https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…
折角だから、この際他地域へ同様の確認を伸ばしてみよう。
理由は簡単。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…
「方形配石火葬墓」については、こんな推測をしてはいるが、そのルーツが何なのか?はまだまだ。
本当に北陸で良いのか?
更に「十字型火葬墓」が全く見えて来ない。
これが逆に北方由来で…なんて話になれば、話があべこべになる。
と言う訳で、ある程度そのアウトラインが見える迄は文献を探して確認をせざるを得ないと考えたからだ。
で、順番通りとも思ったが、そこは文献入手の難易度にもよる。
近いとは言え、北海道同様に本州と海を隔てる「四国編」に行ってみようではないか。
勿論、同じ視点,カウント方法を続ける。
香川県…
・遺跡総数
26
・土葬or火葬
土葬→16
火葬→5
・特徴ある副葬
古銭→2
ガラス玉(水晶,土玉含む)→1
鏡→2
鉄鍋→1
鉄釘→3
刀剣(刀子含む)→9
陶器,かわらけ→16
漆器→0
仏具(五輪塔,板碑含む)→1
鈎,ヤス→0
甲冑→0
骨角器→0
装飾品→0
・特徴ある墓制
周溝墓→1
鍋被り→0
石積塚→1
徳島県…
・遺跡総数
36
・土葬or火葬
土葬→12
火葬→12
・特徴ある副葬
古銭→0
ガラス玉(水晶,土玉含む)→16
鏡→0
鉄鍋→4
鉄釘→2
刀剣(刀子含む)→3
陶器,かわらけ→16
漆器→1
仏具(五輪塔,板碑含む)→5
鈎,ヤス→0
甲冑→0
骨角器→0
装飾品→0
馬具→1
・特徴ある墓制
周溝墓→0
鍋被り→0
石積塚→0
愛媛県…
・遺跡総数
78
・土葬or火葬
土葬→33
火葬→3
・特徴ある副葬
古銭→2
ガラス玉(水晶,土玉含む)→2
鏡→4
鉄鍋→3
鉄釘→3
刀剣(刀子含む)→4
陶器,かわらけ→33
漆器→2
仏具(五輪塔,板碑含む)→5
鈎,ヤス→0
甲冑→0
骨角器→0
装飾品→0
・特徴ある墓制
周溝墓→0
鍋被り→0
石積塚→0
合葬墓→1
高知県…
・遺跡総数
28
・土葬or火葬
土葬→4
火葬→7
・特徴ある副葬
古銭→3
ガラス玉(水晶,土玉含む)→1
鏡→2
鉄鍋→0
鉄釘→0
刀剣(刀子含む)→1
陶器,かわらけ→9
漆器→0
仏具(五輪塔,板碑含む)→0
鈎,ヤス→0
甲冑→0
骨角器→0
装飾品→0
・特徴ある墓制
周溝墓→0
鍋被り→0
石積塚→1
以上である。
では、同様の検討を。
A,土葬or火葬…
概数で比率を表すと下記の通り。
香川県→3:1
徳島県→1:1
愛媛県→11:1
高知県→2:1
記載を見る限り、「地域の墓域」と言うより「屋敷墓」と言う感じである。
平地建物に隣接するケースがあるせいか、屋敷墓と言う記述が目立つ為だろう。
愛媛県で火葬が目立つのは、寺社隣接で検出されたのが大きいかも知れない。
一般の墓と考えれば、若干土葬が多い傾向なのではないだろうか。
土坑墓の形は「隅丸長方形」又は「長楕円」が多く、明確に人骨検出の場合は主に仰臥伸展葬か仰臥屈葬の模様で、あまり小判型&屈葬…みたいな物は記載ない。
また火葬墓は南東北〜北関東一帯の主流であるT型はほぼ無い。
ここで見る限りは方形に石を並べた物が多いかと見える。
B,特徴ある副葬について…
地域により差があるもので、北関東,北陸より北に比べて副葬が少ない気はする。
レアなケースを紹介する。
・香川県綾南町「西村遺跡」S31-ST01/12世紀
「十瓶山南麓から派生する斜面地上に立地する。土器生産を生業とする集落。」
「(川北地区)S31-ST01/調査区西辺において土坑群に接して単独で検出された。上部では須恵器大・壺を破砕して埋置していた。」
「S31-ST01/白磁椀、刀子、紡錘車、環状鉄製品、鉄鈴、須恵器甕・壺、土師器坏、黒色土器が遺体の右側から出土。」
「S31-ST01/人骨残存。西向き側臥屈葬。環状鉄製品は桶状容器の部品と推測できる。」
なかなかドキっとする画だが、「耳飾」ではなく桶状容器の部品と推測している。が、その桶状容器の本体が何故か副葬品の中に無い。
わざわざ外して入れたのか?
と、一番気になるのは「黒色土器」だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/05/204628
「関東視線で見た「蝦夷(エミシ)の赤い瓷」…赤彩球胴瓷、長い竈の煙道、馬の飼育、黒色土師器、そして「エミシの移配」とは何だったのか?」…
幾ら土器生産集落とは言え、8∼9世紀では関東ですら古い様式とされる「黒色土器」を副葬?
「くすんだ」古い形態か?「光沢ある」東北型か?気になるところ。
西村遺跡では、別地区で四国の中世副葬で殆ど無い「漆の塗膜」が検出されたり、刀が検出したりして、若干見慣れた感。
少々引っ掛かる遺跡な気も。
「 SK-7・SK-11は楕円形の土壙で、リン分析より土壙墓と判断される。SK-52は明確な掘方は確認さていないが、遺物の出土状況より土壙墓と判断される。」
「SK-7からは短刀,SK-11からは短刀と瓦質土器が出土。SK-52からは湖州方鏡1面,古銭1点,刀子1点,土師質土器杯2点,白磁碗1点が近接した状態で出土。」
と、あり「湖州方鏡」の登場。
湖州鏡は方鏡以外なら、愛媛県松山市「平田七反地遺跡」12~13世紀、同「古照遺跡」13世紀前に事例がある。
鉄鍋は一件のみで、他はほぼ土鍋で羽釜も土釜の様だ。
C,周溝を含めた墓制変遷…
我々がよく見る円形周溝ではない形だが、香川県善通寺市「旧練兵場遺跡」12末~13前世紀。
「調査区東端から検出。土壙墓付近から軸を合わせるL字状の溝を検出。」
「小刀1、刀子2、不明鉄器1(全て肩 右)、砥石、瓦器椀、土師器椀・坏
が出土」
「周溝で区画された塚であった可能性あり。」
とあり、土坑墓の周囲に方形周溝が施されている。
丸亀市「川西北・原遺跡」12前世紀でも同様に方形周溝が施された遺構がある。
図の様に、単なる区画整理の溝ではなく、墓それぞれに溝がある様で、同時代のトレンドなのだろうか?
D,集石塚について…
一箇所「方形配石火葬墓」がある。
「集石遺構を8基検出し、内3基は方形 の基壇を有する。掘立柱建物跡の周囲に墓域を形成していたとみられる。」
「被覆に混じって常滑焼、白磁皿,土師器杯・皿,瓦質土器釜,スラグ等が出土。」
「中村市は鎌倉時代初期には九条家の荘園となり、1250年には一条家へ譲渡されたとされる。また、本遺跡は中世寺院である香山寺の周辺に位置する。なお、平安時代後期の須恵器を骨壺とする火葬墓も確認されている。」…との事で、他の調査区では火葬骨が検出された同様遺構もある。
方形配石を土壇とし五輪塔を配した土葬墓は幾つかあるが、この一帯のみの模様。
ちょっと検索してみた。
https://shinden.boo.jp/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E3%83%BB%E9%A6%99%E5%B1%B1%E5%AF%BA
神殿大観様のページ。
「南仏は金剛福寺中興とされる僧侶。一条天皇の時代、御所の左近の桜、右近の橘が同時に枯れたので諸国の僧を招いて祈祷させたが効がなかった。南仏は山伏の南光と共に上洛して祈祷したところ木はたちまち蘇った。褒賞を訊かれた南仏は「笑い不動」を所望し、与えられた。南仏は金剛福寺に帰らず、香山寺に留まりこの地で没した。南仏の像が作られ祀られていた。南仏堂はなくなったが像は現存するという。」
南仏という山伏が関連する模様。
関連あるのだろうか?
一条天皇は概ね11世紀なので、少々時代背景は合わないが、ここは弘法大師縁の地で、当山派修験が関連してもおかしくはない。
現状はここまで。
E,十字型火葬墓について…
残念ながら見当たらず、四国由来 ではなさそうだ。
F,鍋被り墓について…
残念ながら見当たらない。
G,板碑の伝播ルート…
四国では板碑より五輪塔主流の模様。
H,その他…
少し気になった事例を。
・愛媛県玉川町「奈良原山経塚」平安末
「銅宝塔1基・銅経筒1口・和鏡(円鏡 3.方鏡2)・桧扇2柄・金銅簪1本。 青白磁合子2口・短刀18口・小鈴および瓔珞金具等・瓶3口分・銅銭250余枚」
「昭和9年、標高1,042mの山頂に位置する奈良原神社境内南東裏から 発見された。埋納品は国宝に一括 「指定されている。」
これは逆さまにした瓶の中に銅宝塔,経筒を納めた?
小堂に見立てたのだろうか?
ここまでのものは初めて見た。
国宝指定との事。
「松山平野北部、高縄山系に源を発する小河川によって形成された扇状地に位置する。中世においては河野氏の家臣、大内氏の支配下にあった。」
「土坑墓3基(c-1区)、土坑墓1基(d-2区)」
「c-1区より楠葉型瓦器が出土し男女1対の遺体が埋葬(1号土坑墓)、土師器皿,瓦器椀,湖州六花鏡(2号土坑墓)が出土し女性の遺体が埋葬 (2号土坑墓)、須恵器、土師器,瓦器片・菊花萩双鳥鏡が出土し女性の遺体が埋葬されていた (3号土坑墓)、d-2区1号土坑墓からは遺物は出土し。」
「飛鳥~奈良時代の赤色彩土師器や10世紀前後の緑釉陶器が出土しており、古代において周辺に公的施設・有力階層の居住区があった ことを想定している。また中世には大内城などの中世城館が点在し ている。」
この遺跡、先の湖州鏡の件で紹介したが、気になったのは実はこちら1号土坑墓が写真の左上の様に「合葬墓」である事。
かなり珍しい。
ここで「河野氏」登場。
で、合葬墓…
何故、河野氏?
・元々が伊予水軍の将の一族。
・承久の乱で後鳥羽上皇についた「河野通信」は捉えられ、陸奥国江刺へ流配され出家し、国見山極楽寺で生涯を終える。この国見山極楽寺こそ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134
「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…
国見廃寺の後の姿と伝わる事。
・「河野通信」の孫が、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214
「津軽,秋田に残る金石造文化財…紀年遺物に刻まれた安東氏の宗教観」…
十三湊安東氏が信仰した「時宗」の開祖「一遍上人」であること。
そして東北各地に「時宗の板碑群」が点在する事。
・南部氏侵攻により十三湊陥落後、傀儡化→反旗を翻し島渡りした「安東政季」に帯同したのが「河野政通」で、伊予河野氏の後裔を名乗った事…
etc…
割と河野氏に縁がありそうな点は本ブログでもポツポツ登場してきている。
あまり見慣れない「合葬墓」で、この様に「河野氏」が登場するのもなかなか不気味ではある。
まして、湖州六花鏡や菊花萩双鳥鏡…
まぁ、邪推はここまで。
以上の通り。
如何だろうか?
二点触れたい。
①墓の形態…
こんな風に一連で墓制を見てくると、東北らで見られた「小判型土坑墓+屈葬」は四国ではあまり見られない。
むしろ、長方形、隅丸長方形、長楕円形の墓が主流に見える。
あれ?
北海道の中世は?
よくよく考えてみると前にも書いたが、
・続縄文系→小判型+屈葬…
・後に本州末期古墳集団の影響で周溝を伴う長方形…
・中世では隅丸長方形や長楕円形…
むしろ中世では、関東以西に近い?
四国の実績では、河野氏縁の墓のなどはかなり似ているのは確か。
これ、ただ単に似るだけなのか?
そうでもないのかも知れない。
何故なら、吾妻鏡にある「蝦夷ヶ島に賊や海賊を流刑にした」…この記述とは一致して来る感じなのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/25/193945
「実は「蝦夷の人々」の定義そのものがバラバラ…この際、「新羅之記録」を読んでみる」…
「そもそもその昔は、この国は上りに二十日程、下りに二十日程かかっていた。松前から東側は阪川(筆者註:ムカワのルビ)まで、西側は與依地(筆者註:ヨイチのルビ)まで人が住んでいた。右大将源頼朝卿が進発して、奥州の泰衡を追討された時に、糠部津軽より多くの人たちがこの国に逃げ渡って居住したという。彼らは薙刀を舟舫に結び付けて、櫓櫂にして漕ぎ渡ったという。このことから、この国の艋舴の車楷は薙刀の形をしていたという。奥狄の舟は近頃まで楷を薙刀の形に作っていた。今、奥狄の地にその末裔の狄となってそこに住んでいるといわれる。」
「また、実朝将軍の代に、強盗・海賊の仲間共数十人を捕まえて、奥州外ヶ浜(現青森市付近)に送り、狄の嶋に追放された。渡党というのはそれらの末裔である。」
「それ以外にも嘉吉三(一四四三)年冬、下国安東太盛季が小泊(現青森県中泊町)の柴館を落とされ海を渡った際に、あとを慕って大勢の人々が押し寄せたという。今において、その末裔の侍共がここにあるのである。」
皆さん大好き「新羅之記録」である。
ここで改めて北海道へ渡ったとされる集団を住んでる地域に当て嵌めると…
B,奥州藤原氏の落人は川を遡り奥蝦夷領域に行き、末裔は狄化している。
C,鎌倉幕府に流刑にされた人々は、渡党として暮らした(奥蝦夷領域へは行かず…か?)
D,十三湊陥落後に安東盛季に帯同した人々は道南へ。
となると、口蝦夷領域に住んだのはA,とC,になる。
C,の場合は元の居住地が都や畿内、鎌倉周辺ら都市部が主であろうから、そちらの墓制文化を持ち込んでも違和感無しだろう。
こんな風に考えると、吾妻鏡と一致…としても、そんなハズレはしなくなってくる。
この辺は、先ずは一連の資料集成を拡大していくしかないだろう。
②鍋の副葬…
実は松山市「古昭ゴウラ遺跡」で一件「鉄鍋」の出土があるが、これはイレギュラーケース。
四国は殆どが土師器系の土鍋、土の羽釜迄ある。
これも追加確認は必要だが…
鍋の副葬は多い少ないは別として、今迄確認した地方の何処にでもある。
北海道固有とは言えないだろう。
で、北海道〜東北で目立つ鉄鍋は、北陸や北関東、そして四国に至れば土鍋が主になる…これ、単に主に使われる生活用品としての「鍋文化圏」か鉄or土、これを表すだけではないか?だ。
北海道に限らず鉄鍋文化圏なら鉄鍋を副葬するし、土鍋文化圏なら土鍋を副葬しているだけの事。
特別視する必要があるのか?だ。
各地の墓相を俯瞰して見てくると、そんな風に感じるのだ。
北海道ではかなり強調される傾向はあるのだが。
つか、こんな視点で他の地方と比較した事があるのだろうか?
考えてもみて欲しい。
鉄鍋にしても漆器にしても中世道内で作った記録は無いのだから、産地を追えばそことの物流痕跡は見えてくる。
何故、北海道はそれをしないで、単独で物事を済ませようとするのか?…これが全く理解不能。
敢えて言うなら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
「生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる」…
土師器系や瓦質系が主流の各地に比べ、かなり純然とした「鉄鍋+(貿易含む)陶磁器+漆器」…この食器文化は、北海道、東北そして都になる様だが。
勿論これ、平安期からの様で、平泉との関連が考察される様だが…あれ?①の件は……はて?
さて…
あれこれ書いたが、もっと日本列島の中世墓相の比較を続けていこうではないか。
こんな風に並べてみても、人の流れが見えて来たりする。
因みに…
先に時宗の板碑と一遍上人に触れたが、時宗を南無阿弥陀仏の念仏と共に日本中に広めたのは一体誰か?
最近気がついたが…
室町成立の「七十一番職人歌合い」の山伏と巫女。
巫女の赤丸のこれ…鏡では?
さて、先へ進もう…
参考文献:
「中世墓資料集成−四国編−」 中世墓資料集成研究会 2004.3月