン、もしくはロシア人からカムチャダルと呼ばれた、コラクとチュクチに関連する言語を話す 人々がいた。東北シベリアの他の部族と同様に、イテルメンには世襲の首長がいなく、基本的には社会は平等で、時に氏族の集会で、特に勇敢であったり賢明な人の意見が尊重された。彼らはとても大きな村に住み、隣の氏族の襲撃から身を守るために、周りを柵で囲っていた。夏に彼らは、柱の上に地面からかなり高い台の上に建てられた、シェルターのような葉で覆われたテントで暮らしていた。夏でも気温は十四度より上昇する事はなかったが漁労、狩猟、戦いの時に、イテルメンは通常、革の腰巻きしか着なかった。ときどき降る雨に、彼らは葉で編んだ帽子をかぶった。冬に彼らは、木の骨組みを組み立てて土を被せ、煙突兼入り口のついた半地下式の小屋に住んだ。冬の衣類は、トナカイ、犬、アザラシ、時には鳥の皮で、コラク、チュクチが着たような半ズボン、ブーツ、頭から着るコートが作られた。同じく彼らも、骨や石でできた道具を使った。鉄製品はまれで、日本から千島列島を経由してカムチャツカに到達したか、あるいはカムチャツカの海岸に時々たどり着いた日本の船からもたらされた。彼らの矢は鯨の骨でできていて、骨か石の鏃が先端につけられていた。さらに投石器も彼らは使った。

夏は、太平洋のサケが産卵場所に上ってくるので、イテルメンにとって忙しい季節となり、ほとんど争うことなく大量に捕ることができた。サケの肉と卵、アザラシの肉と脂は、冬用の食糧として天日で干したり、あるいは穴の中で燻製にしてから、野生動物やイテルメンの唯一の家畜動物であった犬に食われないように、夏用の家の台に貯蔵した。湿潤で比較的穏やかな天候に恵まれ、いろいろな食用植物がカムチャツカで自然に成育していたので、それを女たちが食糧として集めた。イテルメンの生活を観察した最も初期のロシア人によると、彼らは女や奴隷を連れ去るために、互いに別の村落をしきりに襲撃しただけでなく、捕虜の取り扱いでもシベリア先住民のなかでかなり残虐であった。 コラクやチュクチと同じように、 イルメンは死体を切り刻んだ。それゆえ、戦闘で負けると彼らは妻子を殺し、生きて敵の手の中に落ちるよりも自殺を選んだ。

カムチャツカ半島と、それに続く千島列島と日本は、最も不安定な地殻変動地帯の一つを形成している。 カムチャツカ自身には、中央に死火山の連峰からなる主要山脈があり、その東側に十二の活火山からなる二次山脈がある。噴火にともなう地震津波によって、イテルメンは、山に悪霊が住みついていると信じるようになった。従って、これらの山に登ったり、温泉や間欠泉のある地域に入ることは、危険で罪深い行為と考えられた。多くのシベリア民族と相違して、カムチャツカの先住民には特異なシャーマンがいなかった。また、宗教的な儀式を執り行なう年とった男女は、特別な服装を着ることも、太鼓を打つこともなかった。彼らは夢をとても大事にし、コラクのように、幻覚の誘因となるキノコのハラタケを、宴会で食べる習慣があった。

イテルメンには首長も部族的組織もなかったおかげで、鉄砲を手にしたアトラソフのコサック隊は、地域的不和を利用して、一つ一つ容易に抑えることができた。住民が侵入者への服従を拒否すると、侵入者は「彼らを攻撃し、恐怖を与えてツアーに屈服させるため、一部の人間を殺して、村に火を放った」。コサックは南へ探検を続け、遭遇した先住民を片端 から暴力で抑えつけた。しかし火薬と鉛が底をついてしまい、 目指していた半島南端をあきらめざるを得なくなった。そこでやむなく、彼らはアナディルスク要塞へ千百マイルかかって引き返した。こうして彼らは出発してから二年後に、大量のクロ テン、キツネ、ラッコ等の毛皮を分捕って、帰って来たのである。ロシア人からすると、カムチャツカのクロテンは、とても 豊富であっただけでなく、他地域のよりも大きかったので、きわめて貴重であった。サンクト・ペテルブルグへの報告で、ア トラソフは重要な情報をもたらしたことになり、彼はヤクーツ ク地区のコサックの長に抜擢された。」

 

「シベリア原住民の歴史−ロシアの北方アジア植民地−」  ジェームス・フォーシス/森本和夫    彩流社 1998.3.25 より引用…

 

ロシアはまだこの頃航路を開いておらず、基本的には陸路と川を船で東進し、出会う人々を片っ端からロシア皇帝への服従か?力で捩じ伏せられるか?を選択させた模様。

服従すれば毛皮を租税、拒否すれば一部を殺害し村を焼き払う…

まぁ中〜近世欧州の価値観は、そんなもんだろう。

スペイン,ポルトガル,イギリス,オランダ等が酷かった…とは言っても、ロシアも何ら変わりはしない。

航路上の大陸,諸島にやるか?シベリアら極東アジアにやるか?の違いだけ。

クローズアップされないのは、極辺境で、歴史に登場する地域でなかった為だろう。

弾薬が尽きたところで一度退却、代わりのコサックや官吏が派遣される。

非常に有望な毛皮用狩場であると認識はされた様だが、此後20年位はあまり国庫への毛皮の定期納入はされなかった模様。

そこは、一部が服従したとしても、長い運搬ルート上に何の危険が無い訳はない。

未遭遇の人々の襲撃らで、数百人のコサックや官吏が殺害された記録はある様だが、当然それより遥かに多い地の人々の命は奪われている事に。

一応、出立時点でピョートル大帝は、新征服地でのロシア人植民者による虐殺,虐待らを禁ずる指令公布していた様だが、ぶっちゃけそんなもん末端が守る訳は無い。

逆に襲撃を受けるのだ。

徐々に苛烈を増すのも当然に。

ここで、1706年にイテルメンや西南,東海岸らの氏族がそれぞれ反乱を起こす。

ここで、先のアトラソフがカムチャツカ半島へ再派遣され「イテルメンの逆賊に「懲罰」」を与える事に。

アトラソフはそのまま指揮をするのだが、コサックの配給の横取りや地の人々との密約でピンハネをした様だ。

その為、コサックが暴動騒ぎを起こしたり。それが原因で1711件にはアトラソフ他官吏2名が殺害され、二派のコサックそれぞれ自ら選んだ指揮官の元、勝手にイテルメンへの略奪まで始める。

そんな事から、1707~1714年は毛皮が事実上積荷が途絶え、新指揮官コレソフが1713年コサック反乱を鎮める迄の間、コサック集団での争いも含め混沌とする。

コサックにすれば、貢納を皇帝へ行えば(この時、ピョートル大帝はスゥエーデン遠征らで歳入が必要だった)恩赦や待遇改善が見込めるとして、混沌を利用して反撃を試みるイテルメンの村落を襲撃し続ける。

これらコサック反乱が鎮圧された後には、コレソフの後任者がイテルメンの中の協力者で軍編成し、他のイテルメン村落を襲撃。

結局、略奪や虐殺らが繰り返される。

1705~1715年でクロテン2万4千、5千のキツネ、460のラッコが乱獲され、有望とされたカムチャツカのクロテンは1700年代後半には激減の一途に。

そして、定期航路開設され、危険な内陸輸送は縮小、さらなる植民地化が加速する。

当然、カムチャツカ半島で収まらなくなる。

で、千島列島を南下し始める。

ここで登場するのがアイノ。

本書のこの章では、ロシアは本道迄達していないので、あくまでも千島に住む人々として描かれる。

 

「このつつましいオホーツク海航行の開始は、さらなる野心的な冒険の前触れであった。アトラソフの最初のカムチャツカ 侵入以来、カムチャツカの南端から日本の北海道までのびている三十以上の島からなる千島列島について、いくらか情報が集まった。これらの島のうち、最大のものは六十から百十マイルの長さで、多くの島は数千フィートある。火山に起源する 列島で、十の島は十七世紀から二十世紀までたびたび噴火を繰り返してきた。土着の住民はアイヌで、彼らは北方アジアの民族の間で、珍しく色白の皮膚をして、多毛で波を打つ黒髪である。また、彼らの言葉は、他のどの言語とも関連性がない。 アイヌ生活様式は、一般にイテルメンと類似し、列島最北の島と、カムチャツカ南端とを結んで、アイヌとイテルメンの婚姻がかなり進んだ。アイヌの間で、熊送りの儀式が高度に発達した。母熊が殺された時に捕らえられた幼獣を、二、三歳 になるまで檻で飼い、その後、祭儀に則って殺してから、儀式の宴で村人全員で食べるのである。多くの島に分散していたので、婚礼のような社会的行事があると、アイヌはボートを使って集落間の伝達を行なった。この風習は、訪問者を儀式化された戦闘的行為で歓迎する習慣とともに、大陸のシベリア民族よりも、太平洋諸島の間で典型的に見られる。一七一三年にコサックの一隊がカムチャツカに最も近い島に渡ってから、ロシア人のアイヌ領土への侵入が始まった。そして、ヤサク 徴収人の食指を動かす新しい動物が犠牲となった。それは柔毛の多いラッコで、カムチャツカ近海とその近隣の島に豊富に生息していた。そのために、太平洋はロシア名で、最初ビーバーの海と名付けられたほどであった。このロシア人による初めての千島探検は、アトラソフを殺害した叛徒たちによって行なわれ、典型的なコサック式襲撃であった。二人の人質が誘拐され、他の盗品とともにカムチャツカへ送られた。島には、ヤサクとなるクロテンもキツネもいなかったので、千島の先住民たちは、ロシア人支配者のためにラッコを捕まえるように強要された。千島へのこの短い小旅行は、わずかながらも地理的情報をもたらし、ピョートル大帝の好奇心をかき立てた。彼は、北アメリカと東北アジアがつながっているのかどうか、もしもつながっていないのならば、その間にどのような土地、海があるのかという、十八世紀初頭の学問的課題に強い関心をいだいていた。そこでピョートルは、ロシア帝国の領土拡張をも目論んで、極東からアメリカを発見するという、とてつもない探検の夢に取りつかれていた。」

 

「シベリア原住民の歴史−ロシアの北方アジア植民地−」  ジェームス・フォーシス/森本和夫    彩流社 1998.3.25 より引用…

 

この好奇心からベーリングが派遣され、ベーリング海峡らが「発見」される。

同時に、航路さえ出来れば、カムチャツカをベースとして、危険な陸路より船での運送が可能になる。

基本的に同じ搾取型統治を広げた為に不満が募り、1731年、それまで協力で火器操作を覚えたイテルメンが反乱を起こしロシアにダメージを与えるが、反撃でこれを徹底的に粉砕、懲罰名目で虐殺とカムチャツカ半島への強制移住を行う。

そこまでの入植らで持ち込まれた疫病も合わせて、1697~1738年迄でイテルメン人口は45%減少したと記述がある。

何故、反乱を起こす迄に苛烈になったか?

簡単な理由だ。

派遣された軍,官僚が私腹を肥やす為に軍組織と権力濫用し、賄賂を送る,私的に捌く目的で、地の人々に乱獲強要。

同時に拒めば妻子を誘拐し、奴隷や売物、酷い場合はゲームの掛けにしたとある。

鎮圧後に反乱調査は行われて、アンナ女帝は圧政側は処罰、財産返却と奴隷開放(キリスト教に改宗していない者)を命令する。

カムチャツカの混乱が収まると、千島列島への南下が本格化する。

最早クロテンは捕りつくし、ターゲットはラッコへ変わる。

で、前項に有るように、服従と毛皮での租税、ロシア正教への(名目上であれ)改宗が行われていく。

同時期、北海道側も場所支配人らが、国後場所開設らで北上していたので、板挟みとなる。

1742年迄のイテルメンの反乱の粉砕で、ほぼカムチャツカは征服され、千島がそのフィールドとなった事で、ツキノエが場所とロシア商人を天秤にかけるような行動が取れる様になった様だ。

ここから先は前項を参照戴きたい。

カムチャツカでのイテルメン集団、百年足らずで純血的な者はこれら混乱で居なくなっていたようだ。

同書では、派遣されたロシア正教司教も官吏側として暗躍し、教化名目で暴力行為らは容認していたとある。

前項の占守島の教会建設にあたった修道院長らも、単に教化やってただけじゃなく、元の宗教儀礼を否定したり、世俗事件に積極関与してるとある。

学校建設も驚異的は速度で行うが1780までに廃校になり、実運用されたかは不明。

地の人々にすれば、救いが無い状況。

で…

 

「オホーツクからの航路が確立してから、すべての活動でカムチャツカは島として扱われたが~中略~広い海洋によって、政治的首都から切り離されたわけでは決してなかった。それにもかかわらず、そこは、歯止めのきかない植民地統治が高度に発達したロシア帝国の海外領地であったソヴィエト・ロシアの公式歴史家さえも、「遠く離れたカムチャツカでは、シベリア東西の地方行政で執行されていた最小限の統制すらも欠如していて、特に行政による圧政と強請は、目を覆いたくなるほどであった」と述べている。」

 

「シベリア原住民の歴史−ロシアの北方アジア植民地−」  ジェームス・フォーシス/森本和夫    彩流社 1998.3.25 より引用…

 

おいおい…

あのソ連時代の公式歴史家が肯定出来ない程酷いレベル…

一応…

ソ連時代に文献上、西側諸国がやった様な搾取や弾圧はしていないと記述しているらしいが、同書ではそれは最大級の粉飾だとしている。

が、大衆の目につかない学問レベルでは、ソ連お抱え学者達が絶句する程酷かったと。

 

さて、同書の著者も論文らを集め同書を著している。

何箇所も引用文を記している。

まだ全文を読んだ訳ではないし、この一冊が全てではない。

この章には本道の記述はなく、本道の状況は解らない。

が、前項の如く、1700年代半ばから事件が起きる様になり、白人部落の移動や宗谷への襲撃らが起こるのは読んで戴ければ解る。

その前後の北海道の動きとは合致してくる。

自分がその立場に置かれた時にどうするか?

引用文にある通り、カムチャツカにはイテルメン、千島にアイノ、接点となる北千島では混血…

お互いに行き来していたのは解る。

その縁故あるイテルメンが眼前で蹂躙されていた…情報は入るだろう。

対して、生業として交渉を持つ北海道は北前船就航後に活況を帯び、労働力募集中…

自分達は船を持つ…

そりゃ先祖伝来の農地でもなければ、筆者でも逃げる事を考える。

人口移動はその地に必ずインパクトを与え、その反動は人々の行動に反映される。

 

先述の通り、一つの書物で何が決まる訳ではない。

こんな視点もある。

まぁゆっくり学ぼうではないか。

同書を読む手は止まっている。

筆者は文献を読む時は感情を殺す。

だが、これは酷い。

これを読むと、現在進行形のウクライナを想う。

何故、彼らが戦うのか?

ロシアやソ連がやった一端がこれなら、そりゃ生き延びる為に戦う、イテルメンの様に。

これでもロシアを擁護出来る人の方が理解不能

あくまでも個人的感想…

 

 

 

参考文献:

「シベリア原住民の歴史−ロシアの北方アジア植民地−」  ジェームス・フォーシス/森本和夫    彩流社 1998.3.25