北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/08/110448

実は筆者は四度目の「北海道弾丸ツアー」を敢行した。

とは言え、今回は二人旅、相互フォロワーさんと同行させて戴いた。

当初、同行者に道南での用事があり、それに合わせてお互いに気になる一致箇所があったので、二人で攻めてみるか…こんな感じ。

まずは一致箇所に行き、そこから先は状況に応じて回ってみるか…である。

その一致箇所こそ、上ノ国の「勝山館&夷王山墳墓群」。

筆者としては、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/23/142810

弾丸ツアー第二段の本来の目的地で、ずーっと現地確認したかった場所である。

結果としては、勝山館で二人揃って「資料と実際が違い過ぎる!」に行き着き、予定見直しをその場で行い、この際道南の「中世城館を回れるだけ回る」方向へ舵を切り直した…これが経緯。

では、報告しよう。

 

①勝山館とは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529

ここにもあるように、

脇本城、十三湊、余市らと共通で膨大な中世陶磁器ら(遺物計10万点)が出土する遺跡。

遺跡の「上方」に設置された「ガイダンス施設」のパネルがこれ。

よく話としては、安東氏方や本州系とアイノ系の共存が見られるとか、最古級のイクパスィが出土したとかで有名。

筆者としては、勝山館と夷王山墳墓群の位置関係を中心に知りたいと考えていた。

で、上ノ国には勝山館を含めて三箇所の中世城館があるとされる。

・花沢館…

新羅之記録」に登場する城館で、コシャマインの乱の折には「蠣崎季繁」が館主で、「茂別館」と共に落城を免れたとされる。

・洲崎館…

コシャマインの乱を鎮めたとされる「武田信広」が入ったとされる城館。

この段階で武田信広蠣崎季繁の婿養子となり、ここから「松前氏」に至ると新羅之記録にはある。

勝山館とこれら二館と位置的、時間的関係は「かみのくに文化財ガイドブック」によるとこうなる。

洲崎館と勝山館は一時運用が重なり、勝山館が1600年前後迄運用されたなら蠣崎氏が松前大館へ移動した後も運用継続し、安東氏からの独立後位に廃絶された事になるか。

尚、勝山館内にある館神八幡神社は江戸期に一度再建されており、信仰の場としての機能は一部残っていたとも考えられる。

 

②勝山館は本当に中世城館か?

では、実地での報告に至る。

ガイダンス施設での展示は先に紹介したガイドブックらと共通の位置付けで、

・勝山館と夷王山墳墓群のレプリカ

・安東氏と蠣崎氏の関係

上ノ国三館の位置付けと主な遺物

・夷王山墳墓群の発掘レプリカ

らが展示される。

が、10万点の遺物にしては少ない。

実は大方の遺物は別の場所で保存され、平日に申請し一部見る事が可能となっている様だ。

基本的には資料らと共通故に細かい所は割愛する。

概略の構造は最初の写真通りなのだが、他の施設との関係はこの写真の通り。

「北海道渡島半島における戦国城館跡の研究−北斗市矢不来館跡の発掘調査報告−」より…

比高の高低は最初の写真とは逆になり、手前が丘の上(高い)、上が海側(低い)と考えて戴きたい。

ガイダンス施設は黄色で囲った辺りになる。

同行者と二人で、ガイダンス施設見学後に遺跡を夷王山→墳墓群→勝山館と回ったのだが、この段階で二人共「あれ?おかしくないか?」と違和感を感じた。

夷王山からの天ノ川河口。

周囲一望可能。

で、違和感の元はこれ。

右側が丘の上、左側が海側で低い。

墓域は紫枠の辺り、ガイダンス施設付近から始まり左側へ広がる。

勝山館は水色←の通り、もっと低い場所に広がる。

高い方から並べると、

・夷王山…

・ガイダンス施設…

・墳墓群…

それを下ると、勝山館の入口…

空堀

・勝山館の「郭」内…

館神八幡神社を最上階にして、

居住区域

馬屋,客殿ら

で、下から見上げる

空堀

そして、海側へ向かう…

そう、ここ勝山館は、平滑された「郭」も、主郭にあるべき城主居館も無い。

伝侍屋敷とされる場所は墓域から尾根を挟んだ先。

つまり、館神八幡神社上の柵列と空堀の上側に防塁は全く無く、背中がガラ空きなのだ。

これ、上から丸太や岩を落とすだけでダメージを与えられるだろうし、侍屋敷からの救援は直ぐにこれない。

郭内が段々畑の如くなので、それなりの人数の侍を集合されるのもムリ。

下からの攻撃も、空堀と柵列、入口の城代の屋敷?のみしか侍を配置していない。

馬屋は2〜3頭しか入らないだろう、つまり駅逓用だろう。

で、郭内の主道は真っ直ぐ中央を貫く。

下から騎馬で攻めれれば止められるのか?

また、沢を使い左右分離はしているが、郭部分と左右の高さは同程度なので、柵列のみが防塁となろうから、幾らでも周囲に攻め手を伏せられるし、左右脇には自生ヒバ林。

あっさり、近距離から包囲可能。

大体、「尾根や山頂を平滑して郭を作る」とか、「舌状台地に切岸を作り郭を作る」なんて構造には端からなってはいない。

まして城主居館無し…

誰を?どの様に守るのだ?

同行者とオッサン二人で「はぁ?これ本当に城館なのか?」と絶叫連発。

郭内の建物も、中央の主道を挟み、左右対照に2軒並び且つ一段毎に区画整理する。

まるで「十三湊遺跡」を山腹に斜めに貼り付けた様な構造。

むしろ、最上階の館神八幡神社を中心にした門前町や客殿利用で取引する商人町と言う雰囲気。

郭内に鍛冶,金属加工の職人が居た形跡もある。

まんま、津軽十三湊、秋田洲崎(湯川湊比定地)や広島草戸千軒と言う雰囲気なのだ。

資料らで見るより、傾斜と段々畑状の形態はキツい。

防御で馬を使える様な形でもない。

百聞は一見にしかず…

同行者は笑い、筆者は頭を抱えた。

で、湧く疑問…

「勝山館は中世城館ではないのでは?」…そして、「何故誰も疑問に思わないのか?」…だ。

ここで翌日を含めた見学予定を変更する事に。

なら、「他の同時代の中世城館は?」…

と、言う訳で、最東の道南十二館と言われる「志苔館跡」や戻りしな北斗市で「矢不来館跡」「茂別館跡」ら、近隣資料館で遺物を見ようと言う事になった。

 

③他の中世城館は?

○志苔館跡…

こんな謂れ。

で、

入口は空堀で区切り、主郭四方を土塁で囲む構造。

山城に在りがちな形。

遺物は「市立函館博物館」で展示。

ここは大量の古銭とそれを入れた龜が有名。

ここ、所謂コシャマインの乱で落城した伝承だが、火災痕ら戦乱を裏付ける遺構はないらしい。

 

○矢不来館跡…

ナビで近辺迄行ったが、場所が解らずギブアップ。

北斗市郷土資料館に、レプリカと多少の遺物展示が。

前日の内に発掘調査報告書は発注、別途取り上げる予定。

 

○茂別館跡…

新羅之記録でのコシャマインの乱上ノ国の花沢館と同様に落ちなかったとされる城館。

現在、大館側とされる郭には矢不来天満宮が鎮座する。

大館側とされる周囲には、空堀→土塁が施される。

と、言った感じ。

なんとか、道南十二館で中世を確認可能な2つの城館の片鱗を確認出来た。

 

④構造比較とここは?…

一応、時間の都合登城しなかったので、ガイドブックより。

これが花沢館。

そしてこちらは洲崎館。

お気付きだろうか?

山城らをどう定義付けるかにもよるとは思うが、確認出来た中世城館では、

・平滑された単郭又は複郭を持ち、それを断崖,堀,土塁らの防塁で守る構造…

これを持つのだが、勝山館「のみ平滑された郭」を持っていないのだ。

所謂「チャシ」においても、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/205357

・山頂又は尾根のスペースを平滑し郭を作る

・舌状台地の根本に空堀を作り、分離した上で台地上を平滑

こんな構造。

当然、より高い所に主郭と城主居館を置き、視認性や防御性を考ええるのは言うまでもない。

この辺は、東北含めた中世城館や山城、チャシらの共通項。

仮に尾根に段々を作るとしてもそれは、「複数の郭を段々配置する」だ。

これは当然で、より高い所に主郭があれば、上からの攻撃は避けられ、登り口に郭と防塁を設置すれば下からの攻撃に守備力を特化すれば良い。

それとて、鵯越えの様により高い断崖からの奇襲はある。

敵が都合良く攻めてくれるなんて事は有り得ない。

どう、よりリクスを下げられるのか?の世界。

で、勝山館のみ、これらリクスを下げる事を考慮していない…これが同行者と筆者に共通した違和感。

一つ間違ってはいけない事…

「何故城館が必要だったか?」だ。

新羅之記録史観」なら、勝山館が築かれた時期は、動乱が収まっていない時期ではないのか?

それで背後ガラ空き、平滑された郭も無く、敵から視認出来る場所…こんな城を築くだろうか?

他の中世城館,チャシには無い、勝山館固有の特徴だ。

むしろ、勝山館内の人々を隔離,監視している様でもあるのでは?と、勘繰ってしまう。

ここで芽生えた疑念だが、ここは中世城館ではないのではないか?だ。

・夷王山(むしろ医王山か)や館神八幡神社を中心に宿坊を備える宗教施設…

・膨大な貿易陶磁器から、商人が集まる交易施設…

・又はそれらの複合施設

現状は、こんな見え方。

まぁ今回の弾丸ツアーに当たっては予習が出来てはいなかったので、出たとこ勝負の印象重視。

この第一印象を考慮し、少し中世城館へも学びを展開したいと考える次第。

 

⑤その他考察…

A,仮に中世城館ではない場合…

新羅之記録史観では、武田信広は花沢館の蠣崎季繁の娘(安東政季の娘→蠣崎季繁の養女)婿となり、蠣崎氏を継ぐ…だ。

だが、安東氏内での蠣崎氏の身分は明確ではない。

それが明確になるのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230

1514年の準一門への格上げと代官職の任命から。

特に中興の祖武田信広自体が客人扱い。

在りがちな幽閉や人質は、寺社預りになる事はある。

仮に勝山館が宗教施設であれば、特定の人物を匿うには好都合ではある。

勿論、大殿から身分が明確に設定される迄。

中興の祖が匿われた場所なら、後代に城として記載されてもおかしくはないのではないか…と言う考え方だ。

若しくは新羅之記録史観ではなく、南部側の史料からならどうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/10/210623

中身はなかなか眉唾ものではあるが、「蠣崎蔵人の乱」により南部氏は糠部〜下北半島一円を掌握に成功する。

南部氏側の史料では、蠣崎氏は蠣崎蔵人の後衛だと言う事になっている。

この場合、武田信広→蠣崎蔵人で置き換えて見れば?

蠣崎蔵人が元々安東方か?南部方か?明確ではないが、逃れた蠣崎蔵人を匿うにはある意味うってつけの場所ではある。

上ノ国下北半島の逆になる。

匿う又は幽閉する事で、何らかの利用価値を見い出せばそうするのではないか。

身分が明確になるまで幽閉…なら、新羅之記録史観の武田信広と同じ立場で解釈可能。

なら、このどちらが蓋然性が高いのか?

新羅之記録にある道南十二館、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120

今迄も報告の通り、上記中世城館以外は明確ではないし、コシャマインの乱自体があったか?無かったか?解ってはいない。

瀬田内チャシですら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949

この通り。

確か志苔館跡でも、落城の形跡は無かったかと思うし。

対して、蠣崎蔵人の乱の場合は恩賞が発給される。

勿論これの史料批判は別だが、結果的には南部氏が糠部〜下北半島掌握と言う事実には至る訳だ。

新羅之記録には蠣崎季繁以前の蠣崎氏についての記述はほぼ無く、蠣崎氏が何者なのか?明確ではない。

ここまで書けば、中世城館の状況を俯瞰すれば、実際に起こったのはコシャマインの乱ではなく蠣崎蔵人の乱で、勝山館は蠣崎蔵人の幽閉の地ではないか?の方が蓋然性が高いと感じるのは筆者だけだろうか?

筆者には不思議だと思う事がある。

新羅之記録は史料批判され、明確ではない部分があるのはずーっと指摘されている。

なのに、肯定的な方も否定的な方も、何かといえば必ず「コシャマインの乱が〜」と、ここだけは肯定するのだ。

少なくとも我々グループでは、ある場合ない場合、両面捉える事にしている。

どちらにしても武家家系図や古文は盛られるのが常。

ない場合は蠣崎蔵人の乱で解釈してみると、遺物との整合は取れそうなのだが。

起こったの事実は一つしかない。

 

B,夷王山墳墓群やアイノ系遺物…

今回の弾丸ツアーで最も興味を持っていたのは先述の通り、勝山館と夷王山墳墓群の位置関係。

夷王山墳墓群は事前より、本州系とアイノ系の共存の象徴の様に語られる事が多いので、城館との意味合いを見るにどうか?と考えていた。

また、実は筆者は夷王山墳墓群の初期の発掘調査報告書を持っており、その中にアイノ系と思われるものが無かったのも疑問を持ったのもある。

位置関係は上記の通り、勝山館より高い位置、夷王山側にポコポコ小型の土饅頭が見える様な感じ。

ではアイノ系は?

これが墓域。

650基程の墳墓が検出されてるそうで、遺物を見る限り、中〜近世迄存続した模様。

土葬(屈葬)や火葬墓らが混雑する。

ではアイノ系墳墓は?

一応、頭位が東、伸展葬、刀剣や耳環、ガラス玉を指標としている様だが、

実はこのアイノ系墳墓とされるものは…良い写真が無いのでガイドブックからお借りしよう。

実は、Ⅰ地区の外れに数基あるのみ。

数割とか、そんなレベルではない。

これでどの程度共存していたの言えるのだろうか?

また、本州系墳墓にも漆器らの副葬がされたものはある。

割と短絡的に墓相で判断している様だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

近現代限定、かなり口伝がしっかりしている墓域の発掘調査報告がこれ。

火葬も屈葬も伸展葬もごちゃ混ぜ。

なら本当はどうなのか?

現状知る限り、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/23/121204

発掘点数が少なく、墓相で決定出来る内容は少ない様だ。

一度、墓相についても通史的に整理する必要があるのではないだろうか?

更に、ここでは同じく共存の証として、最古級のイクパスィの出土も有名…ではどうなのか?

これが出土位置。

勝山館の郭から外れ、旧笹浪家住宅との境目辺り。

実際には1640年のKo-d、駒ケ岳噴火の火山灰直下での検出。

筆者の「あれ?中世じゃないの?」に対して、同行者は「割と新しいよ(笑)」とニヤリ。

江戸初期と判断されている。

つまり、中世遺物ではない。

勝山館からはキセルの出土を見る。

煙草は、西洋人により持ち込まれる。

1550年以降でなければ辻褄が合わないのだ。

勝山館の存続が江戸初期迄とされているはこの辺もあるのだろう。

つまり、勝山館出土と言っても中世だけを示すとは限らない。

これは夷王山墳墓群も同様。

むしろ、アイノ系と思われるものは、全体の運用時期の中では新しい物なのだろう。

ちょっとイメージとは違うのではないだろうか?

ついでに。

イクパスィの写真には「材質:ヒバ」とある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

これと同様。

近世の柳らで切掛を…そんなものではない。

我々はこんな事も捉えている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/18/180921

「木帳面」「錦木」の事例。

ガイダンス施設のジオラマには、丁寧に「ヒバ自生林」の表示が。

元々、ヒバ(アスナロ)やスギはブラキストン線に阻まれ、北海道に生えてはいなかったのは報告済み。

道南周辺は植林され、後、江戸初期から材木として出荷されだしたのは言うまでもない。

なら、このイクパスィ比定のものは、イクパスィ…木帳面or錦木…どちら?

そういえば、上ノ国惣乙名ハウカセは津軽出身だとか…

 

C,石積み…

同行者曰く、勝山館で検索したときに石垣でヒットした…と。

で、これは館神八幡神社の土台部分。

で、近寄ると…

確かに、石垣を施す。

ただ、館神八幡神社は江戸期に再建されている。

これが中世のものか?はまだ確認出来てはいない。

さて、石垣と言えば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

つまり、勝山館の石垣が中世のものと確認出来れば、丁度秋田と余市を繋ぐライン上に事例が増える事になる。

秋田北部と津軽の空白を、日本海ルートで飛び越える事が可能になってくる。

それは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005

出羽三山信仰との関与がどうか?

確かに「和鏡」の検出はあるようで。

これは気の長い宿題となりそうだ。

 

如何だろうか?

まずは入口。

先述の通り、筆者は予習をしていない。

これからあれこれ文献や発掘調査報告書で、研究者がどう考えているか?と、自分で見たものの整合をしていく必要がある。

上記は入口、叩き台に過ぎない。

収穫と宿題はてんこ盛りである。

ここで、今回の弾丸ツアーにあたり、協力してくれた方や対応してくれた方、同行者には感謝しかない。

ありがとうございました🙇

 

今回の感想…

「百聞は一見にしかず」

これに尽きる。

来なければ解らなかった。

やはり、文献だけでは解らない。

 

 

 

参考文献:

「かみのくに文化財ガイドブック」  上ノ国町教育委員会  2023.6.29

 

「北海道渡島半島における戦国城館跡の研究−北斗市矢不来館跡の発掘調査報告−」  弘前大学人物学部文化財論研究室  2021.5.10