対雁に移住した樺太の人々達はどんな暮らしを?…東大英語学者「ジェームズ・メイン・ディクソン」のレポート

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440

「この時点での公式見解-30…旧「旭川市史」に記された北海道の教育創成記の実態 ※写真追加」…

これを前項に、古代〜中世から少し脱線しよう。

ちょっと欲しい古書があったが3冊SET、この際と思い購入したが、欲しい文献とは別の文献の中にJ・M・ディクソンが明治の北海道で見聞したレポートが記載ある物が含まれていたので紹介しよう。

紹介文から検索すると、どうやら「ジェームズ・メイン・ディクソン」と言う方らしい。

多分、大学で文学系を選考された方は知ってるのだろう。

明治の東大で1880年から12年間英語学を教えた方で、我が国の英語学に多大な足跡を残した方と。

ググってみると…どうも「夏目漱石」や日本の英語学の第一人者「斎藤秀三郎」にも英語を教えたと。

とはいえ、元来文学系に全く興味無く、学も無い筆者にとっては未知の人物。

その辺、興味ある方は個々に確認して欲しい。

このレポートは「対雁アイヌ人」といって、1875(明治8)年に千島・樺太交換条約の折に対雁に移住した人々の元に1882(明治15)年に本人が出向きインタビューした内容。

移住から約8年後の姿としている。

これが「明治大正期北海道写真集」にある移住者に割当られた漁場の写真。

前項にある、住民の希望で建設された学校の開校式が明治11年なので、その4年後になる。

白瀬南極探検隊に参加した「山辺安之助」もここの出身。

関連項として、移住時に関与した人物の一人が「松本十蔵」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/06/101544

「サムライ魂を持つ助っ人…極近代の札幌と鶴岡の関わり」…

対雁に拘る黒田に対し、なるべく樺太に近く漁業に専念させるべきとした松本とが意見の衝突、松本は職を辞して故郷鶴岡へ帰郷する。

鬼と言われた「酒井玄蕃」を擁し幕末最強とも言われた庄内藩、明治に入れば逆賊扱いを払拭される為の努力は並大抵ではなかった事は、サムライシルクの逸話や関連項にある札幌桑園開墾への助っ人にも滲み出る。

 

前置きはこの位にして、本題に移ろう。

①序文より、古老の首長は移住をどう考えていたか?

 

「ッイシカリ(対雁)は札幌市から約12哩ほど東方に位置している、平野の中の小集落であり、そこに植民しているアイヌ人は、サハリン即ちいわゆるカラフトからやって来た人々の一集団である。彼らが日本政府の勧めにより故郷の島をあとにしてから、約8年を経ている。老齢者たちは、ここに移住した、1875(明治 8)年以前の時代について、痛惜の念をもって語っている。つまり樺太の河川と海浜は、石狩の河流や流入する海港よりもいっそう大型で、良質の魚族が豊かであった、というのである。1863 (文化3) 年から同75(明治8)年まで、日本はサハリンに於ける国境問題についてロシアとの間で決着をつけるよう努力し、北部千島諸島をサハリンの領有部分と交換することで終結させた。1875 (明治8)年日本は、この地に定住したいと希望する かなり多数の日本所属サハリンアイヌ人たちを、石狩河岸の土地に居住することを許容したのである。7~8百人が到着して、石狩川の河口から約12哩溯った豊平川石狩川との合流地点に、自分たちの藁ぶき家屋を建設したのである。彼らの首長(オテナ)の名はチコビルと言い、今では老人となっているが昔のことを非常に悔んでいた。彼の家は、他の同族に比較してもけっして勝ったものではない。つまり簡単粗雑の点でそうであって、ただ少しばかり大きいというだけである。一種の鳥居、つまり出入口が、その区別に役立っているという唯の一点だけである。」

 

レポートはここからスタートする…

あれ?、いきなり気になる点。

実は ディクソン の紹介文では、

「この樺太アイヌ人の対雁強制移住は、明治政府の失政の一つとも言われるが、学者の調査としては数少ない貴重なものとなっている。」

とある。

時はまだ我が国に於ける西洋式学問の萌芽期であるので、数少ない西洋人学者による聞き取り調査であった事は間違いなさそうで、対雁移住直後の姿のレポートは極貴重になるのだろう。

で…

紹介文上では「強制移住は明治政府の失政の一つ」としているが、ディクソンはそんな事は書いてはいない。

「この地に定住したいと希望する かなり多数の日本所属サハリンアイヌ人たちを、石狩河岸の土地に居住することを許容した」…であり、

・元々日本に帰属

・北海道への定住希望者

・居住を許容した

と、ハッキリ記載している。

よく出る「強制移住」とは全く書いてはいない。

少なくとも調査するにあたり、ディクソンはそういう認識だった事になる。

改変したのは誰か?…学者の言う事を認識改変するのは「学者」になるだろう。

まぁこの辺は地方史書を紹介する度に言うが、史書も論文も何時誰が書いたのかは記載が必ずある。

つまり論調の変化が何時誰の手により行われて、それが一般化されたかは辿る事は可能。

政治系の発信をされている方々が何故それをやらぬか?…これが我々には理解不能なのだ。

まぁ、置いといて…

古老の首長は、移住を後悔しているとある。

ただ、その理由は「樺太の方が漁場が豊かで、大きな家にも住めた」からの様だ。

但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/07/133243

「この時点での公式見解-35…新旧「旭川市史」にある石狩川の特異性とその背景にあった「北海道労働環境の変遷」への説明」…

この時点で既に石狩川の資源は枯渇気味になってきていたのはこの通り。

割当の漁場の写真は前述の通りで、周囲に割当られた漁場とそんなに変わりはしない。

本書で読む限りでは「希望して移住はしてみたものの、思ったより豊かになれない」事を悔やんでいる模様。

まぁ折衝の一端は松本が担っていたから、黒田と衝突したのは理解可能だろう。

逆賊の汚名返上に遁走する松本が、樺太の人々の意見を聞かずに動くと思うか?…と言う事だ。

 

②容姿…

・男子…

高く形良い額と無邪気な顔つき、前頭部を剃り残りの前髪は後ろへ。

堂々且つ闊達で、人により底抜けに愉快。

戸外の生活をする英国人より多毛ではない。

・女子…

立ち居振る舞いは内気で尻込みしがち。快い哀調を帯びた音声と感情に満ちた黒い瞳を持ち、口の周りに入れ墨をする。

入れ墨の染色薬はハバの木(樺?)の樹皮や山桜の樹皮。

・服…

丈が短い事と袖が手首側にいくほど細くなる以外は和服によく似る。

材質はオヒョウで、色は淡白色〜赤褐色。

それとは別に外来布地で作った服を持つ。

帯は、

男子∶2∼3インチで先端にガラス玉をあしらう。

女子:金輪と貨幣が付く革製で、財布として使う。

男子は短い服の前にエプロンを掛け、脛当てと、冬は鮭革の靴、鮭革に毛皮を縫い付けた手袋を使う。

・武器…

木製で6フィートで、沙流の人々より長い。

矢は2.5フィート、山丹鉄平打の鏃で、見る限り毒は使わず。

剣(エムシ)や匕首(合口,マキリ)を持つ。

海獣狩りの際は銛を使う。

・煙草…

男女共に喫煙、特に女性は常に煙を吐く。

・楽器…

口琴は二種類、金属製と木製。

木製の五絃琴

ほぼ、女性が独占。

インタビューした一人曰く、「自分達はロシア歌謡を歌う事に慣れている」に対しディクソンは「西洋人と同じ音階を持つ」と考察する。

 

③生活…

・生業

本質的には漁撈民で、主食は米とすり潰したウバユリの根茎。

若干数が幌内へ伸びる鉄道の労働者や馬方、札幌近隣の低賃金の仕事へ就職し、漁撈を生活の足しにする。

鹿狩はしない(近所に見当たらず)が、熊狩はする。

武器は弓と鈍器の様な剣で、熊との対峙は誇り、「臆病」という単語がないそうで(沙流にはある)。

・住居

気になる点があるので引用する。

アイヌ人の家屋は、木の丸太の粗雑な構造物を草本の薬で覆って造られている。 それには普通玄関つまり入口が付いているが、時には水桶やその他の家財道具を収容するに充分な大きさをもつものがある。ここかしこの窓 (ブヤラ) から明かりの入る家の内部は、板を葺いた床があり、また煙の嗅いがしている。中央には薪を焚く火が燃やされる炉が位置し、その煙は屋根の開き窓 (ブヤラ)を通して 出てゆくのである。炉の傍らには煤で汚れた老婆が、キシェリ (煙管)を吸い、動くものすべてをじっと見つめている姿をみるに違いない。ちょっと離れた左側の隅には、家宝一漆塗りの容器 (シンドコ) や家族の所有する何か他の伝来の家財等が置かれている。その家宝の前は来客用の名誉ある座席である。いくつかのイナウォつまり木製の形象物が、恐らく炉の近くに打ち込まれているに違いない。

ひとりの老人の語ったことだが、ずい分以前サハリンでは、その同族はトイチセィ(土の家)と呼ばれる地下式家屋に住むのが例であったという。春になると 彼らはその地下式家屋を去って、霜や雪が再び彼らをして屋根で覆われた竪穴一 洞穴ではないーの地下の棲家に隠れ家を求めるまでの間は地上で生活することになるのである。類似の竪穴の遺跡は、今日もなお札幌の新しい博物館付近でみられるが、それがアイヌ人によって用いられていたか、あるいは更に先住の一民族によってなるものかは不確かである。

アイヌ人は陶磁器をほんの僅かしかもっていないし、またその所有する僅かのものも、日本人から入手したものである。彼らの自家製什器類は木製で、最も粗製の類のものである。匙、柄杓、魚や飯の容器、お盆、ウバユリの根茎を摺り潰す大型の枠と日等のものが、彼らの所有するほとんどすべてである。

アイヌ人の倉庫(プ)は地上から数呎(筆者註:数フィート)、柱の上に建て上げられている物置で、その下には犬橇(シケニ(筆者註:犬ぞり))が冬期間使用するために用意されているが、それは極めて幅が狭くほっそりした構造である。滑り木には骨が履かせてある。

プのように若干呎地上に建ててある熊の檻 (イソチセイ)は、幼い熊を飼育するために構築されているが、熊の極めて幼い時期にはアイヌ人の主婦は自分の乳を飲ませるのである。こうした仔飼いの熊は九月の熊送り祭において、正式な儀式によって殺されるのである。」

ちょっと羅列する。

A,「違いない」と2箇所出てくる。

「炉の傍らの老婆」と「炉の脇のイナウォ」だ。

この文ママなら、この二つはここには無かった事になるのでは?

B,「トイチセ」への言及。

まだこの時代は「コロボックル」の話が生きているのだろうが竪穴住居について札幌周辺にあると記述する。

で、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/13/185111

「時系列上の矛盾…明治の北海道民は、真の北海道の姿を知っていた」…

この様に明治期で竪穴跡の分布調査は行われ、それらが学術調査として発掘され出したのは大正〜昭和初期から。

擦文文化期…つまり奈良,平安期辺りを主にした遺跡であった事は発掘で解っている。

但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/16/184916

幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/02/201117

「本当に「竪穴→平地住居化はアイノ文化への変遷の指標」になるのか?…「新編天塩町史」に記述される幕末迄竪穴住居が使われたとされる事例」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/29/202212

「この段階での公式見解-31…消された竪穴住居「トイチセ」の存在」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848

「ゴールドラッシュとキリシタン-28&生きて来た証、続報39&時系列上の矛盾…松浦武四郎が記す、多くの金坑跡&穴居,畑跡」…

これらの様に、幕末位まで竪穴住居が使われたという話もある。

で、その実物を見て記述があるのは幕末〜明治頃。

これ、結構大きな問題かと思う。

アイノ文化開始の指標の一つが「竪穴→平地化」であるからだ。

この指標を用いれば、天塩や幕別周辺の十勝らは幕末迄が「プレ・アイノ文化」となろう。

で…

萱野茂氏が再現したのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902

「時系列上の矛盾…建築者「萱野茂氏」本人が記す、チセの再現過程」…

昭和初期の住居。

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…

建築系学術調査に対して、送付されたデータには「明らかに観光要素が入る」物が添付されている。

本当はどうなのだ?

文化化指標に出来るのか?

とはいえ、近世〜近代での竪穴住居を確認するのは少々難しいだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

「弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」」…

重機でぶっ壊していた。

まぁ、先へ。

C,生活必需品…

通常の食事らに使う什器は、木を削った自家製で、その他僅かな陶磁器や漆器らは本州側で作られたものとある。

また、樺太の人々は犬ぞりを使う。

D,熊の檻への言及…

所謂「熊送り」用の小熊を入れる檻の模様。

因みに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる③「樺太編」※1追記あり」…

1643年時点で、フリース船隊の乗組員が「熊の檻」に言及するのは、北樺太で見聞した時が初見。

さて、熊送りは何時本道へ?

伺った話では18世紀より遡れない様だが。

なら、これを指標とすればアイノ文化化は18世紀となってくるが。

陶磁器に関しては、少々不思議。

中世が陶磁器だらけなのに?

・生活,慣習…

家族は概ね4〜5人住まい。

男子の名前の付け方は、

昔…祖父の名の一説をとる

明治…父親の名の一説をとる

と変節し、一歳になった時に名付けられる。

結婚は男子二十歳、女子十八歳で、結納金無しだが、妻側が自分の衣服や什器を準備する事が期待される。

幾許かのお金は、先の女子用帯…

で、夫に先立たれた妻は、夫の兄弟か、居ない場合は最も近い親族に嫁ぐ…いや、ディクソンは「妾」として説明しており、正妻と妾間の差別はあるが少々で、子供達は平等に扱われているとしていて、ディクソンはこんな事例を対雁では14~15例聞いたとしている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/08/062222

「この時点での公式見解40…平取町史に記された「アイノ文化が一夫多妻」である理由」…

この慣習も良し悪しは別だ。

渡辺茂氏の解説も現代的感覚の過去への持ち込みと言う偏りがある。

同様に持ち込むなら、

夫に先立たれた妻が路頭に迷わぬ様に一族で面倒を見る…と見るか?

一族へ縛り付け、実家へ戻ったり他と再婚の機会を奪う…と見るか?

現代感覚なら、後者を取る方の方が多い気もするが。

歴史の解釈に現代感覚を入れたり、思想を入れるのは如何なものか?

だが、正式に教育委員会で発行した文書なのは事実である。

 

・病気や医療、葬祭

ディクソンは元来健康だとしており、不潔な為の疥癬は多数いるが、日本人が危険視している結核への罹患が極少ないとしている。

理由は胸板が厚いから。

あまり風邪の症状も苦しむ様子は少ないとしているが、むしろ恐れているのは水腫と痰、腫れ物の様だ。

水腫に関しては「習慣的のんだくれが蒙って」と記述する。

あれ?

水腫には、利尿剤投与と水,ナトリウム制限……塩?

治療は薬草や生薬を飲んでいる。

死者が出ると、巫術師が2(夏)〜3(冬)日付き添い世話をする。

死者へは水と米が捧げられる。

その期間が過ぎると、木製の櫃(鍋,椀,剣,イコロが副葬)に遺体を入れて、身内の者で森の奥まった場所や川の傍らの丈の長い草地に埋葬するとある。

ディクソンを墓に案内した「ヤノスケ」と言う人物は、案内した事を内緒にするよう懇願したそうで(バレると酷い目にあう)、外国人が対雁の人々の墳墓を見るのは初めてだと説明している。

ここは、墳墓を記録した本道との違いだとしている。

彼は事前に「ショイベ」「シーボルト」「イザベラ・バード」のそれら記録を確認していて、対雁→見せない、本道→見せる…この差を指摘している訳だ。

又、本道では死者の家は焼却するが、対雁ではそのまま跡取りが住み続ける差も指摘する。

因みに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033

「「アイヌブリな葬送」は虐待ではない…藤本英夫氏が記した「家送り」と、当時のマスコミの世論操作」…

本道は十勝での焼く事例。

申請すれば許可が出る可能性は以前はあった。

主に巫術師は中年男性で、太陽神、月女神、熊神、海の神、火の神、全般的な神に祈りを捧げ、その声により上記葬祭や医者として投薬したりする様だ。

・言語

対雁の人々は本道の人々の言葉は理解出来ない。

発音や単語にも違いがある模様。

自家製の什器も、対雁で入手したものを有珠に持っていき見せたところ何であるか?解らなかったとしている。

又、対雁の人々はロシア歌謡を歌えるが、ディクソンが前年に南樺太を訪れた時には、ロシア語習得に苦労する現地の人々にインタビューしている。

あれ?

その上で、この段階で英語学者から見て、対雁の人々は幾らか日本語に同化する傾向を見ている模様。

ぶっちゃけ、平取とはまるで発音方法が違う様だ。

とりあえず、こんな指摘。

それはこれとは別にレポートされている模様…

 

如何であろうか?

これは「日本アジア協会雑誌第11号」に掲載されたものを翻訳して資料集成したもの、当然各論文や地方史書に反映されているかとは思う。

また、また対雁移住前の状況を知る古老が存命の中で且つ移住から間もない状況でインタビューされた貴重な内容で無視出来ようもないだろう。

多視点で見るのを旨にしている我々的には「こんな記録もある」と紹介しておく…程度なので、これで全てでもない。

ただ、こんなレポートを読むと、少し現在巷で囁かれる話とはイメージが違うと思う。

あくまでも、1882年段階の対雁の状況はこうだとして「過去の復元」をしていけば良いのではなかろうか?

少なくとも、その段階では対雁の人々と胆振,日高の人々には、それなりの違いや距離があった事は読み取れるかと。

で、この人々から伝播,文化借用で観光要素が作られたのは、過去に複数の史書に掲載されていた処。

現在の教育委員会に関わる方々が知らぬ存ぜぬでは済まぬ事。

知らぬ、決まっていないと言ったら、そりゃ発言責任は発生する。

どんな内容にせよ「公的資金」で行われているのだから、地元住民に対する道義的責任は果たすべきと思うが。

 

参考文献∶

樺太アイヌ人 1882」 J・M・ディクソン  『アイヌ民族オホーツク文化関連研究論文翻訳集』  北構保男/北地文化研究会  2005.10.20

「明治大正期北海道写真集」  北海道大学附属図書館  1992.3.30