北海道中世史を東北から見るたたき台として−10…到達、これが最後の「九州・沖縄編」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/08/225208

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−9…懲りずに「中国編」」

さて、北海道中世史を東北から見る基礎知識として我が国の全体像を見てみる中世墓確認ツアーも、ここ「九州・沖縄編 」で終焉を迎える。

早速見てみよう。

 

福岡県…

・遺跡総数

657

・土葬or火葬

土葬→308

火葬→79

・特徴ある副葬

古銭→23

ガラス玉(水晶,土玉含む)→7

鏡→21

鉄鍋→4

鉄釘→45

刀剣(刀子含む)→69

陶器,かわらけ→324

漆器→7

仏具(五輪塔,板碑含む)→21

・特徴ある墓制

周溝墓→9

鍋被り→0

石積塚→10

 

佐賀県

・遺跡総数

174

・土葬or火葬

土葬→106

火葬→15

・特徴ある副葬

古銭→9

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→5

鉄鍋→0

鉄釘→11

刀剣(刀子含む)→11

陶器,かわらけ→109

漆器→4

仏具(五輪塔,板碑含む)→10

・特徴ある墓制

周溝墓→15

鍋被り→0

石積塚→2

 

長崎県

・遺跡総数

12

・土葬or火葬

土葬→10

火葬→1

・特徴ある副葬

古銭→1

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→0

鉄釘→3

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→11

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

大分県

・遺跡総数

193

・土葬or火葬

土葬→72

火葬→16

・特徴ある副葬

古銭→7

ガラス玉(水晶,土玉含む)→7

鏡→13

鉄鍋→1

鉄釘→20

刀剣(刀子含む)→37

陶器,かわらけ→75

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→6

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

熊本県

・遺跡総数

134

・土葬or火葬

土葬→77

火葬→16

・特徴ある副葬

古銭→2

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→3

鉄鍋→1

鉄釘→7

刀剣(刀子含む)→10

陶器,かわらけ→75

漆器→1

仏具(五輪塔,板碑含む)→7

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

宮崎県…

・遺跡総数

109

・土葬or火葬

土葬→38

火葬→7

・特徴ある副葬

古銭→15

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→4

鉄鍋→4

鉄釘→5

刀剣(刀子含む)→11

陶器,かわらけ→35

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→4

・特徴ある墓制

周溝墓→3

鍋被り→0

石積塚→2

 

鹿児島県…

・遺跡総数

44

・土葬or火葬

土葬→17

火葬→7

・特徴ある副葬

古銭→5

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→1

鉄鍋→0

鉄釘→0

刀剣(刀子含む)→3

陶器,かわらけ→19

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→0

・特徴ある墓制

周溝墓→3

鍋被り→0

石積塚→1

 

沖縄県

・遺跡総数

41

・土葬or火葬

土葬→29

火葬→1

・特徴ある副葬

古銭→0

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→1

鉄鍋→0

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→15

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→6(但し岩陰墓への石積み追加を含む)

 

以上である。

では従来通りのテーマごとで。

 

A,土葬or火葬…

各県毎の比率は、

福岡…ほぼ80:20

佐賀…ほぼ90:10

長崎…ほぼ90:10

大分…ほぼ80:20

熊本…ほぼ85:15

宮崎…ほぼ85:15

鹿児島…ほぼ75:25

沖縄…殆ど土葬

となる。

九州一帯であまり大きな差は出ておらず、殆ど火葬墓が記載されない沖縄を除けば割と近似。

一応、沖縄の歴史はよく解らないが、火葬(?)事例を挙げておく。

浦添市浦添ようどれ」13後世紀?・15世紀~近代…

「墓の型式的な呼称はないが、掘込墓石の範疇と考える。岩盤を掘り込み、短い墓道を有する墓室を2基(英祖王陵と尚寧王陵)造り、石厨子(石棺)を置く。この墓室の奥には複室と言われるやや小さな墓室がさらにある。この墓の前面には付属施設と思われる大規模な石積みが大きく3段造られ、各々平坦面が形成される。その平坦面には13世紀後半および14~15世紀の瓦溜りや金属工房跡とされるとりべや銅滓や青銅剥片や銅製品が出土する地点がある。」

「石厨子は中国産輝緑岩製で、家形を模す。その台座には蓮弁、鹿・馬などの動物、棺身には阿弥陀如来地蔵菩薩の像容が彫刻される。屋根には、蓮弁(高麗系)、巴(大和系) 瓦などグスク・近世の瓦を模す。」

「墓室の石厨子は英祖王陵には3棺、尚寧王陵には4棺の石厨子(石棺)が ある。この石厨子の中には、焼骨および洗骨したものと思われるものなども納められている。浦添ようどれも、玉陵と同じく、伝承にある年代に現在の形で構築していたかは不明である。墓室前面に尚寧王代の万暦四年(1620) 碑文があり、そのころに修復したと書かれる。金属工房跡で見つかった銅製品は、木製厨子(木棺)の飾金具とされる。」

との事。

 

B,特徴ある副葬について…

気になった二点を紹介しよう。

・螺旋状?…

この上,右が螺旋状に巻いている様に見えた。

北九州市「椎木山遺跡」中世前~中・18世紀中…

折角なので左隣の円盤、下の玉ごと発掘調査報告書で確認しよう。

「5.鉄製品(第29図、図版第六一)

第Ⅲ地区の第40号墓から出土した副葬品である。28は錆が著しく、一部を欠損しているためその形状は明確ではないが、本来長辺10.5cm、短辺9.5cm、厚さ0.3cmを測る不整八角形の板状を呈するものと推定される。厚さはほぼ一様であ る。ほぼ中心にはタガネのようなもので一方から孔が穿たれ、そのために反対側は肥厚している。副葬時に布で被われていたらしく、一部に布目の痕跡がみられる。布目は孔を穿った面より反対側の面に多くみられ、しかも布が重なり合っているところから孔を穿った面を表とし、 余った布を裏で重ねたものと思われる。これは出土状態とも一致するところである。

29は28の上に乗った状態で出土したもので、28と同様錆が著しい。一部を欠損しているが復元は可能である。径3.5cm~4.5cmの小型の鉄輪を径7cm~8cmの大型の鉄輪に繋げたもので、大型の鉄輪は2個あり、それぞれに小型の鉄輪が7個及び8個繋がっている。さらにこの大型の鉄輪は互いに繋がっているものと思われる。また鉄輪はいずれも断面円形を呈し、径は0.4cm ~0.5cmを測る。いずれも用途は不明である。」

「6.玉(第29図、図版第六一)

第Ⅲ地区の第40号墓から鉄製品と伴出したものである。3個以上が出土したが風化が著しく原形を保っているのは1個だけであった。径約1.4cm の球形に近い形状を呈し、ほぼ中央部に径約2.5cmの孔が穿たれている。表面は研磨され、色調は灰白色を呈する。石材は長石が使用されている。」

以上で、同じ墓の副葬。

残念ながら螺旋状に巻いている訳ではなく、大きな環に小さな環を通して繋げている様だ。

仮にこの円盤が八稜鏡の破鏡を模した「儀鏡」であれば、環は「錫杖」、玉は「数珠」で説明がついてしまいそうだが。

因みにこの「第40号墓」、こんな風なのだ。

火葬を別で行い方形配石内の小穴に火葬骨を収めた「方形配石火葬墓」で、周辺は集石,配石を行った46基の中世火葬墓群で、火葬骨は蔵骨器,小石室,小穴らに納められている。

残念ながらビンゴとはならない。

・垂飾

また、九州では「数珠」だけでなく「ガラス玉,水晶玉」の材質記載も多く見受けられる。

そんな中、「垂飾」の記述がある。

これも早速、発掘調査報告書を。

佐賀県大和町「久池井一本松遺跡」 9中~10中世紀…

「(4) 玉類(Fig. 194)

SP33土壙墓から一対の水晶製垂飾165.

166が出土した。いわゆる流滴形で,長さは1.2 cm,上端に両側から径1mmの孔を穿けている。透明であるが、火熱を受けた為か、2点ともひび割れが進んでいる。」

この「久池井一本松遺跡」は、古墳期〜中世で造営された古墳群,墳墓群「礫石遺跡」群の中の一つ。

古墳期から古墳造営され出し、一度8世紀位に縮小、9〜10世紀位にバタバタ木棺墓や土坑墓が増え出している。

火葬に纏わると思われるのはこのSP33のみで、周囲に対しては特異点

記述もここまでで、詳細等に言及はなかった。

さて…

「垂飾」についての記述は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編(1)(2)」を確認」…

京都に続き2例目。

ふと気が付いたのだが…

そもそも、北海道「美々4遺跡」の「垂飾」も流滴形。他の事例は「石質」なので螺旋状にはならないのは当然。

螺旋状に拘る必要があるのか?

何故ならば、茄子型や流滴形を金属で簡易的に作るならどうするか?

貴金属にすれ鉄線にすれ、単にクルクル巻いて上下から潰せば簡単に作る事が可能だからだ。

この垂飾をわざわざ「螺旋状,コイル状」とカテゴライズする必要があるのだろうか?…だ。

何故、そんな事を考えたのか?

・用途不明である。

・北海道一連の副葬である「ガラス玉」「和鏡」も北海道で作られた訳ではなく、その双方とも本州以西で出土実績がある。

この二点から。

装飾品の「チェーン」の製作工程をググってみると、

①金属線を棒らにコイル状に「巻く」

②金ノコらで縦に切る

③環状にバラけた物を繋げていく

これが一般的な様だ。

巻く工程は入る模様。

さすがに鉄線を金ノコで切るのは大変だろう。

が、加工母材が鉄線しか無ければ、鎖状にするだろうか?

素朴な疑問。

とりあえず、「垂飾」の用途や意義がまだ解っていないので、その辺はおいおい確認してみるとする。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

D,集石塚について…

さて、上記「椎木山遺跡」の様に、「火葬(荼毘)を行わず、埋葬のみ行う方形配石火葬墓」は今迄もあちこちにあった。

概ね、

①他の火葬施設で火葬して収骨

②蔵骨器へ納められる

③方形配石の基壇に蔵骨器を納めて上から集石

④基壇中央に五輪塔,宝篋印塔らを建てる

こんなプロセス。

北海道余市町「大川遺跡」と伊達市「オヤコツ遺跡」の各一事例、そして北陸では、方形配石内で火葬(荼毘)…被熱痕と火葬骨検出…ここが違いだと言うのは概報。

では九州は?

実は「有る」様だ。

二点報告する。

・福岡県鞍手町「山鹿城跡」 中世後期…

「山鹿城跡内に造営された墓地で、五輪塔・宝篋印塔を墓標とする火葬墓が残る。調査区内から石囲いした区画墓内に墓標を設置。9基の墓が確認されている。」

ウィキではあるが…

「天慶年間鎮西奉行となった藤原秀郷の弟・藤原藤次により、築城された。藤次は姓を山鹿に改め、山鹿氏は当城を代々の居城とした。寿永2年(1183年)の平家の都落ちの際には、安徳天皇をはじめ平氏一門を山鹿秀遠が当地に迎えた。秀遠は平氏とともに敗れ、当城も鎌倉幕府に没収された。鎌倉時代には宇都宮家政に山鹿氏の旧領が与えられ、以後は山鹿姓を名乗った。室町時代には庶流の麻生氏花尾城で権勢を伸ばし、本家の山鹿氏も支配下に入った。やがて大内氏が北九州方面に進出すると、麻生氏とともに麾下に組み込まれた。戦国時代には麻生氏の出城となり、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後は廃城となった。」…

と、あるので「麻生氏」の墓になるのか?

実はアッとなったのは、そこではない。

この城の三ノ丸、現在「白山神社」なのだそうだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…

発祥は北陸は白山。

勿論、現状はここまで。

さて、北陸と繋がるだろうか?

確認続行である。

豊後高田市「ナシカ谷遺跡」14世紀…

「12×5mの範囲に集石が認められるが、3群が連結した形態を持つことが観察される。この集石下には4基の墓が確認されている。1・4号墓器は石積みによる方形の石室状遺構が確認でき、一方、2・3号墓は素掘りの土壙状を呈する。2・3・4号墓からは、被熱痕跡や焼土・炭化物

が確認されている。」

「1号墓(短刀1点・土師質土器片)、2号墓(鉄釘33点・土師質土器片・ 瓦器碗)、3号墓(土師質土小皿3点・土師質土器坏3点・瓦器椀1点、4号墓(土師質土器小皿7点・土師質土器坏4点・短刀1点・鉄釘)」

特に4号墓はピタリ合致、それも鉄釘が検出されるとなると、木棺に入れてから火葬(荼毘)したのだろう。

この国東半島そのものが「六郷満山信仰」の地で、山を挟む杵築では磨崖仏が有名な修験の山。

納得である。

少なくとも「ナシカ谷遺跡」はビンゴだろう。

他にも幾つか確認したい遺跡はある。

北海道以外にも、火葬(荼毘)を伴う方形配石火葬墓はあり、修験に関わりを持つと思われる地にそれはありそうだ。

なら、北海道は?

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら十字型を成すものは見当たらない。

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら中世では見当たらず。

西には今のところ無し。

 

さて、如何だろうか?

国内全体像や特異点として取り上げた内容に関してはもう一項書いてみたいと思う。

あくまでもここが今後の資料館巡りや種々確認の基礎知識となる。

つまり、スタートラインに過ぎない。

これからである。

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−九州・沖縄編(1)−」 中世墓資料集成研究会 2004.10月

「中世墓資料集成−九州・沖縄編(2)−」 中世墓資料集成研究会 2004.10月

「椎木山遺跡-若松区大字蜑住字椎木山所在火葬墓群の調査-」 北九州市教育委員会  1977.3.31

「礫石遺跡-九州横断自動車道関連埋蔵文化財発掘調査報告書(9)-」  佐賀県教育庁文化課  1989.3月