時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/19/202122
「史跡ユクエピラチャシ跡」より…これ、前項を書く時にどうしようか迷ったのだが、この際、備忘録としても含めて書いておく。
また結論から書く。
ユクエピラチャシから「馬具」の可能性が考えられる鉄器が出土している。

この写真の中央付近の輪っかの様な物だ。

「不明鉄器(図26-14~16)
不明鉄器はⅢ~Ⅴ層から一点、Ⅵ層から5点、計6点が出土しているが、図示したもの以外は小破片である。〜中略〜15は、馬具の可能性があるが、類例を見出だせなかった。24H区Ⅵ層出土(写真5-①)。〜後略」

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成14~16年度発掘調査報告書−」 陸別町教育委員会 平成19.3.30 より引用…

筆者も一目見たとき「あれ?轡では?」と思い、何も言わず「これ何に見える?」とメンバーに見せてみたが…やはり馬具じゃないかとの意見。
SNSでも出してみたが、馬具じゃないかとの話が出た。
発掘者の印象と同意である。
この24H区とは、B郭の縁に当たる。


この辺からの出土になるか。
確かにⅣ層があり、その何処かでこの不明鉄器があった事になるが、詳細は図示されてはいないようだ。
前項でも記載した通り、Ⅵ層はⅤ層(駒ケ岳C2火山灰)直下のアイヌ文化期遺物包含層。
駒ケ岳C2の降灰年代は1694年で且つ、最も時代を下ってもこの時期には既にユクエピラチャシが廃絶していたと断定される。
つまり、この馬具ともとれる不明鉄器は、1694年より前に持ち込まれた事になる。

さて、馬。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/13/150428
そして、駅逓制度。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/05/194001
室蘭市史によれば、北海道での駅逓制度の記述は1691年の十代藩主松前矩広公が奉行に対して通達したところから。
降灰は3年後なので、藩主指令で行われたとも言えるが、その項の様に紆余曲折はあった様で、陸別町がすんなり駅逓制度で通じたか?は微妙だろう。
ましてや、Ⅴ層Ⅵ層の境目で出土した訳ではなく包含層として捉えられているので、少なくとも1694年を「下限として」それより少なくとも遡る…という感じか。
つまり、駅逓制度が始まる前に既に、馬が持ち込まれた可能性が発生する。
勿論、何らかの理由(例えば鍛冶の母材)として持ち込まれた事も考えられる為に、言い切るのは危険ではある。
残念ながら、この不明鉄器についての記事は上記出土詳細を記した本文中のみで、同発掘調査報告書の「結語」の章には記述はない。
まぁ報告書を纏める上では、重要視されなかった事になる。

が、アイノ文化で馬の使用はほぼ語られてはおらず、これが馬具ならその点の見直しになるのだが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/10/180459
当然ながら、北上し、続縄文文化集団と擦文文化集団を構成していく陸奥蝦夷(エミシ)は、馬を飼育していた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
金田一説をとれば、口蝦夷陸奥蝦夷(エミシ)と同族なので、口蝦夷が馬を持ち込み使っていた…これは説としては矛盾はないのであろう。

さて、この不明鉄器は「馬具」なのか?
まだ、後の論文等には至ってはいない。
まだ馬の存在は、闇の中…


尚、忘れぬ様にここに付記しておく。
前項で書いた試掘段階で出土した「トンコリの糸巻き」も、B郭からの出土だとの事。
但し、層序らは記述なく不明。







参考文献:

室蘭市史 第三巻」 室蘭市史編さん委員会 平成元年三月二十五日

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成15年度発掘調査概要報告書−」 陸別町教育委員会 平成16.3.30

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成14~16年度発掘調査報告書−」 陸別町教育委員会 平成19.3.30

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成14~20年度整備事業報告書−」 陸別町教育委員会 平成21.3.27