https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/24/092024
さて、ボチボチ本命に進んで行こう。
この項でちょっとだけ触れたが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537
「実は、本書まとめの章では、各土坑墓はその方向から、北に位置する「ヲチャラセナイチャシ」の方角を向くとされる。」
これだ。
ヲチャラセナイチャシは、「ヲチャラセナイチャシ跡・ヲチャラセナイ遺跡」の発掘調査報告書内に記載がある。
関連項では「トリ」としていたが、あれこれ発掘調査報告書も増えてきてるので、敢えて「本命」としておく。
ヲチャラセナイ遺跡では、一度目の発掘では平地建物跡や後の発掘では土壙墓とこの辺の遺跡の中核となりそうな雰囲気なので、まずはチャシから報告しよう。
一応、今迄チャシで取り上げてきたのは
第二遠野チャシ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/15/120448
ユクエピラチャシ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208
シベチャリチャシ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/05/180013
瀬田内チャシ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949
島牧のチャランケチャシ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/30/142801
一連のユオイ&ポロモイチャシ&二風谷遺跡…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
ついでに中世城館、つか防御性環濠集落と言うべきか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
もっとついでに、北東北の中世城館の石積みの傾向…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651
サラサラと。
筆者の古書の買い方はかなり適当で、その時あるもの…がメイン。
その割には、有名どころが並ぶか。
勿論、こんな断片だけで全体像が掴めるハズはない。
まぁ違いがあるとするなら、北東北以北として東北目線で捉える事が可能な程度。
こちらで現物確認していたり、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/02/204631
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/02/203302
仮に防御性環濠集落が発端とするなら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137
その行き着く先にある規模や構造の「鬼クラス」を拝んでしまっているので、余程じゃないと驚きはしない。
比較が可能な点だろう。
その辺の定義がどうなのか?含めて学ぶだけである。
さて、このヲチャラセナイチャシは「日本城郭大系1」に記載が無い。
なので、発掘調査報告書から直接いく。
では基本層序から。
0層…撹乱・耕作土
Ⅰ層…表土
Ⅱ層…近世火山灰層
aは1739年のTa-a(樽前山)、部分的
bは1694年のKo-c2(駒ケ岳)、部分的
cは1667年のTa-b(樽前山)、15cm程度…
としている。
Ⅲ層…黒色土層
aは砂質シルトが混ざり1cm程度、近世土層。
bはシルト混ざりで5cm程度、U,Mが中~近世、Lが古代~中世、その下方に白頭山-苫小牧火山灰層(946年降下)が1~2cm部分的にある。
cは砂質シルト混ざりで10cm程度、遺物らより縄文後期~続縄文~946年迄の土層。
注目している層序はここまでなので、以後割愛。
この辺、Ta-bの被覆とⅢ層a~bが6cm程度と言うのは、この一帯共通。
発掘は、調査員立会でバックホーで樹根を残しながらTa-bを3cm程度残す迄剥ぎ取り、Ⅲ層上面迄はジョレンを使い人力で掘り下げ、そこから更に移植ゴテで1~2cm毎掘り下げたとある。
では、どんなものか?
舌状台地の先端に築かれ、東側がその斜面(直上測量図,呼称区分図の「下」)で、舌状台地先端に1条の空堀で区切られた単郭である。
一応、このヲチャラセナイチャシの東斜面下やカラー写真の林の部分がヲチャラセナイ遺跡になる。
規模は、全体が約26m×24m、郭が約20m×19m。
壕は二期に分かれ、U型に掘った(壕A)に壕Bを追加掘りしてC型に拡大して、内部に郭を形成する。
郭内にA~Eの5つの土塁とその中心付近に一棟の平地建物跡と思われる柱穴跡,溝跡と中央に焼土跡を検出する。
この焼土跡も、壕同様、新旧がある模様。
では詳細を…
・壕…
基本U字型に堀り込まれる。
Aは長さ約59m×上幅3.0~3.6m×底幅0.7~2.0m×深さ約1.3m、BはAに長さ約9mが追加される。
掘り込みはⅢ層bと考えている様だ。
壕の中に柵列や焼土らは無い模様。
・土塁…
A~Cは基本的に壕Aの掘り込み土(下からⅢ→Ⅳ→Ⅴ→Ⅵ→Ⅶの順に積み重ねられる)、D~Eは壕Bの追加掘り込み時の掘り込み土を、壕に沿って三日月型に盛っている様だ。
土塁直上からは、鉄鏃,袋状鉄斧×2,鹿歯列(保存状態不良)を検出。
柵列らは無い。
・平地建物跡…
柱跡が19本、その内主柱穴は8本で、主柱は径約20cm×60×100cmの打込式且つ外踏ん張り構造で、柱穴跡に合わせた外側溝跡から建物の規模は約7m×5.5mである。
焼土跡(付属炉)は、土塁底面と土層一致で概ね重複しながら二層に分かれ、フローテーションの結果ではムギ,ブドウ科,ウルシ属,コナラ属の炭化種子が得られ、C14炭素年代はAMSで13世紀(1200年代)前~後半(1σ)が得られたそうだ。
その他、炭化材(上屋や壁の構造材?)を南~東壁と中央炉跡付近から検出、失火か故意かは不明。
炭化材の種類はトリネコ属、C14炭素年代はAMSで13世紀(1200年代)前~後半(1σ)が得られたそうだ。この炭化材土層には一片だけイネの種子が混じり(これは未測定)、採取土壌がⅢ層bの内の擦文文化期土層の黒色土と概ね一致する様だ。
遺物は、金具片×4、刀子茎×1と礫である。
また、遺物の礫は集中区を成し2箇所(被熱痕有り)、土塁の土留と思われる溝跡、主柱穴以外の柱穴は径約40cm、深さ1mを超える打込式の様だ。この内の柱穴列Aの柱材が炭化材として2点採取出来ており、AMSで共に12世紀中頃~13世紀中頃が得られており、平地建物跡より若干古い事を想定している様だ。
さてでは、このチャシの年代だが…引用しよう。
「現場の所見では、炉跡上面の黒色土の厚さから中世段階のアイヌ文化期と想定していた。現段階では出土遺物で年代が明らかなものはないが、出土遺物1は形態等が特徴的なものであり、今後の資料調査で時期が特定されるかもしれない。前述したように炭化材及び種子の年代測定結果からは13世紀前半から後半にかけての年代が得られており、現場段階での所見と矛盾しない結果である。但し従来のチャシ跡研究の年代観よりも1世紀以上古いものである。 」
「今回の調査では、本チャシ跡に伴う施設やチャシの構築方法とその手順の一部が明らかとなったが、課題と問題点も残された。本文中で記載することができなかった問題点についてここで記載したい。それは柱穴列と内郭平地式建物の関係である。これらは柱心で線を結ぶと、非常に近接し、北西の角付近では一部重なってしまうのである。壕及び内郭平地式建物の炉としたものは新旧2時期が確認されていることから、柱穴列Aと内郭平地建物も同時期のものではなく、新旧2時期に分かれる可能性もある。 その場合、内郭平地式建物跡は焼失した際化材が乱されていないことから、柱穴列Aが古く、内郭平地式建物跡が新しいと思われる。この場合1期目はU字状の壕で、土塁に囲まれた中には上屋のない、板等で三方向を囲まれた状態を想定され、2期目はC 字状の壕で、土塁に囲まれた中には平地式建物があり、それぞれ中央に炉があったと思われる。また、それぞれのAMS年代測定の結果では、住穴列Aの柱材2点が共に12世紀中頃~13世紀中頃で 内郭平地式建物跡の上屋材2点が12世紀後半~13世紀後半の結果が得られており矛盾しない結果が得られている。
本チャシ跡の機能については、本調査の担当者の一人である乾氏が「精神儀礼に関わる遺構」(乾 2011) として想定しているように、同様の見解である。また、この中で上梶内モイ遺跡の文文化期の円形周溝遺構 (厚真町教育委員会 2007), 富里2遺跡の同じく擦文文化期の区画遺構( 教育委員会2010b) がヲチャラセナイチャシに繋がっていたのではないかと述べている。
年代については発掘調査時の所見では、1,667 年降灰の樽前b火山灰に覆われており、この火山の直下とチャシの構築面の黒色士の厚さから中世段階のアイヌ文化期と想定していた。上述した年代測定の結果と炉跡の炭化種子から得られた年代では12世紀中頃~13世紀後半である。 従来考えられてきたチャシ跡の年代観よりも古いが、現場段階の所見とも矛盾しないことから、現段階では妥当なものと考えている。但し、本文中にも記載したように、炉跡から出土した遺物で、類例の検索が十分果たせていないものがあることから、これの結果を待って判断したい。」
「ヲチャラセナイチャシ跡・ヲチャラセナイ遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書5-」 厚真町教育委員会 平成25.3.25 より引用…
報告本文とまとめのヲチャラセナイチャシの部分である。
さて、上記を要約すれば、
・チャシ第一期…
壕→壕A(U字型)
建物→柵列と板で構成され、中央に付帯炉
時期→12世紀(1100年代)中頃~13世紀(1200年代)中頃
・チャシ第二期…
壕→壕bを追加(C字型)
建物→平地式住居
時期→13世紀(1200年代)前~後半
と、なる。
さて、わざわざ筆者は世紀表現に西暦をつけてみたのだが…
陶磁器ら編年指標になる物が無いので、炭素年代での測定が手掛かりとなるのだが、これ平安後期~鎌倉期位の年代だと解って戴けたであろうか?
ユクエピラチャシでの測定年代が、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/19/202122
概略西暦840~1310。
遠矢第二チャシの年代は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/15/120448
木炭2点のC14炭素のB.P.年代は970,990年頃。
ここはMe-a(1)に被覆されるので、西暦1390年より構築年代が下る事は有り得ない。
これを北東北の実績と整合すれは、防御性環濠集落が作られた時期からそれを経て、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410
大鳥井山柵が運用された時期が概ね11世紀(1000年代)中頃~12世紀(1100年代)後半。
上記チャシの年代の内…
構築若しくは炭化材でみる運用時期(つまり第一期)は、防御性環濠集落~奥州藤原氏の時代、又はその直後位と大体一致してくると言う事に。
それなら解る。
皆さん大好き「新羅之記録」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/25/193945
糠部,津軽から渡った人々…
元々、北海道と行き来があり、防御性環濠集落を作って居た人々。
土塁,空堀構築技術は持っている。
つか、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/10/210140
古墳群を作った人々が先に北海道入りしているではないか。
擦文文化とはそんな風にして出来た文化だ。
構築技術を持っている人々が渡れば、そりゃ同じものを作る事は可能。
中世城館の中には、この防御性環濠集落に手を入れて拡大した事例はある。
第一期の初期構築者と第二期運用者が違う事はあるのだ。
まぁ遠矢第二チャシの実績だけならば、中世に運用した人々は土塁,空堀に手は入れてはいない…と、言う訳だ。
平成に入り、徐々にサンプリングや測定精度が上がって来た科学分析結果の断片から言えば、そんな事も考慮しておく必要はあるのでは?
こんな事例で良いなら、
幾らでもあるんだが。
元々、吉田菊太郎翁らの歴史認識は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509
津軽海峡を挟んだ同族の内、同化が遅れた人々…ではないのか?
大体、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631
歴史区分や定義は決まっていて、アイノ文化期としてる?
12世紀(1100年代)中頃~13世紀(1200年代)後半でアイノ文化が始まったと定義出来るのか?
東北でも平地住居化が始まるのは、平安末位から徐々にだと思うが、何処が違うのか?
北海道は土層の積み重ねが遅いのはもう捉えているんで、時代が重なり兼ねないのは把握済。
まぁ、地方研究はそれぞれを尊重するのが礼儀。
科学分析結果が積み重ってくれば、その辺の矛盾は解消されて来るだろう。
まぁゆっくり事例を見ていこうではないか。
まだ、チャシも学び始め。
これからこれから…
参考文献:
「ヲチャラセナイチャシ跡・ヲチャラセナイ遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書5-」 厚真町教育委員会 平成25.3.25