https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/13/150428
「生きていた証、続報38…ならそもそも、北海道〜東北に馬が伝わったのは何時なのか?、そして…」…
前項をこれにして。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…
こちらで「馬・牧」について触れたので、北東北の研究にも触れてみよう。
さて、「尾駮の牧」…
古今和歌集や勅撰和歌集らに「をぶちのこま」として登場するらしい馬を育てた牧らしい。
都の貴族が「陸奥馬」を欲し、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
「ゴールデンロード② …「金」だけではない、出羽,陸奥を統べる奥州藤原氏の真の実力」…
延喜式で高い価値が認められ、私的取引の横行を禁ずる命令が出されていた事は概報。
和歌では懐かぬ荒馬的な表現で使われるとか。
さて、その産地「尾駮の牧」は何時からあるか?…それを「黒ぼく土」生成から探ったのが本書の「六ヶ所村に馬は何時からいたか?」、東海大の松本氏。
5世紀位には国内は拡散、古墳の北上と共に岩手県南部迄まで伝播したとする。
7世紀には末期古墳の阿光坊,丹後平古墳群に馬具の副葬がされている事から、八戸周辺迄は到達したと考えられる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/10/210140
「「阿光坊古墳群」に残される墓参と思われる痕跡…末期古墳を作った人々の断片と製鉄ルート」…
確かに。
馬畜を示す物には、直接的な物証として「馬具の出土」がある。
但し、間接的物証となるのが「黒ぼく土」。
これは、馬畜と共に生成される事があるので「牧」の存在を間接的に示す事になる。
では、黒ぼく土とは?
・火山灰と腐植成分からなり、腐植成分が多いと黒くなるので表土となった場合は表土付近が黒くなり徐々に褐色系になっていくらしい。
同時に火山灰由来の為、リン酸の含有係数が高い。
・保湿性や透水性に富む。これは嵩密度が低くホクホクし隙間が多い為。
・我が国の場合、降水量が多く温暖で微生物が活発に活動する為に酸性土壌になりがちで、リン酸が鉄やアルミニウムイオンと結合し易く植物が根からリン酸を吸収し難いとか。よって中和作業が必要となる。
さて、この「黒ぼく土」生成について松本氏は興味深い説明をしてくれている。
黒ぼく土の元は火山灰と植物の腐植成分。
火山灰降灰の後に最初に生える植物はイネ科だそうだ。
理由は他の植物に有害とされるアルミニウムイオンをイネ科の植物は好んで吸収する為。
このイネ科の植物が生える条件が、
①湿潤且つ冷温~温暖な気候…
②水が下方へ浸透しやすい台地か丘陵の地形…
だそうで。
で、黒ぼく土生成の為のもう一つの条件が、
③火入れ、焼畑、焼狩ら人間の関与…
だ。
火山灰から簡単に黒ぼく土が出来、積み上がる訳ではなく、人的関与が必要らしい。
ここで…
イネ科の植物は「馬の好物」且つ、粟や稗,麦らは我々ヒトの食料ともなる。
焼く→種を植える→イネ科を増やし収穫と馬の飼料へ→焼く…この繰返しでホクホクした黒ぼく土が積み重なり、黒ぼく土、黒色土層、黒褐色土層、褐色土層…と積み重ねられる。
広大な領域になれば単にヒトの食料だけでなく、馬の牧の可能性が浮上する訳だ。
この牧での火入れについては、718年編纂の「養老律令(厩牧令)」に行う様に規定され、春先に枯れ草を焼き払っていた様だ。
ここで、
黒ぼく土と古代官牧の分布。
官牧の多くは黒ぼく土の生成地域に重なるとしている。
ここで…
六ヶ所村周辺では、7〜8世紀での集落跡らは現状無いそうだ。
9世紀後葉頃から突然竪穴住居らが作られ、10世紀頃から集落化していった様だ。
十和田の噴火や白頭山噴火…
その前後に集落が作られ始める。
これは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652
「大災害が起こった時、人はどう行動するか?…平安期の「十和田噴火,白頭山噴火」が住む人々へ与えたインパクト」…
我々も「災害史」の視点でとらえている。
移住には、朝廷の意志も関与していそうだ…こんな話があった。
で、この頃の竪穴住居は廃絶後に黒ぼく土が堆積する事から集落として移動した後も牧として周辺が利用されたのではないかとしている。
八戸周辺から北上、又は米代川流域の準黒ぼく土地域からの移動と考えている様だ。
で、集落の移動時には再度そこに戻る事は無く、廃絶した分牧の拡大がなされた様だ。
何故ならば竪穴住居の切り合いがなく、廃絶されたら黒ぼく土の堆積が繰り返されたから。
ん?
何処かで聞いた話…
で、10世紀に和歌で「をぶちのこま」が読み出され始める。
また、以前にも触れた事があるが、六ヶ所村の「表館遺跡」では、
白い「石帯」が出土している。
同書の「東北地方北部出土の石帯とその背景」田中氏によると、「養老律令(衣服令)」では当初金属製を使っており、それが797年に銅銭鋳造の為に金属→石帯となる。
白い石帯は796年段階では国家意志決定する参議以上に限定され、それが809年に官位五位以上迄引き下げられる。
この時概ね、
大国の「守(国司)」が従五位上、上国の「守(国司)」が従五位下。
陸奥国は大国、出羽国は上国なので、白い石帯を着けた国司が収めた事になる。
これ、927年段階で白い石帯は従三位と四位の参議のみに限定されるので、東北で出土する石帯は8〜9世紀と限定されるのだろう。
考えて見れば、秋田城,城輪柵,鎮守府,多賀城はそれぞれ出羽国司,秋田城介、鎮守府将軍,陸奥国司が饗給を行う場で、帝の「御言持ち」として着任したのが関与するのだろうか?
故に簡単に入手出来る物ではない。
少なくとも「表館遺跡」に居た人物は、これら国司級に近い人物と接触を持てた事になる。
良馬の産出に寄与した人物?も可能性として話を聞いてきた。
先の移住の件でも、米代川流域が関与したとなるとむしろこの周辺は秋田城側のコントロール化にありそうな感じも。
後世、米代川流域〜十和田湖〜奥入瀬川流域〜六ヶ所村周辺には馬頭観音信仰ルートがあったそうだ。
奇妙な繋がりである。
この辺は宗教性を墓制なりで確認してみての話も含めると、関連あるのか…と思わせられる節もある。
以上。
…と、ここで終わってしまえば、何の為に六ヶ所村の事例を紹介したか解らない。
先の写真を見て戴きたい。
北海道にも黒ぼく土はある。
表土層と考えば、畜産が盛んになった頃からの生成となるのでそこだとも言える。
松本氏は北海道の渡島蝦夷と北東北の蝦夷(エミシ)の最大の差はこの馬畜の有無だと言う。
確かに論拠として「江戸期にアイノ文化を持つ者は馬畜していない」としている。
なら、江戸期は?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…
北海道での見解は「黒0層はアイノ文化の痕跡」とする。
松本氏は馬畜はしていない。
だが千歳市北部には馬の蹄跡。
で、我々は…簡単に黒色土層、むしろ黒ぼく土が短期に生成される訳は無いので、むしろ馬畜を含めた「場所の活動痕跡」だろう、勿論支配人も本州系もyezoも含む…だ。
案外的を得ている様な気がするが。
また、中世まで遡ろう。
本当に馬具は無いか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208?s=09
「時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?」…
中世には馬具と思われる物がある、それもチャシ跡。
そもそも、チャシの立地を考えた時、何故あの丘陵の先端なのか?
複数のチャシで、放牧した馬の監視をすれば?
段丘の上から、水が得られる川筋も含めて見る事が可能。
もう一つ…
擦文後期迄遡る。
これが八戸市田面木平(1)遺跡の焼失家屋跡7〜8世紀。
先程何気に書いたが、この牧周辺の竪穴住居は切り合いがなく、移動したら放置。
これ、擦文の竪穴住居の特徴でもある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/10/104637
「時系列上の矛盾…根室「西月ヶ岡遺跡」に眠る「竪穴式木造住居」の痕跡」…
具体的にはこれがその根室市「西月ヶ岡遺跡」の焼失家屋跡。
勿論竪穴住居ではあるが、壁や屋根に板材が使われ、所謂「チセ」とは構造が違うのだ。
年代特定には至らなかった様だが、Me-a火山灰に被覆されている。
つまり、ユクエピラチャシと同年代の可能性がある。
で、燃え方が「田面木平(1)遺跡」とそっくり。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519
「余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…
チャシに関しては、信仰や墓制と絡める必要があるだろう。
と、黒色土層、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…
フカフカの黒ぼく土こそ、凍結と解凍で絞まっていくのでは?
勿論、火山噴火や地震による振動も含めてだが。
極端に黒色土層が薄い理由の一つになりはしないか?
これも、河川氾濫が少ない事も理由ではあるが。
黒0層も局部的にしか出ないのも…
如何だろうか?
本当に中世位に北海道に「牧」は無かったのか?
まぁまだここいらは備忘録。
他の事象と絡めながら、同時に馬具や宗教具を探しながら追って行けば良いだろう。
まだ先は長い…
参考文献:
「尾駮の駒・牧の背景を探る」 六ヶ所村「尾駮の牧」歴史研究会 2018.7.30