https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/03/092411
前項をこちらとして。
ここでも「本州アイノの定義」について疑問が出たのは概報。
ならその辺をどう捉えたら良いのだろう?
現状の答えを先に書けば、
「定義」「時代区分」の妥当性らに対する学術的な結論は出ていない…様だ。
むしろ昨今巷では「政治的に決められた」ものが独り歩きして使われていると言うべきなのかも知れない。
今回取り上げるのは「河野本道」氏の主張。
裁判で訴えられたり(河野氏勝訴)、所謂左派活動家からは目の敵にされている様で。
まぁ我々は「全ての論を否定せず、全ての論を肯定せず、ただありのまま現物を並べる」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/26/045821
今までも、活動家第一世代やそれ以降の人々の声は報告して来ているので、別に構いはしないだろう。
これも主張の1つである。
但し、我々が河野本道氏の主張を支持している訳でもない。
理由は簡単。
我々が学んで来ている通史の見え方と、河野本道氏の説明する通史が同じではないから。
紹介する論文集は、河野本道氏の還暦記念論集として出版されている。
それ以前に出版済の「アイヌ史」らのある意味集大成なのだろう。
では、「「アイヌ」−その再認識」より。
①民族定義や呼称としての問題点…
「最近数百年間の知見からすると、「アイヌ」は本州北部、北海道島、サハリン島南部、クリル列島の南部・中部・北部、カムチャツカ半島南端部などを居住域としたとはいえ、これらの地域において今日まで「アイヌ」が単一の社会集団を形成していたとは考えられず、近現代以前のかつての「アイヌ」のうちにはいくつもの「民族」的ないし「部族」的集団が含まれていたと考えられる。このことは「アイヌ」ということばがアイヌ語に由来するものでも、それを民族呼称として用いるという用法が本来的ではなかったということを物語っている。また、この様な本来的でない用法には、他称的な意味づけがなされているという可能性が強い。」
「さらに、アイヌ諸グループの文化は、集団や地域によりかなり大きな差異が認められる。たとえば、クリル列島中部および北部のクリル=アイヌは、かつて生業をおもに海における漁撈や海獣狩猟によっており、居住様式についてみると他と比べて非常に誘導性が高かった。また、クリル=アイヌと北海道島のアイヌとの対立を物語る伝承も知られている。アイヌ諸グループ間の対立を物語る口頭伝承は、北海道島における諸グループ間についても多々知られている。したがって、とくに最近数世紀間の原語をアイヌ語として包括することができるということのみによって、「アイヌ」を一民族的集団と位置づけることには問題がある。「アイヌ」を一民族的集団として位置づけふ仕方は、とくに幕府が北方警備のため「蝦夷地」を直轄するようになった段階から明らかとなってくる。すなわち、「アイヌ」を一民族的集団として位置づける仕方は、そもそも「アイヌ」に対置していわれる「和人」によるものと考えられる。」
「前略〜これから以後(筆者註:開拓使によって法的に)「旧土人」という用語が使用されるようになった。また、1899(明治32)年には『北海道旧土人保護法』が制定された。そして、「旧土人」という用語が使用されるようになったことをもって、「アイヌ」を民族として認めたという論拠にされることがあるが、「蝦夷」あるいは「蝦夷人」ということばの場合と同じようにアイヌの民族的諸集団の社会的系譜を無視したものであり、アイヌを一括して支配、統治するための政治的、行政的措置によるものということができる。」
「前略〜そもそも「ウタリ」(複数)という用語は、〈一族〉〈親族〉〈仲間〉〈部下〉〈家来〉などの意味をもって使われていた。要するに、「アイヌ」「ウタリ」という用語は、《近現代》において新しい意味づけをされている。」
「「アイヌ」−その再認識」 河野本道 北海道出版企画センター 1999.11.14 より引用…
ちょっと解り辛いが、河野氏の主張は、元々一つの文化集団、社会集団として自らアイノなりと名乗っていたなら一民族呼称としても問題ない…だが、場所や文化の複数集団あり、単一社会集団としてみなすことが出にないのだから一括して扱うのは無理がある…だ。
むしろ、一括として扱ったのはむしろ支配する側や取扱う団体の都合によって、
松前藩(蝦夷)→江戸幕府(アイノ)→開拓使(旧土人)→協会(アイヌ)→同(ウタリ)→同(アイヌ)
と、用語に新しい意味づけを持って使われているとしている。
上記に付記すると…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847
確かに加賀家文書ら場所支配人の使った呼称は請負場所に登録、土着した人を「土人」と記載している様のは我々も捉えている。
河野本道氏は、父である河野廣道博士の研究らを熟知するので、
樺太…
東,西エンチュ
千島,カムチャツカ…
クリルアイノ
北海道島…
シュムクル,サルンクル,メナシクル,アバシリ,トカチ,ソーヤ,イシカリ,ヨイチ,ウチウラら
と、自ら達の呼称や土地名らで、墓標ら細かく文化が分かれていた事を指摘して、単一集団として取扱うべきではないし、近現代に於いて行政上の都合で一括扱いした事により次第に「自ら達は一つの集団だった」と言う様に考える様になっただけだ…と、言っている様だ。
ではここで、前項より。
「中世段階のアイヌ文化集団は現在のように一つの民族集団ではなく、地域毎に異なる複数の集団で構成されていたと考えられる。その一つとして本州島に居住するアイヌ集団を本州アイヌと呼称する場合が多いことから、本稿では東北北部に居住するアイヌ集団を本州アイヌと呼称する。」
「聖寿寺館跡出土の本州アイヌ文化関連遺物が示すもの」 布施和洋 『ふる里なんぶ 第四号』 南部町歴史研究会 平成22.7.23 より引用…
河野廣道博士の研究は、当然ながら近現代に入ってからのもの。
その墓標は何時頃の時代迄遡る事が出来るのだろうか?
そして、この葬送方法の違いを文化の違いと見た場合では、現在「中世は複数文化に分かれていた」…ではなく、近現代まで複数文化に分かれていた事になりはしないか?
実際、松前武四郎は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848
この様に、見たままに沢筋にある民家らを列挙しているが、請負場所周辺で街化しているところなら兎も角、所謂コタンの様な中〜大集落はあまり無いと思うが。
むしろ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/10/093212
保護政策に基づき、同文化を持つ者が集められ人工的に近代コタンが形成されている。
なら、それ以前に居住地という共通価値に依る単一集団意識はあったのだろうか?
シロシに刻む一族,家族としての集団意識はあったかも知れないが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
こう見ると、近代コタンに集まった→土地問題という「共通の問題が発生した」→単一集団意識を持つに至る…と、なってしまう気もしないが。
確かに、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/27/205924
活動家第一世代の吉田菊太郎翁は、同化や集団化の遅れが、文化程度の遅れを招いた原因として上げている。
故に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/27/205924
学校開設と教育制度普及で、学力と新たな価値観らを得た若者から近代コタンを去り、本州や函館ら都会で単一集団意識を持たずに暮らしていったと言う。
これらを知ると、河野本道氏の指摘も何となく解る。
河野本道氏の指摘通りとしたら、元々定義が曖昧なところを、観光アイノを中心とした広報活動や国会決議らで「政治的に定義を決められた」とも、見えなくはない。
元に河野本道氏は、同書で所謂アイノ文化法を強烈に批判しているのだから。
長くなるので引用しない。
ザッと読んで戴ければ。
河野本道氏曰く…
「アイノ」に「民族」を付した「アイノ民族」と言う用語が目立って多くなったのは、その書籍の数らから昭和70年代から増え始め、80年代一気に増えるそうで。
北海道で昭和70年代に何があったか?…まぁ所謂左派活動家から民事訴訟を起こされたのも解らなくはない。
と言う感じで、はっきりと学者なりの検討で定義化されている訳ではなく、それぞれの主張のまま漠然とした中で政治的に決められた…か。
まずは次へ…
②時代区分における問題点…
現在、北海道史上では、
縄文文化期→続縄文文化期→擦文文化期→アイノ文化期→近世,近代…
こうなっているのだろう。
これを河野本道氏は考古学的な時代区分として捉えているようだ。
確かに土器に現れる特徴らで区分するからそうなのだろう。
河野本道氏自身は、「アイヌ史」上で独自の時代区分をしているそうだ。
・前近代古層第Ⅲ展開期…所謂続縄文頃
・前近代古層期終末期…阿倍比羅夫の頃
・前近代古層期終末期晩期…1300~1400年頃の所謂アイノ文化期が始まったとされる頃
・前近代変容期開始期…1400~1669年、蠣崎氏の来道から寛文九年蝦夷乱直前迄
・前近代変容期展開期…1669~1869年、寛文九年蝦夷乱から幕末迄
・前近代変容期終末期…明治から旧土人保護法制定迄
これを北海道と本州の関係をベースにして簡略化するとこうなるそうで。
ここまでは、河野本道氏の見方である。
さて、では学会ら含めてその辺はどうなのだろう。
実は、下の経緯でアイノ史編纂事業の必要性が出て、実際にメンバーが集められ、河野本道氏もその1人として参加していたそうだ。
そこでは資料編5巻の出版を見たものの、通説編は刊行されず事業は終了した様だ。
研究者単位での試みとしても、1976年のシンポジウムら(浅井亨・河野本道・埴原和郎・藤本英夫・吉崎昌一・乳井洋一ら)で検討したり、各分野の専門家がそれぞれ著書らで纏めている様だが、「それぞれの立場」で主張しているが、一致をみた訳ではない。
例えば、形質人類学の埴原和郎氏。
・プロトアイヌ−Ⅱ…概ね擦文文化期から
・アイヌ…所謂近世アイノ
・古アイノイド
・新アイノイド…現状
との事。
また、考古学系観点から吉崎昌一氏。
・プロトアイヌ…擦文文化期(終了は平安末〜鎌倉期)
・アイヌ…鎌倉後半位から
ここで藤本英夫氏は、吉崎昌一氏の見解の中で、擦文終了〜アイノ文化期開始は14~15世紀では?とする…etc…
さて、吉崎昌一氏の後の見解がこれ。
「遺物の記載部分をみてもわかるように、サクシュコトニ川遺跡出土の土器については、「土師器・土師質土器」という用語で説明されている。にもかかわらず「擦文時代あるいは擦文文化」という従来からの時代区分概念を検討せず踏襲したことを断っておきたい。北海道のこの時代のものは、本州の土師器を伴なう一般的な住居と同種の構造の住居を持ち、米以外の雑穀栽培がなされていたことも確認されている。たしかに、当時の政治組織からすれば、ここは化外の地であろう。しかし、物質文化の上からみれば、東日本の大部分の地域と「擦文文化」の間に、それ程の異質性を強調する理由が果たして存在するだろうか。本州東北部の文化の周辺として扱ってはいけないのであろうか。調査関係者の間でも、この問題に関しては意見が一致していないのである(たとえば、吉崎昌一・岡田淳子:1984,pp80~105)。今後、広い視野からの検討が必要なのであろう。」
「サクシュコトニ川遺跡 −北海道大学構内で発掘された西暦9世紀代の原始的農耕集落−」 北海道大学埋蔵文化財調査室 昭和61.3.20. より引用…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/18/110054
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/20/192453
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/22/192105
これら発掘調査後なら擦文文化期と銘打ってはいるが、本州文化の延長上にあると考えてもおかしくはない。
こんな事や、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
こんな事。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
現実には擦文文化は本州の影響をモロに被り、遺物は殆ど違いがないのだ。
更に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
考古学的には中世は空白。
プロトアイノ→アイノとは言うが、それがほぼ解明出来ておらず、擦文が何時,何故終了し、何の条件(固有アイテムらでの定義)を持ってアイノ開始とするか?…これが全く現在も固定化出来てはいないのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625
その辺は昨年確認済。
暴露すれば、ザッと読んだ限りこの「中世の空白」は同著で触れられてはいなかったりする。
それどころか…
河野本道氏はこの辺のところは、「新羅之記録」の記述らを使い、繋いでいる様だ。
だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/10/210623
現実にはこうだ。
あったか無かったかすら解っておらず、幾分確度が高いのは「外部から流れで来た蠣崎蔵人の乱」。
ほぼ安東氏も南部氏にも言及しておらず、我々と通史認識が合う訳がないので支持するハズもない…と、言う事。
さて、この歴史区分なのだが…
我々もディスカッションしたのだが、正直にいえば、吉崎昌一氏のサクシュコトニ遺跡での見解が一番シックリくる。
「本州文化と分けて考える必要があるのか?」と。
仮に何としても分ける必要があるのなら、わざわざ歴史区分をつけずに、事実として立証出来た事(考古遺物が古書らと一致する)や、なんの古書記載かを明示した上で「西暦&元号併記」で構わないのではないか?。
中央史は基本、中央政権が歴史区分のベース。
現状、便宜的に「考古学的文化区分」をベースしているなら、区分を設ける必然があるのか?だ。
わざわざブツブツ切らずに「何世紀はどうだった」で流れを追う方が解りやすく且つ連続性を強調出来るのではないだろうか…と、思う次第。
我々は不思議なのだ。
北海道の歴史は明治に始まった訳ではない。
それ以前から続いている。
アイノ史はそれとして、明治以前から住んていた人々の歴史は不要なのか?
渡島半島の人々は?
仮にそれらの人々がアイノよりマイノリティなら、最も考慮すべき「サイレントマイノリティ」になるのでは?
じゃ、明治移民の末裔はそれら「サイレントマイノリティ」はどう捉えるのか?
まぁいいか…
地域史レベルの話、そちらでやれば良いだけ。
「開拓の魂」も「迫害されたアイノ」も良いが「サイレントマイノリティ」を忘れてはいけない。
さて、如何だろう?
この項は、あくまでも河野本道氏からの「問題提起」という視点に過ぎない。
単一集団としての定義は?
→出来てはいないし、河野本道氏は複数集団だとしている
歴史区分は?
→各論間で一致をみていない
で、何故か政治的に口を挟まれ、何故かアイノ民族と…
あとがきで彼はこう述べる。
研究者としての姿勢を問うているのでは?
それは父である河野廣道博士とある意味同様だったのかも知れない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/06/174150
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834
何せこの二人、学問の追求と同時に地域の人々に寄り添い、方や特高警察に逮捕され、此方左派活動へ協力したが、後に大衆の前で糾弾されたり、被告席に座らされたりしたのだから。
参考文献:
「「アイヌ」−その再認識」 河野本道 北海道出版企画センター 1999.11.14
「聖寿寺館跡出土の本州アイヌ文化関連遺物が示すもの」 布施和洋 『ふる里なんぶ 第四号』 南部町歴史研究会 平成22.7.23
「サクシュコトニ川遺跡 −北海道大学構内で発掘された西暦9世紀代の原始的農耕集落−」 北海道大学埋蔵文化財調査室 昭和61.3.20.