https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/06/174150
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834
ここに繋げてみよう。
関連項は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/27/205924
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/26/045821
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631
アイノ活動家らや研究者の生の声。
さて、今迄再々書いてきたが、大正〜昭和初期に発生した「縄文=アイノ論」は、学会のみならずマスコミによる拡散で大騒ぎになったが、各博士らの「否定」され沈静化したのは概報。
このときに引き合いに出されていたのが、亀ヶ岡石器時代遺跡ら縄文晩期の文様。発掘ミスや解釈の間違い、骨格確認、後世の科学分析らで否定に至っている。
土台、現状までの研究では…
縄文期
↓
続縄文期
↓
擦文,オホーツク文化期
↓
中世が見えず、プロセス不明
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
↓
アイノ文化期
こんな変遷をしていたのは解っており、アイノ文化期開始時期は諸説有りで、定まっても定義つけられてもいない。
縄文晩期を約3000年前とすると、最も古い方の説(鎌倉期位、7~800年前)で当てはめたとしても2200~2300年位の空白期間が生じる。これを物証をもって説明出来る研究者はいないだろう。
ましてや、連呼するが「中世が見えない」という巨大な壁が立ち塞がり、近世との繋がりは物証が無く、現状明確に示されてはいない。
こんな状況。
なら、未だに縄文期の文様とアイノの刺繍文様が似ているとして、度々登場するこの論が、何故浮上するのだろう?
解らなかったら、当時の主張を学んでみようではないか。
アイノ文化にご興味がある方なら「結城庄司」氏をご存知だろう。
ウィキではあるが…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E5%BA%84%E5%8F%B8
釧路生まれ。
阿寒湖畔のアイヌコタン建設に関わり、1968年に北海道ウタリ協会の理事に就任、197年にはアイヌ解放同盟 の創立に関わって代表就任。
1976年に北海道ウタリ協会の理事を退任。
この頃に『北方ジャーナル』と言う雑誌に寄稿している。
それを見ていこう。
「前略〜「縄文文化=日本原人」論は御用学に位置して来た多くの考古学者によって説かれてきた。だが「縄文文化の縄文人は、アイヌではない」とする日本考古学会に対する"若い考古学者"の批判行動は厳しいものであった。
アイヌは先住民であるが、「縄文文化=日本原人」の枠から、はみ出していることを力説するのは、日本文化の起源において大和民族の存在を正当化させ、アイヌ民族を侵略支配することを当然のことのように宣伝工作し、常識化させるためである。
「弥生文化=日本文化」を総括することが出来るのは、縄文文化の側からであり、対立面の原点を探求しなければならない。
考古学といえば一般市民に無縁な学問として認識され、これが社会通念である。それだけに特権階級意識をもった考古学者が、日本国家の御用学として研究価値を高め政治的に利用した。つまり、王朝文化(日本文化?)色を強く打ち出す傾向で、専念したこともいなめない事実として日本人類学会そのものの歴史であったろう。
云うまでもなく、考古学は実証主義を建前として、自然界にうずもれた人類の遺跡を発掘して、物事に科学的な分析を加え歴史を立証する根本的な作業である。
アイヌ民族は、"人類の孤島"などと、謎めいた発想をする人類学・民俗学・言語学考古学等々の学者が非常に多いことは、アイヌ民族にとっては、はなはだ迷惑であるとしなければならない。
アイヌ民族の祖先が「どこから来たのか?」などと云う前にアイヌモシリ(明治二年北海道に改名)に住居するシャモ(和人)達は「何民族で、どこから来たのか!?」であるのだ。
幻の"邪馬台国"から始まって「大和民族」の成立はいつか?そして、その歴史は?ということになる。この場合、アイヌ民族側から観れば、日本人を客体化して研究することもまた必要である。
ここで論じなければならないことは、アイヌを「民族」と認識することのできない、アカデミズムの日本的な体質こそ大きな問題であり、常にアイヌをタブー視した学説こそ問題であることをあらかじめ明確にしておかなければならない。
一九七〇年代は、いわゆる「アイヌ問題」と云われる諸説フンブンが、アカデミーのわくを越えて一般化された時代を迎えたこと、それは裏を返せば日本人とは何か?が問われる時代であると観てよいだろう。」
「縄文人・アイヌと考古学」 結城庄司 『北方ジャーナル 1976年5月号』 昭和51.5.1 より引用…
序文である。
要約すれば古代大王(オオキミ)は「騎馬民族の"雇われマダム"」の様なものであり、その征服王朝が現代に至っているので「天皇陵を全て暴け」…との事。
では次は、彼の持論,結論。
「アイヌ民族の祖先は、どこから来たか?などとふざけたことを云う前述の学者諸氏の御高説にも、いつかは化けの皮がはげて来る。そしてその時期はそう遠くないだろう。
アイヌは北方南進か、南方北進かの二点にしぼって考える向きもあるようだが、私から云わせれば、もともとの日本列島の原住民であり、アイヌモシリを拠点に、狩猟、採集を主に生活生産していた民族と考えるのが妥当である。」
「縄文人・アイヌと考古学」 結城庄司 『北方ジャーナル 1976年5月号』 昭和51.5.1 より引用…
端的に言えば、「お前ら大和民族が移動してきたから、移動してきた様に考えるのだ。我々は原住民である。」…以上。
その論拠として次の段にあるのが、
南芽部町から出土した土偶はアイヌ文様を全身に施し、「ポンクッ」と言う特有の貞操帯が施されている…これを持って縄文→アイノが直結された…としている。
この後、
・高倉新一郎博士への反論…
「原始のまま」生活している発言を差別(明治入植者(文盲)へ代筆して「やった」事例)
・坪井正五郎博士のコロボックル説への反論…
「珍説」だ
が、並ぶ。
結語として…
「アイヌ民族を研究することは、アイヌに学ぶ意識が最優先されてこそ、国家のあやまちを識る道具になることであり、人類の真実の歴史が教えられることである。この認識があって、始めて学問の価値が見出され人間の益に供することができ、人類の未来像を展開することが可能となる。
一九七〇年代は、日本列島に住居するカッコつきの日本人の歴史を徹底的に解明されるべき時代である。「万世一系」の思想を告発することによって、アイヌを「民族」として科学的に評価出来得るのであり、また、そうでなければならない。
"謎"の四世紀"謎"のアイヌ文化、起源と形成、等、なぞなぞ遊びでもあるまいし、特に一面性だけにとらわれた研究が学者に多いかとは残念なことである。」
「縄文人・アイヌと考古学」 結城庄司 『北方ジャーナル 1976年5月号』 昭和51.5.1 より引用…
以上である。
…一応、ほんの一部抜粋したのをSNSで書いた段階で微妙な反応だったので、予め…
上記はあくまでも結城氏の論であり、'70からのアイノ先住論のベースだろう。
我々の考えは全く違うので悪しからず。
疑義は結城氏へどうぞ。
では…
まずは、背景から。
この『北方ジャーナル 1976年5月号』には、当時の世相を現す記事が突然載っている。
学歴社会…
地方自治体の赤字…
電力らの値上げ…
オイルショック…
捕る漁業から育てる漁業へ…
安保デモ…
そして、北海道庁爆破事件…
インフレとデフレの違いはあるが、結構似た様なワードが並ぶとは思わないか?
世相としては、
70年安保の敗北を受け、
よど号ハイジャック事件が'70、
山岳ベース事件が'71~'72、
テルアビブ空港乱射事件とあさま山荘事件、風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件が'72、
第一次オイルショックが'73、
三菱重工業爆破事件が'74、
北海道庁爆破事件が''76の3月、
ダッカ日航機ハイジャック事件が'77、
で、日本赤軍、連合赤軍、東アジア解放戦線らが暴れていた時代。
第四次中東戦争停戦が'73、連合赤軍の活動に対し、PLOのアラファト議長へ協力しない様に要請したりと。
結城氏はというと、ウィキにあるように、当時のウタリ協会理事且つアイヌ解放戦線代表と言う立場。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/11/185850
河野本道氏によれば、アイヌやウタリと言う単語に、違う意味合いを持たせたとしてるのが協会。
で、解放戦線としては、「アイヌ革命論拠」の太田竜氏らと共に、シャクシャイン像の「北海道知事・町村金吾」の文字を削り取ったとして指名手配になり逮捕、起訴猶予。
後に、袂を分かつが、それを決定つけたのが北海道庁爆破事件の様で。
結城氏も旧社会党と連携した様だが、太田氏ら所謂「新左翼」と連携していた時期があるのは間違いなさそうだ。
まぁ、教育でも日教組がイニシアチブをとり、東大,京大を始めとした学生運動とこれら新左翼活動が行われ、下火になりつつあるところで過激派が猛威を振るっていた時期と重なる。
これら時代背景と人脈があるので、「反天皇」「反政府」「世界革命」ら共産,社会主義的な発言になっても、我々的には全く驚きはない。
で、今も共産,社会主義的主張をする団体らが、結城氏の主張を受け継ぐのか…
こんな運動が吹き荒れてた頃に二十歳前後だった世代なら、今は70歳前後。
現在の多くの政治家や財界らのトップについている世代になる。
では、これら運動がどうなったのか?
目的達成の為なら他人の命を奪う事も厭わぬ過激度の為に一般大衆からの支持は得られなくなる。
就職らの為に運動から離脱したり、更に先鋭化した者が出たり二分化され内ゲバが発生した…下火になっていく。
何より、オイルショックの影響で生活そのものが苦しくなって、そんな主張に耳を貸す余裕が無くなった…こんな側面もあったかも知れない。
今でも中核派なりから政治献金される政治家の話がSNSらで上がったりするが、それは人脈の太さは別にして、こんな活動をしてきた集団と接点を未だに持っている証左。
かと言って、それと対峙した内閣は、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳らが並ぶ。
55年体制の色濃い面子…そんな時代。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/11/185850
河野本道氏によれば、単語の意味合いが変わったり、「民族」という単語がくっつき出したのはこの'70であり、それが定着してきたのが'80と言っている。
上記の様な過激派活動から離脱して、普通に教職についた者が現役になる頃。
そんな刷り込みが強くなっていっても、何の疑問も出ないであろう。
さて、内容について…
最初に述べたが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
結城氏の主張とは逆に、
・擦文土器は土師器の影響を帯び完成に至る
・弥生,古墳期の本州の影響は北東北や北海道でも検出され出した
ここまではほぼ確定。
故に血脈論は別にしても、文化の受容があり活発に交流を繰り返していたのが明らかになった。
まぁ結城氏が名指しした、騎馬民族征服論もコロボックル説も最早形骸化しているし、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
1970年段階で、「物証的には明確じゃないが、近世以降にそこにいたのはアイノだから、恐らく繋がってんだろな~」と新北海道史に記載したのは、当の結城氏が断罪しようとした高倉博士や名倉博士ら編纂委員会のメンバー。
まぁ断罪と言ってもむしろ「未開とバカにされた、差別だ」というもの。
双方「繋がってる」と言う事では一致しているのだ。
これが河野本道氏が言う「忖度」の一部だろう。
これを風刺した作品がある。
先日亡くなられた高橋ユキヒロ氏が参加していた「YMO」のアルバム「増殖」の11曲目「スネークマンショー」をお勧めする。
論客は、本質は同じ事を言っていても「自分と一言一句同じく言わぬと納得しない」…
この辺、我々とはちょっと違う。
未開と言われて腹が立つなら、「文字を見つけて」叩き付ける。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/19/202122
北海道には往古文字はある…如何か?
元へ戻る…
まぁ一冊の雑誌で、当時の姿が全て解る訳ではないが、一定世代より年齢が上ならば記憶しているから、ある程度納得だろう。
結城氏はその後の研究を知らない。
それに彼は研究者ではなく政治的活動家。
リアルタイムに進み、バブルによる開発で一気に緊急発掘調査が進んんだり、古墳の発掘が進んだ事を知らない。
こんな主張になるのは止む終えないのだ。
しかし、現代の方々は違う。
それらを博物館,資料館、書籍で目の当たりに出来るのだ。
つまり、現代に於いて、目視で似てるからといって縄文→アイノが直結するなどとの主張は、「結城氏の残照」を愛でているに過ぎないだろう。
それなら、直結する物証を探して時系列上に並べれば良いだけ…我々が文字の痕跡を探す様にだ。
だが、結城氏の後を追う者も伊達ではないと思うが。
アイノ文化推進法らを「活動家と同世代らの政治家」に可決させたではないか。
政治活動の結果、予算がついた。
これは、野党側の政治家の力ではムリ。
与党側の議員が賛成せねば予算可決しない。
地味な活動の結果だと言わざるを得ない。
結局「何もしない者」は、「何か実働を積み重ねた者」には敵う事はない。
地味な活動をしてきた者を嘲笑するのも如何なものか?…結果が出せないのなら。
さて、当時の世相を含めて振り返るなら、「否定された縄文=アイノ説」が何故度々浮上するか?は、新社会主義活動の延長線上…と、言う断片が一つあるだろうと言う事は想像に易しい。
が、それは学術的裏付けがある訳ではないのもまた解るのではないだろうか?
で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631
その残照を「知的血脈」に持つ者は、なかなかそこから抜け出せない故に、河野本道氏の問いかけに答える事は出来ていない。
何故そう言い切れるのか?
中世が空白期であるにも関わらず、「アイノはそこには居なかったんじゃないか?」を仮説出来る者が居ないから。
我々の様に、両面から当たる様な事はない。
まぁ上記も、我々の目から見た事に過ぎない。
でも、世相を重ねれば、納得出来るのではないだろうか?
おっと、大事な事を忘れてはいけない。
何故この「残照」を度々浮上させなければならないのか?
ここを考察してみよう。
結城氏のこれら主張は、新社会主義活動の影響を受けるのは、世相や人脈から概ね納得戴けるだろう。
結城氏は、
自分達は縄文の血を引く先住民だとした上で、
『「弥生文化=日本文化」を総括することが出来るのは、縄文文化の側からであり、対立面の原点を探求しなければならない。』
としている。
つまり、征服された側が征服した者を裁けると言う論理。
「縄文vs弥生」と言うの対立軸を「前提」に設定しておかないと、成り立ちはしないのだ。
当然、教育上、頭にこれがある方々は何気に引っ掛かる。
だから、新社会主義系の主張としては、これを浮上させなければならなくなる。
それがないと裁く大義が無い。
もっとも、擦文文化の形成過程を見ただけでそれが成り立つ事もないと立証されてるんだが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/14/154855
我々の原点はここ。
最北の国衙、秋田城と札幌C504遺跡の関係を見るが良い。
だから、北海道の史書には殆ど秋田城が登場しない。
何への忖度かは知らないが。
だから、我々はそんな「残照」に全く引っ掛かる事はないし、平気で「空白期に本当にそこに人は住んでたの?」なんぞと疑問に思う事が出来る。
何故ならば、こんな風になるまで、真面目に歴史の勉強なぞしてこなかった。
先入観も刷り込みも全く無い。
学閥の意向も諸氏の立場も丸っ切りきにする立場にない。
だからそんな疑問を持つ事が出来る。
何も知らなかった事を恥じたから、学び直しているだけ。
「裸の王様」は我々には裸に見えるだけ。
参考文献: