「対雁に移住した樺太の人々達はどんな暮らしを?…東大英語学者「ジェームズ・メイン・ディクソン」のレポート」…
明治段階での西洋人のレポートをもう一件しよう。
関連項は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012
「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…
馬である。
と言うか、この資料集には「A・H・サベージ・ランドーア」と言う人物が1890(明治23)年に北海道を独り旅した時のレポートが記載される。
函館→室蘭→沙流→十勝→釧路→厚岸→根室→千島→斜里,紋別→宗谷→石狩、と周遊しているが、訳部分は29章ある内、釧路〜斜里,紋別の5章だが、その中に厚岸→根室での駅逓の中で、どんな馬具が使われていたか?の記述が載っており、非常に興味深い。
ぶっちゃければ、
こんな形。
我々がイメージする轡の形をしていないし、材質も木製。
では、その馬についての記述を引用してみよう。
「私が、約八哩(筆者註∶8マイル)更に東方にある次の駅であるリルランに向って、わが道を進めなければならなかったのは、このような深い海霧の中に於てであった。道路は、間もなく只の踏み分け道になって、主に草原地帯である、うねうねと波うつ土地を通って走っている。回り合せがそうさせたのであろうか、賃借りした私の馬は、リルラン駅逓に所属する馬であり、それは私の思いと同じく、其処に行きたいと熱望しているようであった。馬は道を知っていたが、私は知らなかったので、馬の案内に任せたのである。時々、風が加速度を加えて吹き、海霧がその僅かの間だけ吹き飛ばされて、美しい景色がいくらか目に入った。周囲の土地は、総て草地で、見馴れた鬱蒼たる樹木の岡が背景をなしている。」
「岡から岡へと昇り降りがつづき、丈夫な小さい馬は、自分の以前の故郷に、調 子よく進んでゆく、だが、私は生きているものには、何一つとしてまだ出遭って いないのである。此処では、この暗黒色の肥えた土地で働き、耕す労働者はいな いのである。馬鈴薯畑、自分たちの野菜畑の構想をもった小屋、緑の牧場の上に 撒き散らしたような牛と羊−全てが力強くて、有效な農耕の象徴であるが−は、 エゾ地へ向おうとする旅行者たちが、期待はずれで、失望する事物にほかならな い。どこもが、孤独で単調である。」
「前略〜馬のいななきは、私がリルランの駅に着いたことを告げた。 そして数分後には、私の荷物と荷鞍は、湯気を立てている四足獣からとり除かれ、次いで新しい馬が私の携行品を背負わされた。この様な駅逓は、通例その所有者と家族の住む一戸の小屋から成っている。小屋の傍らには、水平に並べた木の枝と幹で作られた一つの粗末な囲いがあって、処々地中に埋めた木で補強してあった。馬は、日中この囲いの中に入れて置くが、夕方には外に出される。そこで馬たちは、食糧を求めて、それがある所ならどこでも−普通、近くの岡の上に−行くのである。早朝、駅逓勤めの数人のアイヌが、馬を再び捕らえるために出かける。そして、悪戦苦闘の末、馬の群を牧場につれ帰るのである。半野生馬の習性について、よく知らない読者のみなさんは、一旦拘束されない土地に自由に解放された馬たちが、みんなで奥地に逃げはしないか、そうすれば馬たちを再び捕らえることが困難になるであろう、と疑うに違いない。更に又、読者は、馬たちを全部回収するのは、アイヌの馬番にとって、さぞかし困難な仕事である、と考えるであろう。というのは、馬は一頭づつ、てんでんばらばらに、違った方向に逃げていると、恐らく想像しているであろうからである。しかし、これは事実でない。一群の馬が放されると、馬たちは常に決ってーしょに同一方向に行くのであるが、普通年長の馬たちの行くところに従う。そして、年長の馬の首には、鈴がぶら下がっているのである。馬たちが本来の餌場に来ると、全部の馬はお互い数嗎内に集って餌を食べる。そして、その群が必要以上には、一歩も群の外に出ないのが、好都合なのである。つまり、馬たちは一番恐ろしい敵である熊が、極めて近い岡に横行していることを、よく知っているのである。馬群の飢が満たされると、共に肩で押し合って円陣を造り、その中央に幼馬が置かれる。斯の様にして幼馬は、熊の害からよく保護されるのである。つまり、熊が四分の一程も接近すると、強力な自衛力をもつ後ろ足の蹄で、手痛い反抗を知らされることになるのである。アイヌは、優れた追跡者であ って、馬群がどの方向に移動したかを発見するのに、殆ど困難を感じないのであ る。この準備が確認されてから、馬番は、よく世話をして後方に置いていた速い馬にまたがって、日の出の約一時間前に駅逓を出発したのは、日の昇るまでに の群に行きつくのに充分な時間をとるためであった。彼は、自衛の円陣を作って いる馬を発見した。長い杖でその列を分けて、大声で叫び、あちこち荒々しく馳け回って、馬たちを追いつづけ、囲いの中に入れたのである。馬が全部囲いの中 に納ると、一本の重い木製の横木が、二段になっている二本の棒の上に置かれる が、こうしたものが入口の各々の側に一つづつあって、馬の出入りを閉しているのである。そして、馬たちは終日こゝに止め置かれて、この海岸に沿って馬を必要とする人や商人の需要を待つのである。
駅逓の多くは、日本人かアイヌの混血者の所有のである。その周辺地区の必要性によって、あるものは多数の馬をもち、あるものは僅かしか所有していない。 一頭の平均市場価格は、5円乃至10円であって、英国の通貨にすると、ほぼ15志(筆者注∶英国通貨のシリング)乃至30志である。
駅逓の馬は、僅かしか労働させられないので、時には少額の金で、よい馬が手に入る。しかし乍ら、大きい植民地の傍の駅逓−その辺では、他の村々との商売が、全て荷駄によって運ばれている−で は、大変気の毒な動物で、粗末な荷鞍の 震動のために生ずる、皮膚の傷の塊りを、背中につけているのである。更に、又仔馬を、時には40乃至50哩(筆者註∶マイル)の遠距離間を雌馬の後に従わせる可哀そうな習慣は、見ていて胸の痛む光景であるばかりでなく、飼育上有害である。エゾ地の馬は、 長い体毛と、たて髪をもっているのが特色である。馬の背丈は低く、頑健で、ず んぐりした動物で、10乃至12掌幅(註釈 馬の高さを計る尺度、4吋)以内の多少大型でどっしりとした頭と太く曲がった脚をもっている。彼らは、決して外観はよいといえず、手入れもされていない−実際、全く手入れをされていないといってよい−で、北海道の粗末な道路と嶮しい荒地に、立派に役立っているのである。 従って、その馬たちは、わたしたちが自分の馬に要求する特質は、何一つもっていないけれども、馬たちの住む地方に適応させた特色を持っているのである。彼らの巨大な耐久力、ほとんど足で登りえないような最も嶮岨な道を越えてゆくことのできる不思議な技倆、そして絶壁にそって進む時の確実な歩み、波が通行不可能にし、私たちの良い馬では脚を挫かずには、進みえない岩石の海岸上に、その道を掘って進む驚くべき能力が、天賦の才能の全てであることを、エゾ馬の名誉のために附加して置かなければならない。馬たちは、蹄鉄をつけていず、又 殆ど訓練もされていない。実際上、もし旅行者が熟練した乗り手であるならば、完全に条件の揃った馬を手に入れるのが得策であろう。それは、私の経験から言いうることがあるが、騎馬がたとえ多少刺戟的であろうとも、進行のためにかなりの鞭うちを要する。使い古して、背中に傷ついた“安定した馬”よりは、総体的に完全な馬と行を共にする方が、間違なく快適な旅を約束されるのである。」
「馬を制御するために、珍しい方法がとられている。それは、単純であるが、巧妙にできている。それは、馬を制御するのに必要な轡の代わりの役をするもので あり、長さ約12吋、幅2吋の2枚の木の棒で、その間3時を置いて、一端を共に縛っているものが轡の代りに装置される。この棒の真中には、一本の紐が通っていて、それは馬の頭の耳の後方に通っているのであり、棒自身はこの様に保持され、鼻の両脇に1つづつ密着しているのである。もう1本の紐は、5呎乃経6呎の長さで、手綱として使われるものであり、 棒の片方の下位に固着されていて、 穴を通して他方に至っている。この様に、簡単な考案は、挺子の原理に基いて、丁度クルミ割り器かクルミを挟むように、馬の鼻を正確に締めつけるのである。 この構造の欠点は、手綱が1本しかないために、右又は左へ向けようとする度に、 調が馬の頭上を行き来しなければならないことである。こうして、手綱を強く引 っぱると馬の鼻を圧迫し、頭は引っぱられた方向にむけられるのであり、その結果、馬は直ちに自分の行き可き方向を知ることになるのである。又、馬が走り出 したならば、頭を尻の方向に引いて止めることができる。つまり、馬が続けて走るのを、やめさせることになるのである。この場合、屡々、殊に訓練されていない馬の場合に起こるのは、馬が頭を体の側から押し出して、ねじれた首を真直に直そうとすると、円形に疾走することになり、その結果は、大底馬と乗り手の双方が、ひどい倒れ方をすることになるのである。
又、もう一つ注意を要するには、足を獰猛な歯の到達外に置くことである。というのは、人間が動物を罰する代りに、動物の方が人間に報復することが、稀ではないからである。そして、不注意な旅行者は、シドニー・スミスの意見を悟り、 英国の馬車馬に対すると同様に、エゾ馬に対して"すべての肉は草である”事実 に気づくことになる。」
少し拡大してみると、
こんな使い方をしている。
まぁあくまでも、明治23年段階での話ではあるが、近世,近代でも馬具らしいものが出土しない理由は「木製且つ構造が違う」と言う可能性もある事になる。
案外、仮に出土していても、こんな単純な板であれば「轡」と考えるであろうか?
勿論、これが何処迄遡るか?、どんな地域迄広げられるか?も未知数だが。
ただ、これは言えるのだろう。
本州にして、北海道にして、牧を作ったとして無理に柵を設けて閉鎖空間を築く必要は無かったと。
熊なり絶滅したニホンオオカミなりに警戒した馬は集団行動をとりチリヂリバラバラになる事はないので、早馬一頭だけ手元に置けば一箇所に集める事は可能だったと。
で、懐く事をせず、自らの意志で何処までも踏み分け走破し、荷物を積もうが疲れる事を知らぬ馬…
まるで平安の昔の「尾駮の駒」そのものではないか?
特に軍馬はサラブレッドの様に整地された馬場を走る訳ではない。
「鵯越え」すらやってのける踏破性を求められるだろう。
サーキット専用のF1マシンでは役に立たない。
むしろ必要なのは、ラリーマシンかラリーレイドの4WD。
トップスピードより、砂漠だろうが砂利だろうが岩山だろうが駆け抜ける能力の方がより必要。
舗装路を走る訳ではないのだから。
そんな軍馬を手に入れたら、極端な話、騎馬軍団を通す為の道を予め作る必要すらなくなる。
尾根伝いに国境を越え、電撃戦を仕掛ける事すら可能。
背後から高速戦車に襲われる事を考えたら、より高い場所に監視台を作らなければ陣地保持なぞ不可能。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501
「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…
だから言う。
平安此の方、軍馬に求められる特性を熟知している当時の武将が、こんな城館を築城するか?
安東氏の最大の敵は「南部氏」。
陸奥馬を投入されれば、上陸戦に気を取られる内に、背後から襲われ瞬殺される。
守れるハズもなかろう。
だから構造が???なのだ。
何せ、自分達が馬を使っている。
同じ「武器」を想定しないハズかあるのか?
ましてやこの轡であれば手綱は一本。
常に片手は空いているので、刀剣や薙刀,槍を振り回せる。
如何であろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208
「時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?」…
中世でも轡と思われるものはあるが、それは権威者たる武将だけ装備すれば良い。
自ら進むルートを決められ、集団で行動可能な馬あらば、あんな轡でも良いかも知れない。
少し、思い込みを止め、柔軟に考えるべきなのかも知れない。
参考文献∶
「ひとり蝦夷地をゆく −釧路・根室・千島・北見の部−」 A・H・サベージ・ランドーア『アイヌ民族・オホーツク文化関連研究論文翻訳集』 北構保男/北地文化研究会 2005.10.20